1-8. 青い海の星に生きるもの
際限なく海から突き立っていくメルヴィルクジラたちと、大荒れにうねる波から逃れ、波頭に艇底面を激しくぶつけながらソードオフは相棒の落下点へ艇を急がせた。
細く低い水柱からして致死的なダイブはしなかったようだが、高い波間に見慣れた茶髪はなかなか見えない。困ったな、あいつクジラに食われたぞと考えだすころ、ようやく、「こっちだ!」声が聞こえた。
しかしフィンレイは上半身だけで船べりにかじりつくと、乗りこむ間も惜しんで「出せ!」必死の形相で船体をばんばん叩く。理由は明白。山を産むごとく丸く盛り上がりゆく水面。また直下のクジラが水を押しあげているのだ。ソードオフは全速で回避の舵をとる。
クジラ噴出中心からやや離れ、安全圏まで脱したところで、ようやくフィンレイは船上にあがり、水獣もどきにブルッと頭を振って耳から海水を抜いた。
「ソード、ヨット船団は」
「見ろ」
ソードオフの指差す先に、フィンレイはしばし声を失った。そこには信じがたい光景が広がっていた。
怒号のような、絶叫のような――だが何かを訴えかけてくる胸に迫る咆哮を轟かせながら、白く輝く海神たちがつぎつぎと天へ突き立っては崩れていく。もしそれが無音の光景だったなら、海から島ほど巨大な白い蕾が生まれ、花弁が優雅に開きしな、たちまちねじれて散っていくような神秘の眺めに見えたろう。しかし彼らの圧倒的声量は水と大気のすべてを鳴動させ、着水衝撃で押し寄せる爆音と大波は漸水艇ごとレンジャーたちを翻弄した。
ほとんど天災といえる規模の、壮大で破壊的スペクタクル――その理由不明な暴発をつづける怒れる神々の足元を、彼らに比べればあまりにも細く小さく、華奢なヨットたちが器用にすり抜けていく。堂々と帆を掲げて、かけ声をあわせ、帆桁を回し、クジラと大波の合間をたくみに縫って。
水に浮くのみで飛べない船体、摩擦や波の抵抗に足をとられた鈍重な挙動。
構造的にエネルギー効率にすぐれた多くの航宙機や漸水艇を見慣れた目からすれば、ヨットの形も動きも洗練さからはほど遠く、非効率で不安定に見えた。しかし旧時代の船と、そこに乗るバハル人たちは、頭上を覆うほど巨大に襲いくる何段もの大波に対抗し、ためらうことなく前のめりに己が航路を突き進んでいく。
自然と同じだけの荒々しさを舳先に剥き出しにして。真正面から歯向かい、狡猾に逃げ、果敢に耐え、柔軟に挑みながら、剣の形をした船は力強く波濤を叩き斬っていく――。
「どうして事故らないんだ。レースヨットには衝突回避システムが搭載されてるのか?」
ソードオフが不思議がるのも無理はなかった。すべてのヨットは水中に潜むクジラの居所や動きを正確に把握しているとしか思えない。見ていると、メルヴィルが海上に頭を突きだすかなり前から余裕の回避機動に移っているのだ。
ダクの話では、ヨットはブルーボール再発見以前の仕様として、舵制御に干渉するコンピュータ類はいっさい搭載していないということだったが……。
ちょうどそのとき、ダクから安否を問う通信が入り、フィンレイは操縦席の無線マイクを取った。
「こっちは二人とも無事だ、ダク」
スピーカーから、ため息とも歓声ともつかない声が漏れる。
『ああよかった、そうですか! けがなどありませんか』
「ないよ、どうも。漸水艇も問題なし。たぶん」
『よかった。とても心配しましたよ、中継でメルヴィルたちがブリーチングしはじめたのが映ったので! クジラの真下にあなたがたが見えたときは……。そのうえ映像が途中で切れるし、漸水艇も破壊されたんじゃないかと』
「あー、うん。船の安全装置のおかげで助かった。こいつはいい船だな」
どうやらまずい映像は撮られずにすんだらしい。
無意味なボロを出す前に、フィンレイは何食わぬ口調で話題を変えることにした。視界のすみに、ナイフ付きOBCカメラを足先で転がす相棒が見えたときは、呻き声を出す寸前だったが。おいソード、
「それでダク。さっきは立てこんでて、ちょっと聞こえなかったんだが――この騒ぎは、いったいどういうわけだったんだ?」
『それなんですが。原因はサメ避けでした』
いや、クジラ避けとサメ避けというべきかな、と慎重にダクは言い直した。
レンジャーたちが録音して送った異常な周波の警告音。分析により、異なる二種類の音波が含まれていることが判明していた。
ひとつはメルヴィル向けの警戒音声。もうひとつは先日三人を襲ったシャドウリッカーのような、海峡に棲む凶暴な捕食生物に対する感覚撹乱波だ。
後者の音波を発生させていたのは、レース主催側が航路に設置し、今朝から運用を開始していた最新式サメ避け装置だった。まずかったのはサメ用とクジラ用、二つの音が干渉しあい、一定周期でメルヴィルの幼獣が発する悲鳴に似た音を発生させてしまった点だ。
家族で群れを構成するメルヴィルは仲間同士の絆が強く、知能も高い。子供を襲うサメのような天敵には、群れが一丸となって激しい攻撃を加えることもある。たとえそのときのサメの標的がクジラ以外の異種族であろうと、襲われているものを助けるために突撃したという観察例もあるほどなのだ。
予期せず合成されてしまった偽の悲鳴を聞きつけて、海峡の底をとおりかかったある群れが勘違いして寄ってきた――というのが、今回の事故に対するダクの見解だった。天敵に襲われ、殺されかけている哀れな仔クジラを救うために、大人たちが駆けつけたのだ。
そして海面にぷかぷか浮かんだまぬけな漸水艇の影は、彼らの目に、ありったけの打撃を加えて始末すべき憎い敵以外の何者にも見えなかっただろう。
フィンレイは長い息を吐いて首筋を撫で、やっと落ちついてクジラたちの海を見やった。
海と空をかき乱した狂騒は、まるで一瞬の白昼夢だったらしい。メルヴィルたちの数は減り、韻々と耳をつんざく咆哮も小さく、事態は収まりつつあるようだった。
クジラたちの胸中を察すると、フィンレイは少しおかしくなる。救うべき仔クジラも倒すべきサメもいないと今頃は気付いて、メルヴィルも奇妙な気分でいることだろう。
奇妙と言えば――最後尾のヨットが、豪快にジャンプしながら大波を乗り越えていくのを見守りつつ、フィンレイは再びダクに尋ねた。
「あんたは、ヨット選手たちは大丈夫だと言ったな、ダク。俺は信じられなかったが、実際どの船もクジラにぶつからず、すいすいあいだを抜けていったよ。なぜなんだ?」
『ああ……。星外にはあまり知られていない事実ですが、僕らにはわかるので。海中のどこに生き物がいるのか、聞こえるんですよ』
「どこにいるか聞こえる、だって?」
無線の聞きちがいか? フィンレイは反復したが、ダクはどこか申し訳なさそうな、恥じいるような声で返答してきた。
『はあ。ええと、バハル人は音を発する水中の生物や、音を反射する物体の形や位置を、聴覚で検出できるんです。私たちの可聴域は、遺伝的に
クジラの声は、彼らが海面に現れるそうとう前から選手たちに届いていたはずですよ――つまり、深度や速度が聞こえていたと思います。私は彼らが迂回すると思ったのですが、突っ切ったのなら、選手たちにはクジラを避ける自信があったんでしょう』
「へぇ……」
『とにかく無事でよかったです。かさねがさね申し訳ないんですけど、レース主催側と協議して、こちらの警報器を切ることになったので、助力をお願いできますか? うちのチームもそろそろ合流できると思うんですが』
「あ、ああ、もちろん了解。手伝わせてもらうよ。……ダク、最後にひとつ聞きたいんだが」
『はい?』
「その能力は、人為的な産物なのかな。つまり最初のバハル移民が、この星の海に適応するために自分たちのゲノムを改変したものだったのか?」
返答には、少しの時間を要した。
やがてダクは遠い記憶を手繰るような、昨夜の不思議な夢を語るような、いずれにしろ自分の内側に深く沈みこんだ、ゆっくりした口調で言った。
『この能力の仕組みは複雑で、さまざまな機構が関わっています。音を集める耳の形態や、音を位置情報や形に解釈する神経回路の情報処理……。単純にいくつかの遺伝子を切り貼りするだけでは到底実現できない、緻密に組み立てられた過程があるんです。
しかも非常に効率的で柔軟です。関係するいくつかの遺伝子は、あなた方アルテラ人も持っている共通遺伝子の変異ですし。もし機能のどこかに異常が出ても、バックアップが働くようにできている。
これは本当によくできた設計なんですよ。あまりにもよくできた設計。
これだけのゲノム編集を、4000年前の移民船の技術が為しえたかどうか。私たちバハル人のあいだでもまだ結論は出ていません』
「そうか……。ありがとう」
それだけ言い、フィンレイは通信を終了した。
操縦席から顔をあげ、前方を見やる。まぶしい二連太陽に祝福されて、最後のメルヴィルが雄大な弧を描きながら海へ帰るところだった。跳ねあがるしぶきは天にまで散る。
「ダクは原始的だと嘆くが――」
陽光に手をかざしてヨットとクジラのゆくえを追いながら、フィンレイは呟いた。
「俺は悪くないと思うな、バハル人の能力。なあソード、進化だったと思うか?」
「結論は出てないんだろう。好きに考えたら」
「もしかするとバハル人は、銀連の支援なしでもこの星で生き延びたんじゃないかね」
そんな気がした。
この仕事をしていると、フィンレイは時折、自らの遠い出自に思いを馳せることがある。黙って感慨にふける彼の傍らで、「そういえばな、フィン」ソードオフが思い出したように口を開く。
「昨日、酒場で面白い話を聞いたよ。軌道に残された移民船には、海に降りられる大気圏用
「そりゃあシャトルを改造したか、海漂林に軟着陸とか」
「あるいは神話どおり、浅瀬で死んでた巨大クジラの上にでも降り立ったのかもな」
「――神さまの死骸を踏みつけて、か?」
はたして呆れるべきなのか、よくやったと称えるべきか。
ソードオフの言うとおり、バハル人とはしたたかで狡猾な、図太い神経の持ち主たちなのかもしれない。全員がそうではない、と思い浮かべた謙虚で誠実なダクの丸顔も、結局は同じかな、とフィンレイは思い至った。
アルテラに憧れ、先進諸星の文明レベルに追いつこうとダクを必死にさせる力。その根本も、銀河社会という新たな競争を生き延びようとする、貪欲な
はるかな昔、故郷を失い、みなしごとなって絶対零度の無慈悲な星野に散逸しても――生き物たちは、母星の地上で40億年やってきたのと同じように熾烈に生き延び、次代へ命を継ぐことに異常な執着を抱きつづける。
生命というもののそうしたありさまが美しいのか醜いのか、フィンレイにはわからない。
「フィン。それでサンプル採れたのか? 俺は時どきおまえの正気を疑うよ」
「そうかよ、ディーテ市民。俺はいつでもおまえの正気を疑ってる」
ベルトにしっかり挟んでいた鱗をソードオフに渡してやる。年輪に似た模様の浮かぶ、真珠光沢の巨大な鱗。
任務達成の思いとともに、フィンレイの胸には今更になって伝説の生物・メルヴィルクジラをじかに見た興奮がよみがえってきた。
「クジラもレースも間近で見られたし、最高だったろ、ソード? 空き巣狙いより断然マシだ。試料の状態もいいし、これなら今回は教授もうるさく文句を言わんだろうよ」
「鱗か……。おまえ、〈ザトウクジラ〉はピクフィーの親戚だと言ってなかったか。ピクフィーに鱗って、あるか?」
「いや無いけど、殻のあるナメクジもいるだろ、つまりカタツムリが。残念な愛玩動物になり下がったピクフィーと一緒にするなよ。メルヴィルだぞ。なみの生き物じゃなかった。やっぱり違うよ、野生の地球原種は」
「…………。エラ呼吸なんだな、クジラは。俺には、どうも獣というより、魚みたいに見えたが……」
無線機がガリガリと音を発し、ようやく遅れてやってきた他の調査艇から位置確認の通信が入った。うねる波間の向こうに船影を認め、フィンレイは大きく両手を振る。
またひとつ、騒乱の仕事が終わった――正確には、まだ彼らサワハ研究員の手伝いというおまけが残っているが。それでも禁制の生物の
「さあて、ダクには迷惑かけたしな。ソード、真面目なふりして働くぞ」
「面倒だな。こっちの用は済んだんだ、なんで適当に断らない」
「おまえ、海のど真ん中まで勝手に船借りて出ておいて、クジラ見たので帰りますって言えるか? ちょっとは良識と社交性を身につけてくれ。せめて努力しろ」
「はいはい。巨大生物がいたら飛びついて、鱗はぎとって落ちるような良識」
「なんだよ……。最高だったろ?」
「最高だった」
二人は笑いながら肩を叩きあい、クジラの鱗と破壊したOBCカメラをこっそり荷物に隠す。サワハ研究員たちと合流し、作業の詳細を相談するために漸水艇のエンジン始動。離水、発進させる。
一ヶ月後、アルテラ生命学研究所。
レンジャーたちの上司であるキャンベル教授は、あまり見た目のよろしくない鉱物食爬虫類の分析結果をアピールし、なんとかAIVRでの研究続行の権利と資金を得たようだ。
レンジャーたちに
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