1-7. 白鯨
その咆哮は荘厳な怒りに満ち、痛みを生むほど破壊的な音波は同心円状に海面を爆砕した。水滴は細かな散弾と化して周囲に煙霧とプリズムをつくりだし、突き抜けて、奇跡のように白い巨体がどこまでもまっすぐ立ちあがっていく――。
天空の神々の庭を支える白亜の柱を、つかの間、フィンレイは夢想した。ゆっくりと――奇妙なほどゆっくりと、大波の直撃を受けた漸水艇が見事な宙返りを決めるあいだに。
事実はほんの刹那の出来事。船から投げだされ、より悪いことに船の下敷きとなって海中へ落ちたと思った二人は、しかし一秒後、呼吸できる空気のなかで顔を見合わせる。
「賢い船だぜ!」
この星のテクノロジーに感謝したのは初めてだ。艇の安全装置が働いていた。船は完全に天地逆さで転覆状態だったが、姿勢異常を感知した時点でキャノピが自動展開したのだ。ブルーボールの都市を嵐から守る天球と同じ、透明な合成硬化シールド素材。
うねりに乗って船が流され、キャノピに張りつく格好で伏せた二人の下。慌てふためくおかしな異星体のように、鋼色の泡の群れがぶるぶる震えながら吹き払われてくる。
青く、どこまでも青くゆらめく幻想的な光が溢れた。足元の海中――底知れない青い奈落。多くの命を育み呑みこむ、震えがくるほど美しい世界。そして陸で生まれた人間を拒絶する冷厳な異世界。
女神の細腕めいた斜光が水面から差しこみ、たおやかに戯れながら危険をいざなう。二人は見る。はてない青の深淵に、ふと白っぽく、ぼんやりした小さな円を。気付いてみれば同じものがそこらじゅう、いくつも――無数に。
フィンレイの改造眼、ズーム、ズーム。ソードオフにはまだ小指の先ほどにしか見えないそれらの点は、みなすべて、深海から猛スピードで垂直上昇してくる巨鯨の群れだった。
ソードオフが
船をひっくり返した一頭が、巨体を横倒しに着水させたのだ。とんでもない津波。フィンレイは夢中で無線通信を開く。
「ダク、ヨットレーサーに警告しろ! 近付くなと!」
ダクの、ノイズにまみれた遠い声が叫ぶ。
『彼ら……ひき返さない! 大丈夫、バハル人は聞こえてる……あなたがた……逃げてください、今すぐ!』
二頭目のメルヴィルが海面を貫いてきた。
――なんて非常識にでかい生き物だ! ソードオフは、なかば呆れつつ思い返した。
地球原種である〈ザトウクジラ〉は、全長15メートル前後とフィンレイは言ってなかったか? 三倍くらいある。この星でどんな試練があったにせよ、立派に進化しすぎだろう。
「フィンレイ!」
いったん退避だ、と言いかけたソードオフは、キャノピが突如自動収納されたのに異変を感じて故障を疑う。続いて背後で軽い発射音。
後ろを振りむいた彼は、船上に自分ひとりしかいないことに驚いた。上を見あげたのはただの勘だ。青空を突き破らんばかりに踊りあがってゆく白鯨の巨躯。そこに向かって、すごい勢いですっ飛んでいくフィンレイの靴の裏が見えた。
頑強なカーボンケーブルを伸ばした吸着アンカーが、クジラの頭部に撃ちこまれていた。ライフル型の
相棒の正気を案ずる前に、耳元の通信機から当人の怒鳴り声。
『ソード、OBCの飛行カメラが二台、クジラを撮りに飛んできてる。ひとつは船の7時方向60メートル。サンプル採取シーンを銀河系中に流されたら俺たちはクビ!』
「どうする?」
なにを馬鹿なと言わんばかりの怒声が返った。
『ぶっ壊せ――!』
そうこなくっちゃ。
大揺れの船上でソードオフは仕込みナイフを素早く抜きとり、背後から飛翔してきた3Dカメラアイを視認。一度やりすごし、死角から狙いを定める――これだからフィンレイとの仕事はやめられない。残忍と喜悦の両方を意味する複雑な微笑を浮かべ、ソードオフは舌舐めずり。
俺にはいつも常識人ぶるが、やつこそ救いようのないスリル依存症なのだ。
放たれたソードオフのナイフが風を裂いて無実のカメラを貫き落とすと同時に、フィンレイもホルスターから銃を抜いていた。片腕でランチャーにしがみついているので光線の威力調節はなし。すばやい二度の瞬きで視界に十字の
彼方から一目散にメルヴィル目指して飛んでくる700メートル先のカメラを視認。
ケーブルの巻き上げ速度がゆるみ、終点の接近を知らせた。顔をあおむければ視界は白一色だ。いまだ海面から天にせりあがりつづける特大メルヴィルの壁に、フィンレイは両脚を突き出して懸垂下降の待機姿勢をとろうとした。が、表面がぬめってとても無理だ。足を滑らせてぶらさがる。
銃をおさめ、注射器を取りだす。血液採取しようと突き立てた針が――ボキッ――根元から折れた。うそだろ、こいつは惑星〈ジュラ〉の原生恐竜の鎧皮膚すら貫くウーツ合金製だぞ! なんて生物だ、このびっしり生えそろった大きく堅い鱗の上からでは、とても針を刺せそうにない。
いまやクジラは身をよじり、弓なりに曲がって海へ戻ろうとしていた。身体が無重力を感じはじめていたが、フィンレイはすばやく計画変更。愛用のサバイバルナイフで鱗一枚ひきはがしにかかる。
ぴっちり閉じたすきまから刃をこじ入れ、浮いた縁を歯でくわえ固定、強引にナイフを押しあげて一息にむしりとった。白真珠色のエナメルな光沢をはなつ巨大な鱗。人のてのひらと同じくらいある。根元にはいくらか肉もついており、ゲノム解析にはあり余る量だろう。
よし、あとは無事に船に戻るだけ。だが状況把握のため顔をあげ、視界を広げたフィンレイは、そこで思わずくわえた鱗を落としそうになった。
すぐ左頭上に、うるんだ深緑色の凸半球――あまりにも巨大すぎて、瞬時に正体を理解できない。それは、眼だった。端に白い強膜があらわれるほど限界まで瞳を寄せて、自分の頭にぶらさがった邪魔なものをジッと凝視している、目玉。
真円に近い眼球。強い興味以外の感情は読みとれない。まぶたはない。ざらついた金属質の虹彩に黒の毛細血管が星雲じみたもやを編み、中央には、深海に降るわずかな光をも逃さない暗黒の孔。
本能的な寒気が背骨を走り、フィンレイの脳は資料で読んだ〈ザトウクジラ〉の主食を思い出そうとする――プランクトンと小魚だっけ、本当か? 頭上で十字に裂けた瞳孔がギュウッと収縮。フィンレイを追う、捕食者の視線。
なんにしろ、こいつの着水に巻きこまれたら死ぬしかない。
水面まで20メートル弱。フィンレイは吸着盤を支点に、勢いをつけて大きく身体を振った。クジラの頭を思いきり蹴りつけ、最大速度に乗った瞬間アンカーの吸着解除、宙へダイビング。不穏な風の唸りを聞いて反射的に身をすくめた脇を、明確な敵意をもって、漸水艇と同じくらい長くぶあつい胸びれが過ぎていった。
翼に似たひれだ。危なかった。ひれの基部は筋肉で膨れあがり、
興奮で沸騰した血が、熱くフィンレイの身体を慄かせている。こんな気分が快感なのか恐怖なのか――どちらでもいい、五感は全開、視界はクリアで思考はシャープだ。いうなれば絶好調。
落ちていくフィンレイの斜めの視界に、ヨット集団の鋭く群れ立った三角帆が映った。次に全面に迫りくるのは、陽光を乱反射する輝かしい海面。
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