1-5. お仕事開始

「フィンレイ……、頼りになるやつ」

 一方的にまくしたてて切れた通信機に手をやり、ソードオフは無表情にまばたきした。頭のすみで180秒のカウントダウンを開始する。

 ぶ厚い扉で密閉された倉庫内に廊下の放送はほぼ届かない。実際どの程度の騒ぎか判断しかねたが、撤収にまごついて、あとでフィンレイにガタガタ言われるのはつまらなかった。

 試料を見つけ、バハル気質への自分の読みを確認できなかったのはやや未練だ。しかし熱心になるほど関心はない。ソードオフはコンマ1秒で仕事への執着を捨て、倉庫最奥の暗がりから出口へ歩きだした。

 最短経路を避けたのは身に沁みついた慎重さのせいだ。左壁から二つ目と三つ目の棚のあいだを進む途中で、彼はそのタンクに気がついた。

 改造の失敗作と思われる、崩れたピクフィーの漬けられたタンクが並ぶ異相の棚だった。

 単眼、双頭、両性具有。病的な斑紋、肉腫の噴出。全身からトゲを生やし、羽毛に覆われ、ヌルリとした大蛇のようにひれを持たず、あるいは人に似た顔をしたもの――その一群のピクフィーたちは不気味で、外見や生命維持に問題があり商品化されなかった試作種だと見当がついた。タンクの並びも雑である。そこにまぎれるようにして、ただの白い肉塊のような何かが漬けられた一本があった。

 特に思うところがなければ、発生過程に問題の起きた奇形の胎児に見えただろう。だが本来なら品種名、分類番号、作成年、年齢など多くの情報が記されるべき識別ラベルが白紙に近い。冷凍睡眠処理時の日付と保管責任者のイニシャルだけだ。D.S――ダクジャルファッ・サール?

 これだ。直感があった。ソードオフは満足げに目を細める。木を隠すなら森の中、だ。

 しかし周囲のタンクをずらして動かし、蓋を開ける方法を調べようとしたときだった。冷蔵室入り口のロック解錠の電子音が響く。

 ――フィンレイ。頼りになるやつ。

 二度目の皮肉を胸中ぼやく。誰もいないはずの廊下から入ってきたのは白衣を着た若い女性研究員だ。さいわい彼女の用事は扉横の薬品棚にあるらしく、こちらには気付きそうもない。余裕をもって身を潜めていた侵入者を、二度目の衝撃が耳元から襲う。

『おいソード、もう出たんだろうな? 早く来いって!』

「…………」 声がでかい。

 針ほど細い嘆息をソードオフは吐いた。通信機から漏れた雑音が女に聞こえなかったことを期待したが、「誰かいるの?」さすがに無理だった。

 ――まぁ、タイムリミットも近いことだ。

 不審を感じた研究員が歩み寄ってくる。ソードオフは気配もなく尻下がりに闇に溶けた。

 姿勢を低く、照明の影を伝って大棚を回りこむ。女性が奇形ピクフィー棚をしげしげと覗きこんだ背後で再び背すじを伸ばした。闇から滲み出るように、無音で、亡霊となって。

 不可思議な螺旋の刺青を刻んだ黒い両腕が伸びる。豊かな黒髪をポニーテールにまとめた女の細い首すじはあらわだ。繊細な美術品を包みこむように、ソードオフの冷たい指先が左右両方の頸動脈を強く押さえこんだ。

 たわいもなく失神。研究員は壊れた機械人形オートマタのように床に崩れた。

 ソードオフは倉庫入り口にすたすた歩いていくと、まず扉を細く開けて外が無人なのを確認。一気に半分ほど開き、完全に閉じないよう留め具ストッパーで固定。

「おい、大丈夫か」そして戻るなり研究員を抱え起こして喝を入れた。

 息を吹きかえし、女性はボンヤリ目を開く。定まらない視点で自分を支える人物を見上げ、おびえた顔で身体を緊張させたがソードオフにやわらかく止められた。

「誰? わたし……、どうして? なにがあったの」

「あんたは倒れていたんだよ。俺はAIVRのレンジャーだ。聞いてないか?」

「AIVRの? ああ、そういえば……。うーん、なんだろう、ひどい頭痛」

「なにか持病でも?」

「いえ、別にないけど。変ね……。わたし、どのくらい倒れてたのかしら」

「さあ、それは。俺が見つけたときには、もう倒れていたから。身体が冷えていないなら、それほどでもなかったんだろう」

「そうかな。だといいけど……。あれ、そういえばあなた、どうしてこの部屋に」

 入れたの、という後半を研究員は飲みこむ。ソードオフの冴えた薄黄色の虹彩が、彼女の瞳の奥底をのぞきこんでいた。

 若い女の目に、黒い肌色は今や奇しくも神秘の色彩として映り、いったん怖れが取り払われてしまうと、寒気がするほど整った男の顔立ちが見えていた。かすかに歪む薄い唇。多くの秘密と快楽と、危険を約束する妖しい微笑だ。彼女は唐突に気がついている。自分が今、悪魔か堕天使か、とにかくそういった超自然の存在、深宇宙の時空の歪みから現出した美しいものに触れられている事実に。

 異常な肌色さえ忘れてしまえば、AIVRの黒いレンジャーは、不世出の大彫刻家による傑作じみた造形を持っていた。

 薄く開いた唇から一瞬だけ、ピンク色の舌がちろりと覗く。じかに触れあう肉体から伝わる声は心地よく低く甘やかだ。

「扉は、開きっぱなしだった。留め具を巻きこんだんだろう。俺は通りかかっただけだが、冷蔵室だから閉めたほうがいいと思ってね」

「あら……、そうか。ええ、そうですね」

「念のために室内を覗いてみてよかった。そろそろ立てるか?」

「あ、はい」

「俺は相棒に呼ばれていて急がなくちゃならない。医務室へは一人で行けるか」

「大丈夫です。ありがとう。あのう、わたし、迷惑をかけちゃって……」

「まだ顔色がよくない。疲れているなら、無理しないほうがいい――じゃあ」

 若い女は簡単だ。

 催淫波に揉まれたように陶然として、ついでに強制的な失神による頭痛のせいでも呆然としている彼女を残し、ソードオフは早足に倉庫を出る。

 こんなまねはフィンレイなら怒るだろうが、と、相棒の渋面を思い浮かべる彼に罪悪感はひと欠片もない。

 そもそもやつの大声が招いた事態だ、俺は事を穏便に済ませたぞ。放置して去ってもよかったのに、わざわざ気付けと介抱までして。怪我人なし、死人なし、通報なし。何が問題だ?

 頭の中のカウンターがゼロを告げ、ほぼ同時にソードオフは監視カメラの範囲外へと逃れ出ている。

 男も女もかわらない。子供に食指は動かないが、年齢は問題にならない。海上階への階段を一段飛ばしで駆け昇りながら、ソードオフは機嫌よく鼻歌をくちずさんだ――そう、初対面の殺し合いで、この俺を恐れも見惚れもせず真顔で銃口を向けてきたのはフィンレイくらいのものだろう。



 しかし、ソードオフを危機に陥れるほど急かしてきたフィンレイは、連絡をとるなり船渠ドックへ走れと命令してきた。誰よりも先に行け。そして一番足の速い漸水艇ぜんすいていを確保しろ。

 皮肉のひとつも返したかったが、無線機の向こうの相棒も、研究所全体の雰囲気も非常事態的に慌ただしいのでソードオフはふたつ返事で従った。いったいなにが起きている?

 海上一階、研究施設の南端にあるドックへ到達。中に入ると照明はオフ、海側の隔壁も閉鎖していた。誰もいない。広大な空間には昨日同様、多くの漸水艇が翼を畳んだ鋼鉄の鳥として静かに目覚めを待っているだけ。

 大型船、中型船、ボート。今日の格納庫のラインナップは豊富だ。どれがもっとも馬力があるかなど、ソードオフにはわからなかった。で、彼はフィンレイの言葉を自分なりに解釈することに決める――要するに、俺たちの乗る船が一番速くなればいいんだろう?

「ソードオフ、どこだ!」

 しばらくのち、どたばた駆けこんできたフィンレイに、ソードオフは小型クルーザーの上から手を挙げた。先日のクジラ避け機器設置に使った調査艇だ。

 乗船用ラダーを使う間も惜しみ、相棒は勢いよく船に跳びついてよじ登ってくる。ソードオフは眉をひそめた。フィンレイは大きな袋を背負っている。仕事道具、つまり愛銃入りのやつ。

「フィン。船を盗むほどまずい状況か?」

「馬鹿、バレたんじゃない。クジラだ、レースだ、メルヴィルだよ」口と同じ速さで手を動かしながら、フィンレイ。「理由はわからんがクジラの群れがレース航路に寄ってきてるんだ」

 昨日のダクとそっくり同じ手順で電子機器を起動、各種センサーに信号入力。もろもろの計器を確認し、最低限の安全テストだけ行ってエンジン始動。いつでも飛びたてる状態まで瞬く間に持っていく。その間ソードオフには見向きもせず、最後に無線通信を開いた。

「ダク、ダク、聞こえるか。こちらAIVRのフィンレイです」

 漸水艇の支持体からの切りはなし。旧式エンジンの爆音のなかに返答がかえる。

『――フィンレイ、聞こえます。こちら通信情報センター、ダク。あれ、もう船ですか? ええと、まだうちのチームは』

「ダク、俺たちは、つまりソードもだが、先に行くよ。一足先に現場で原因を探る」

『なんですって? ちょっと待ってください、先に行くって……、なんですって?』

「あんたらの漸水艇、借りるよ。操縦は昨日見て憶えたんで」

 同じく昨日見て憶えた指令コードを船操作卓に入力。なんの抵抗もなく、素直に船渠のシャッターが開いていく。

 漸水艇は滑らかに宙をすべり、徐々に差しこむ光を増やす隔壁手前でその時を待つ。ソードオフが疑わしげにフィンレイに尋ねた。

「なぁ、なんで俺たちが行く必要がある。留守番しよう。冷蔵室で怪しい睡眠タンクを見つけたんだ。別口で騒ぎが起きてるなら仕事しやすい」

「なに言ってるんだ、おまえ」

 やっとフィンレイが振りむいた瞬間、隔壁が全開になった。

 まばゆい白熱光が一気に輝いて視界を灼き、ソードオフには相棒の顔に浮かんだ、獲物を目前にした狩人の抑えた興奮が見えなかった。知覚できたのはさざ波の音、濃く生々しい潮の香り、むっとなだれこむ熱い水蒸気――とびきり快晴の海の気配だ。

 やる気に満ち満ちたフィンレイの声が言う。

「クジラの体組織を直接採取するチャンスだろうが。舌噛むぞソード、口を閉じてろ!」

 無線から、パニックを起こしたダクの叫びが響いた。

 音割れした意味不明な悲鳴もなんのその、フィンレイはスラスターを最大に叩きこむ。漸水艇は制御不能のミサイルさながら大海原へ飛びだした。

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