夜の訪れ⑧

 ◆


 ――シィィ、る、ふぁ、だいじょう、ぶ、だ。おいで、なさい


 ――しぃぃ、るファ…


 オドネイの抑揚のない声がその場に響いた。

 情操というものが完全に欠如しているようにシルファには聞こえる。


 それがたまらなく辛い。

 なぜならシルファの知るオドネイは、例えちょっとした雑談にも深い知性を感じさせるような男であったからだ。


 かといって知に傾斜した無愛想な学者然とした男ということではなく、微笑ましい稚気のような、そんな雰囲気を常に纏っていた。


 だがシルファには父オドネイがその接しやすい気配を意図的に作り出し、周囲の者へ気を遣わせないように配慮していた事を知っている。


 シルファにとっては優しい父親だったのだ。


「お父様!どうされたのですか?なぜ私達を襲うのです!」


 シルファの叫びは、不思議と彼女の自身にも覇気がないというか腰が据わっていない声だな、と思わざるを得ない薄っぺらいものだった。


 グランツとアニーはそんなシルファの様子を横目で見ながらも、既に臨戦態勢を整えている。


 ◆


 ――なんでぇ、なああああああんでぇ襲う?


 ――わぁぁからなァイイイイひっヒィヒヒヒ!


 オドネイが狂気染みた哄笑をあげると、上半身を捻り、まるで平手打ちをするように腕を振る。


 当然平手は空を切るが、オドネイは構わず何度も同じ動作をした。


「お、おい…あれ…」


 グランツがオドネイが指さし、アニーに顔を向けた。


 アニーは自身の精神世界に鎮座する警鐘がブルブルと震えだし、次の瞬間にもガンガンと鳴り響くのを予見する。


 予見は正しく、警鐘は最大音量で激しく鳴り出した。その勢いときたら、乾燥した枯れ草の山に火をつけたかのように激しいものであった。


「伏せて!」


 アニーが叫び、すかさずグランツはシルファの頭を押さえつけて屈んだ。


 次瞬、頭上を何かが凄い勢いで通りすぎていく。

 そして激しい衝突音、破砕音。

 建物が破砕されたのだ。


 この空間内における建築物の強度は現実のそれと等しい。

 勿論現実世界での建物は無事だ。

 しかしこの空間で殺されれば、現実での再生はありえない。


 通り過ぎた“モノ”はオドネイの腕であった。


 オドネイの腕はその腕回りを倍ほどへと肥大させ、まるで芋虫のような節が新しく形成されていた。


 皮膚の色は淡い灰色と化しており、所々皮膚が破れて赤い色がのぞいている。


 肉だ。


 人間の肉体を最低限の形状のみを残し、可能なかぎりおぞましく変容させようと試みても“こう”はなるまい。


 変わり果てた父の姿にシルファは


「あ、あは…お、お父様、なんですか、その姿は…」


 泣きながら笑っていた。


 ◆


「お嬢!しっかりしやがれ!」


 グランツが荒々しく吠えた。

 シルファが動転するのは仕方のない事だが、今この場でやられては…


 グランツはシルファを無理矢理立たせ、仕方ないと一発頬を引っぱたいた。


 アニーは眉をあげるが、注意などはしない。


 言葉で分からなければ平手で分からせ、それでも分からなければ拳で説得し、それでも分からなければ術か剣をちらつかせるというのは冒険者の一般常識であるからだ。


 グランツがやらなければアニーがやるつもりだった。だが…


(グランツに任せたのは失敗だったかも…)


 痛烈に引っぱたかれたシルファは、その顔のみならず体まで吹き飛びかけた。

 音も打擲音というよりは鞭術の達人が放つ渾身の一撃のような破裂音が響き、要するにやりすぎであった。


「ッい、痛い!痛いです!…い、痛い…本当に痛い…」


 シルファの目の端に涙が浮かんでいる。

 頬はまっかに染まっており、これは場合によっては内出血をしているかもしれない。


 グランツは魔力により全身を強化したままシルファをひっぱたいてしまったのだ。


「す、すまねえ…!魔力が、いや、しかし魔力を、まて、本当に俺は、すまない…」


 グランツを睨みつけるシルファの目線には殺意が混じっている。


 電光石火、腰に差したショートスタッフを抜き放ったシルファが術式を放つ。


 狙いは勿論グランツではない。

 掌を広げシルファ達の方へ腕を伸ばしてきているオドネイだ。


 掌を広げて、というが掌も不気味な変容を遂げていた。


 一言で言うなら直径1メルトル程度まで肥大化し、指の先には切れ込みがはいっている。

 そして切れ込みの奥には瞳が覗いていた。


 愛する父親のグロテスクに過ぎる変容に、シルファは唇をかみ締めスタッフを握る手に力を込める。


 ◆


 シルファがショートスタッフに魔力を込めると、柄の部分に刻まれていた文様が蒼く光輝いた。


 そして手元でまるでバトンのようにくるりと回す。


 必然、光る文言もまた円を描き、その軌跡の残光が魔陣を形成。


「ジ・カカネグイ・ラ・ゲルガ!刺穿冰槍陣!」


 術式の起動言と同時に魔法陣から何十本もの細い氷の槍が飛び出し、オドネイの全身に次々と突き刺さった。

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