1-6. トラブル&トラブル

『――あー、こちらにも、まだ情報は入ってきておりませんね。なにかの事故でしょうか?

 はい、中継を続行します。レースは序盤、波の静かなバリアリーフを抜け、外洋との境界に達しています。スタートで出遅れたチーム〈ネモ〉の激しい追いあげは――いやあ、そうですね監督、彼らは実にすばらしい喰らいつきを見せました! 現在は各チーム大差なく、ニュー・アデン海峡へと乗りだしてゆくところです。

 そしてこの先の航路ですがあ、監督、強い西風と荒潮を読んだ、巧みな帆走技術が鍵となるという先ほどのお話――なるほど。つまりスタミナ維持と速度の両立が戦略の……。

 あ? ちょっと待ってください。いま会場から連絡が。

 ……いや、やはりまだ追跡の許可がおりないようですね。どうしたのかなあ。

 お伝えしておりますように、只今は選手船のみがレースを続行し、サポート船・客船団はしばらく堡礁内で待機のもようです。

 ああー、客船からも激しいブーイング。出てますね。しかし皆さま、ご安心ください。この先のレースのようすはOBC飛行型3Dカメラアイの立体ホロ映像を通して、生中継の予定で――ん? お、おおっ?

 何でしょうか今のは! 漸水艇が一艘、猛烈な速度で船団の横をすり抜けていきました!

 いや、救急船のようには――あ、画面、スロー映像が出ましたね。会場、この船体マークは? ……サワハ? 王立サワハ生物資源研究所の? 所有船ですか?

 ということは、航路に何らかの生物的な障害が生じたのでしょうか。はい、詳しい情報が入りしだい――いえ、シャドウリッカーなどの危険な貪鮫類どんこうるいに対しては、最新の安全策が――』



 色とりどりの万星旗と大音量のBGMを流し、甲板に異星からの観戦客を満載つめこんだ百もの客船団の真横をぶっとばして、レンジャー二人の漸水艇は深い群青の海面を翔けていく。

「見たかソード、オリオン放送協会OBCがいたな。俺たち映ったかな」

 見つけたゴーグルを装着し、向かい風にあおられて前髪ぜんぶを逆立てたフィンレイは、ひかえめに見ても危険薬物ドラッグをキメたスピード狂のハイジャック犯そのものだ。物陰で揺れと陽光を避けるソードオフの「映らないほうがいいだろう、アホめ」冷めた返しも聞こえていない。

 主催側からの勧告か、どうやら足止め中らしい客船団もあっというまに背後へ消え去る。海は予感を秘めたディープブルー。波が出てきた。二連太陽は今日も烈しい。

 ようやくフィンレイは船の速度をゆるめ、レーサーたちが長く残したヨットの航跡を水面にたどる。

『深夜に一度、海峡辺縁部のユニット装置が作動したデータが残ってます』

 研究所からのダクの連絡も、一応の落ちつきを取り戻してきたようだ。

『そのときはクジラはすぐ去ったようです。でも、今日未明あたりから複数箇所で散発的にシグナルが検出されていて、今はいくつかのユニットが頻繁に作動と停止を繰り返してるんですよ』

「昨日みたいな機器トラブルかな?」

『何度も確認しましたが異常なサインはなし。警告音は出ているはずです。先日の件もあるので故障でないとは言い切れませんが、しかし最悪の事態を想定すると、ヨットとクジラがかちあう可能性もないではない。とにかく装置の挙動が妙なのはたしかです。本当にクジラが近くにいたとして、海面まで出てくるとは思えませんが……、もしそうなったら悪夢だ!』

「一時的にでもレースを中断できないのか?」

『主催側には連絡済みですよ。装置の異常かどうか、はっきりするまで中断できないと言われました。ああ、本気なのか――お役所仕事め、信じられない!』

「ダク、落ち着こう。そろそろ最初のユニットにつく。とにかく直接調べてみよう」

『本当に申し訳ないです。あなたがたが頼りだ。うちのメンバーは少し遅れて追いつきます。まったく、こんなときにかぎって漏水報知機が誤作動するなんて……』

 恨めしげな愚痴が遠ざかって無線は終わり、フィンレイはソードオフを振りかえる。おまえか? 指さして首をかしげると犯人は優雅に片眉をあげ、ちょっと肩をすくめてみせる。

 ダクのあまりの狼狽ぶりにフィンレイの良心は多少うずいたが、クジラを生で見られるかもしれない期待、任務の首尾よい達成への興奮が心地よく血肉を刺激し、まあいいかという気にさせていた。

 目算が外れたのはヨットレースの続行だ。もし本当に現れたクジラの群れにヨットが突っ込めば、大惨事になりかねない。人命被害だけは絶対に防ごうと、元軍人のフィンレイはその点にだけは意志が堅い。

 そうこうするうち、前方を見つめる彼の拡張機能眼、遠望視界に、ついにレースヨットの最後尾が見えてきた。

「おお、見ろよソード。本当に海上帆船だ。映像で見るより大きいな……」

 圧巻の十五隻だった。実際に人が乗り機能する、生きた古代船の集団、それも本物の――フィンレイはもの珍しさに鼻息を漏らす。ソードオフまでも首を伸ばして船を眺めた。

 大会規定により、競技船はすべて同型だ。底面はみな眩しい白塗装。剣のように鋭い20メートルの船体よりも、二枚の帆は長く佇立する。スポンサー企業の宣伝だったり、どこかの都市のステッカーだったり――派手な三角帆はそれぞれ個性を主張していたが、どれもいちように高く天を指し、湿った熱い潮風を孕んでぐいぐい船体を押し進めていた。

 甲板は絶えず波にもまれて上下し、海面に対して大きく斜めにかしいでいる。その上で、チームカラーの防水ユニフォームを着こんだアスリートたちが忙しく動きまわり、塩辛いしぶきを全身に浴びながら敏感に帆の角度、張り、舵を調整しつつ互いの船を牽制していた。

 漸水艇に比べれば、速度はまったくのろいものだ。だが荒波に不安定に翻弄され、砕け波が激しくしぶいて船員を頭から襲うので、今にも人が落ちるのでは、船体が横転するのではとフィンレイはむやみに心配になった。

 ボロいというわけでもなく、きちんと整備もなされている。なのにこんなに危なっかしい船は初めてだ。ちょっとしたスコールの風でも転覆しそう。なにしろ船のバランスが、乗組員の体重移動にすら左右されてしまうらしいのだ。

 ソードオフが止めるのも聞かず、フィンレイは船員に注意を呼びかけた。

「おーい、俺たちはサワハ研究所のものだ! この先の航路に、メルヴィルの群れが現れる危険がある!」

「――――!?」

「ヘイ、聞こえてるか、クジラが出るかもしれないんだって! 今すぐ止まるか進路を変えろ!」

 近寄れる限界ぎりぎりまで漸水艇を寄せ、叫んだが、風と波の音で相手にはほとんど伝わらなかったらしい。

 不敵な眼をした海洋民たちは操船に集中し、警告をノイズと思って無視するか、なかにはメディア船と勘違いして陽気に手を振ってくる者までいる。

「駄目だ、あいつら。フィン、先へ行けよ。クジラには耳があるのを期待しようぜ」

『選手たちは大丈夫ですから、ユニットのほうをお願いします!』

 ダクにまで促されては、フィンレイはしぶしぶ漸水艇を増速する。

 ほんのわずか腕に力を加え、スラスターを倒す。それだけでゆるやかに横に拡がるヨット船団を軽々と追いこし先へ、先へ――ダクがヨットとクジラの衝突を危惧する、海峡最初のユニットの場所へ。

 数分足らずで到着してみると、競技船の高い帆は水平線近くにちょんちょんと見える距離となり、そこは波も潮も嘘のように凪いだ、澄みきったブルーの楽園だった。

 周辺にメルヴィルらしき姿は見当たらない。問題の機器ユニットにくくりつけられている赤いブイも平穏無事に浮かんでいる。――だが、

「ソードオフ。おかしくないか、この音」

「ああ。昨日とはちがう」

 異変はすぐにわかった。警告音の周波数だ。

 深海底から届いてくるので耳だけでは判じにくかったが、漸水艇のエンジンを休止、船を着水させると違和感は確信へかわった。

 ビリビリと艇を震わせてくる振動が異様に複雑な抑揚をもっている。昨日、偽信号を送って機器テストしたときはもっと単調だったはず。

「海流や水温差のせいかね」いちおう頭をひねってみるフィンレイに、

「機器の不調だろう」ソードオフはにべもない。「ダクに連絡だ」

 ダクは音を録音してすぐに送るようにと言ってきた。二人は指示に従い、艇内をあちこちひっくりまわして水中マイクのひとセットを探しだし、不穏な音声を1分間ほど録音する。記録を送信してしまうと、ダクの分析結果を待つしかなくなった。

 ふいに訪れた空白。フィンレイはどこか落ち着かない気分で周囲を見渡し、前よりはやや近づいてきたヨットの細い船影を確認した。

 距離はまだ充分ある。だがさっきから、何かが心にひっかかっているような――昨夜のうちに潮に流されたのか、機器ユニットと航路の距離は安心できるほど離れていない。気がかりなのはヨット船団が大きく横へ拡がっていたことか。

 遠いヨットは時折り帆をひるがえすらしく、強烈な二連主星の陽光を照りかえしてギラリギラリと白く輝く――おかしいな、どのヨットも黒や黄色や、濃い色の帆だったのに。

 いや、そんなことより、もしクジラが本当に表層まで上がってきたら……。もし、ちょうどブイの真下だったとしても……。

 ――俺は正真正銘の馬鹿か!

 フィンレイが電撃を浴びたように跳びあがるのと、ダクの興奮した早口の無線通信が入るのは同時だった。びっくりした猫のように後ずさったソードオフを強引にどけ、操縦席にとびつく。

『わかりました、わかりましたよ二人とも! 原因が――!』

 クジラと他人の心配ばかりして己の安全を忘れていたとは! 海中に落ちる船影を消す艇底面の照明スイッチを叩き入れ、魚影探知ソナーを最大出力で起動。

『音声を分解したところ、我々の警告音装置は正常に――』

 瞬間、けたたましく鳴り響くアラーム。表示モニタを見たフィンレイの心臓が凍った。船直下に真っ赤な反応。噴出するマグマの泡沫を連想させる、とてつもなく巨大で威圧的な何かの。

『ですが、付近に別の音源があって、その干渉音の――』

 突然、これまでずっと足元から轟いていた不穏な振動音が途絶えた。

 魔の静寂。喋りつづけるダクの通信と、艇ソナーの悲痛なアラーム以外は。

 ソードオフにつかまれと叫び、フィンレイは最後の瞬間に漸水艇離水を試みる。だが衝撃のほうが速かった。骨まで粉砕されそうな強力な振動、実は、爆発的な轟音。

 煮えたぎったように水面が弾け、漸水艇の真下の海が真っ青な火山噴火のごとく盛り裂けてきた。

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