1-2. レンジャーたち、タダ働きする

 空の青スカイブルー海の青マリンブルー。世界を分かつ青の狭間を漸水艇はひた走る。

 けれど空には、を斜めにひっかけた隣の巨大ガス惑星がぷっかりと浮かび、海の色味も海域によってさまざまに移り変わった。ブルーボールは全球が海だが、惑星深部まで液体と氷核で構成された、いわゆる海洋惑星とは異なる。何万年も続く温暖期が大陸地殻の上部まで液体の水で覆いつくした岩石惑星だ。

 深い海溝はとてつもなく深いが、陽光の中に棲む生物たちが暮らす浅い海域も、じゅうぶんに広い。研究員ダクの生まれ故郷は、巨大山脈の頂上が水の浸食で平らにならされ、海漂林がおい茂った良漁場の中にあった。昔のバハル王国首都は偽珊瑚類の死骸が積み重なって岩となり、水面下に広大な台地を形成した水域に建設されていた。今、船が翔けぬけようとしているのも、そうした変成白礁岩の上へさらに生きた生態系が乗っかった珊瑚礁だ。

 海は碧みのある青、水は硬質な透明度。浅海珊瑚の群生が造成する前衛彫刻の、広大で奇抜な迷宮路が船上からでもよく見透かせた。全宇宙の絵具をぶちまけたような極彩色だな、とAIVRアイバーからきたレンジャーの一人は言い、なぜ時どき金属的な閃光が輝くのかとダクに訊いた。

「珊瑚のなかには、卵の入った果胞を鳥に食べさせて運んでもらい、生息域を拡大する種があるんです。生物発光ではなく単純な光の反射ですが、鳥を呼んでるんですよ」

 へえ、とレンジャー・フィンレイは感心し、空から見たら綺麗だろうと言った。

 実際そのとおりだったので、ダクは頷いた。実りの最盛期には古き良きプロペラ機――に、似せて作った遊覧機で珊瑚礁上空を飛ぶツアーに人気が集まる。卵の運び手を誘う珊瑚の閃光で、海表面が百万の砕けた万華鏡のように幻惑的に蠢くのだ。

 濃い茶の髪に緑灰色の虹彩、現生人類にしては宇宙線焼けへの適応度が低い色素の薄い皮膚。卑屈さとは無縁の明るい自信を口元に浮かべ、世間話を楽しみ、船の操縦を熱心に尋ねるフィンレイの誠実な態度は、いかにも争いごとを好まぬアルテラ人の理性と平和主義を体現している。

 見上げるほどの上背は低G惑星出身者には珍しくもないのだろうが、鍛え抜かれた肉体だけはアルテラ的とは正反対だ。冒険家という職業柄か。とはいえその発言は理知的で、後進星の亜人種にも偏見など少しも持っていない。こういう人間を調査員として抱えるアルテラの学術機関は、さすがに銀河系人類文明の中心地だとダクは憧れを強くする。

 一方、ソードオフという通称の元軍人は気ままな性格なのか、出航早々ベルトを外し、具合のいい日陰を見つけて勝手に寝転がっていた。奇妙に青光りする独特な黒い肌色のせいで表情が見えにくく、黙りがちなので対応に困る人物だが、そこは相方の気安さがうまく穴を埋めている。何事にも動じない雰囲気は頼もしくもあった。なにしろAIVR所属のアルテランだ。これ以上信頼のおける身分証が、この銀河に存在するだろうか?

 前方に見慣れた輝きを見つけ、ダクは船の速度をぐっと落とす。漸水艇がその生物の群れに追いつくと、思惑どおりフィンレイが興味を示す。銀地に青の豹紋のある平べったい帯が無数に海面を割ってジャンプ、しばらく船に並飛行して再び海へ。無造作に腕を伸ばすレンジャーへ、ダクは効果的なタイミングで警告した。

「そいつはこの星における海蛇の一種です、無鰭類むえいるいの。寄生虫でも落としてるのか、船が作る気流に乗ってよく遊ぶんですよ。味はいいらしいが、食べると当たる毒蛇として漁師には嫌われてます」

 手を引っ込めるフィンレイ。ダクは笑う。

「ほら、堡礁バリアリーフの終わりが見えてきましたよ。わかりますか、あそこから海面の色が変わってるでしょう。3000メートルを一気に落ち込む崖の始まりです。つい先日判明した、メルヴィルの通り道だ」

 グリーンブルーから紺碧の海へ。漸水艇は鳥のように優雅に飛翔してゆく。

 だが、ダクは油断なく指を操作卓に滑らせて艇底面の擬態照明をオンにしていた。海中に落ちる船の影を消さねばならない。ブルーボールの深淵では、危険な肉食魚類が表層に泳ぐ獲物の影をいつも腹をすかせて探しているから。

 追い風もあり、予定時刻より早く目的海域へ到着した。

「あのブイがレース航路の目印ですか?」

「オレンジのブイなら、そうです、フィンレイ。目がいいですね、私には見えない」

 男の指差す先を双眼鏡で確認すると、波間に浮き沈みするブイがたしかに見えた。

「買いかぶっちゃいけない、ダク。そいつの眼は神経制御の望遠水晶体レンズ仕様だ。単なる生体改造の産物だよ」

 医療目的以外の生体特殊機能拡張が許される職業は、資格を持つ医師や技師、軍人のごく一部に限られると聞く。さすがAIVR。

 茶々を入れられたフィンレイは、しかし苦い顔で相棒を睨んでいる。誇ってもいいのに謙虚だ。ソードオフはまぶしげに目を細め、着水した漸水艇の舷側に片足をかけて水平線を眺めていた。こちらはこちらで、外洋の荒波に翻弄される船上でも平然としていられる大した平衡感覚である。

「航路に沿って、ここから向かい側の珊瑚礁までの約50キロ間、等間隔に機材を設置します」

「ブイからけっこう離すんだな」

「潮流を考慮しているので。それに明日は競技ヨットだけでなく、支援船と大量の客船がレースを追います。このくらい距離があれば、万一にも装置が壊されることはないでしょう」

「で、海中に投入するのは深層探知機と警報器と……、こりゃ何だ?」

「それは大型肉食魚類に対する忌避剤です。気をつけて。作動させると腐敗液が出てしまう」

「腐敗液」

「サメには仲間の死骸の腐臭を避ける性質があるんですよ」

 探知機と忌避剤、警報器をまとめた機器ユニットを、丁寧に海面へ降ろす。水は完璧に澄んでいるが、奈落まで続く青はまろやかに鈍って見える。船にまとわりついていた飛び蛇たちもここにはおらず、そこは生き物の気配のない青い砂漠だった。

 沈みゆく探知機の発する信号で深度を確認、予定の深海層までたどりついたところで試運転。艇に接続した端末から探知機を遠隔操作、テストシグナルを送ったとたん、海下から特徴的な音が聞こえはじめた。艇全体が音波でびりびり振動するのがサンダルをはいた足裏から伝わってくる。警報器の動作は正常だ。テスト終了。一箇所目、設置終了。

 ダクは調査艇を浮かし、次の予定地点へと向かう。

「このご時世に人力ヨットレースなんて、AIVRの方には呆れられるでしょうねえ」

 順調に機器を設置して回り、最後のユニットの動作試験を行いながらダクが苦笑すると、フィンレイが意外そうに眉をあげた。

「銀河系を自由に駆けめぐる時代です。超空間航法に黒心炉機関ブラックエンジン、アンドロメダ銀河への進出計画。アルテラの最先端科学は光速をずっと越えた先で走っているのに、ブルーボールで僕らは、最低限のモーターしか搭載していないヨットで何日もかけて海表面をのろのろ移動して喜んでいるんだから」

「でもヨットレースは、あなた方バハル人の祖先に敬意を表した催しなんでしょ? 驚異のご先祖だ。資材の限られた海洋世界で、カヌーとヨットで海域を渡って世代を繋いできた」

「ええ、ま。歴史を軽視してはいないし、この星で生き抜いてきた人々にも感謝してるんですが。バハル人祖は地球からの民間脱出船の中でも優秀な部類でしたし――地球崩壊当時は不完全だった結晶乾眠ドライスリープ技術を、宇宙放浪中に完成させるくらいにはね。だからこそ悔しいと言いますか。この――」ダクは拳を握ったり開いたりして、自分の手指の水かきを示す。「原始文明具合が」

「そろそろ先進諸星に追いついて、洗練されてもいいだろう、と」

「そのとおりです、フィンレイ。こんな水かきは現代にはもう必要ないし、レースだってヨットではなく漸水艇でやればいい。なぜわざわざ人力なのやら――どうもバハル人は、精神面に進化の遅れがあるんですね。肉体には科学では解明できない魂が宿っていると、国民の大半がいまだに信じている。根拠もなく証拠もないものをたやすく神格化して迷信にする」

 いわく、海淵には人智を超えた怪物が棲む、殺された魔女の恨みが紫潮を起こす、嵐の荒神は生贄を求め、星合の晩には罪人を冥界へ飲みこむ大渦が現れる――。

「宇宙から隔離された4000年で、私たちは原始人類が持っていた獣性を戻してしまったのかもしれない。そういうバハル人の神秘主義を一番に象徴しているのが、メルヴィルでしょう」

 〈メルヴィルの白い鯨〉は、この惑星では子供でも知っているバハル創世記の重要な神話物語だ。

 むかしむかし、天上の楽園で暮らしていた人間は、大罪を犯して無限の海洋世界〈バハル〉へと墜とされてしまう。原罪を償うために、水中で暮らせる身体を神から与えられなかった人間たちは、永遠に広がる塩水や大嵐、恐ろしい海の魔物に苦しんだ。しかし〈バハル〉には、ただ一頭だけ、彼らの苦難を憐れんだやさしい生き物がいた。

 それは巨大な白亜のクジラだった。彼は美しい唄声を吼え響かせて人々を襲う魔物を追い払うと、海から跳ねあがって珊瑚礁へ身を乗りあげ、息絶えた。岩のような自らの屍を大地に変えて、人間に与えたのだ。

 ようやく安らかな地面を手に入れたバハル人たちは感謝し、かのクジラを神と讃えて心からの祈りを捧げたが、彼の死を悲しんだクジラ一族は深海へと去ってしまう。以来、白鯨たちは人間が寝静まる夜間にだけ海面へ浮上し、彼の死んだ季節が近づくと、深海から悲しげな鎮魂の唄を何日も響かせるのだという。

「ロマンティックな神話じゃないか」

 真顔のソードオフに言われても、本心かどうか怪しすぎた。ダクは苦笑。

「メルヴィルは今でも王国の大切な友人です。生態研究も近年やっと解禁されたほどで、ゲノム分析の許可は私たちにすら降りません。星外の研究者なんかもう、もってのほか」

「存在の記号化は彼らの神性を汚す、というわけだ」

「そんな気持ちなんでしょうね。私個人としてはすっきり分析してしまって、あれの神秘性を崩したい気持ちですが。この星の科学の進展には絶対に好影響ですよ」

「しかしソードじゃないが、クジラの鳴き声が鎮魂歌というのは詩的だよ。観光王国のブルーボールとしては、神話は神話のままのほうがよさそうな気もするが」

組織試料サンプルを取りにAIVRから押しかけた、あなたがそれを言いますか?」

「おっと。そりゃ、ごもっとも」

「面白い人だなぁ、フィンレイ。やはりレンジャーは科学者とはちがうのかな。メルヴィルの謎が明らかになっても、彼らの素晴らしさは少しも傷つけられたりしないです。保護活動に役立つし、むしろ、あの生き物をみんなもっと知りたいと願うでしょう。……鎮魂歌と言われている鳴き声はね、実は恋の唄なんですよ」

 汗だくで作業中の男三人で語るには、似つかわしくない単語が出た。フィンレイは目をぱちくりさせ、軽くふきだして「求愛行動ね」と言った。

「そうです。なにしろ生息域が深海なので証明はまだですが、あの唄は繁殖行動の一環と考えられます。水中では光より音のほうが情報伝達に優れるので、捕食や索敵、コミュニケーション手段として、音を利用する生物がブルーボールには非常に多い」

「メルヴィルは言葉を持つんです?」

「簡単な交信は可能そうでも、人に相当する言語体系まではどうかな。彼らの唄は複雑ですが、規則的な旋律の反復なので、言葉としての実用性はないと見られてます。同じメロディーを繰り返しても会話はできませんよね。だからあれは音声による装飾だろうと。たとえば繁殖相手の気を引くためにさまざまな声色で鳴く鳥がいますが、あれと同じで」

「なるほどね。じゃあ彼らの唄は純粋に、言葉のない、海のどこかにいる花嫁への呼びかけなんだ。人間の耳には短調に聞こえるだけで、クジラにとっては甘い恋の唄か」

「おまえ本気か、フィン。詩人にでも転職しろ、アルテラ人」

「うるさいよ。おまえはもっと感性を磨きなさいよ」

 レンジャーたちは仲が良い。

 教師が学生に教えるように、ダクは少しいたずら心を出して付け足した。

「とにかくあれは求愛の唄です。唄うのは繁殖期の雄だけだから、多くの研究者はそう考えている。ところが妙なことに最近の研究で、唄に呼び寄せられて集まる個体を調べてみると、雌ではなく雄ばかりという結果が出たのですよ」

「えっ、どういうこと?」

「ほらね、知りたくなってきたでしょ」

 そのあたりは今後の調査で光が当てられていく謎だろう。ダクはニヤリと笑い、フィンレイを物足りない表情にさせた。最後の警報器の動作テストが終了する。

 もし深層探知機がメルヴィル級巨大生物の接近を検出すれば、警報器が作動して大音量のアラームが響きわたる。天敵の捕食者を発見したときクジラたちが出す警戒音声の複製だ。これでメルヴィルは航路に近寄らず、明日のレースは安心だろう。

 ダクがボトルの水を呷って空を見上げると、二連主星はようやく天頂を過ぎた頃合いだった。ブルーボールの一日は長い。昼だけで21時間ある。この惑星の昼夜リズムに慣れておらず、そのうえ炎天下で働いた二人のレンジャーに疲労が見えた。

「お疲れさまでした。研究所に帰還しましょう」

「結局、本物のクジラも見られずじまいか」

「いいよソード、教授には映像記録のコピーで我慢してもらおう。暑くて疲れた。まずは帰って淡水のシャワーと大ジョッキのブルービールだ。ギンギンに冷えたやつね」

 ブルーボール名物ブルービールの、あのふざけたトロピカルブルー色は実は合成着色料だが、この星へ遊びにきて飲まずに帰る客はいない。

 報酬を出せないかわりに、美味い店で一杯奢ろう――考えながらダクが漸水艇を反転、走りはじめたやさきだった。突然鋭い警報ブザーが鳴った。

 急ブレーキをかけ、ダクは音源の操作端末を慌てて確認した。

「なんだ、なんです、ダク?」

「わからない、なにか……NA‐12の、さきほど投入した装置に異常があります。探知機じゃなくて音響ユニットのほう。危険なレベルの物理的圧迫を受けている」

「浮上信号を出してください。ソードオフ、引き上げるぞ」

 ダクが指示するまでもなく二人は流れるように動いた。

 端末からの信号で機器ユニットが浮上開始。ユニットにくくりつけた目印、波間に漂う赤いブイまで艇をとってかえした。ソードオフがフックつきのロープを投げ、ブイに一投で引っ掛け引き寄せる。機器はまだ50メートルの海下だ。フィンレイはウィンチを使ってぐいぐいと軽快に綱を巻き上げ、ふいに途中で作業を止めた。海中を注視する横顔にある片眼が、わずかに輝きを変えた気がした。

「なにかいるな」

 ダクも甲板から海を覗きこむが、そこにはとろりと青い水世界が広がるばかり。しかしフィンレイの改造眼は、こゆるぎもせず霞みの奥へ焦点を結んでいる。

「でかい。魚だ。ユニットについて上がってきた」

「ダク、この船に探知レーダー類の装備は?」

「あ、あります。忘れてた」

 慌てて反響測距機ソナーを作動。

 モニタの影と灯った警告ランプ。表示された分析結果は――最悪だ。

 ダクは蒼ざめ、母語で口走った。

「影舐め魚だ」

「なに?」

「シャドウリッカーです。サメ。中型の。おかしい、忌避剤に不具合のサインはないのになぜ」

「危険なのか」

「獰猛でしつこい捕食者です。なんでも飲みこむ海のゴミ箱みたいなやつだ。フィンレイ、それ以上引き上げないで。機材は諦めます。でも上にいるぼくらに気づかれては――」

「ソード、面舵いっぱいスターボード

 バネが弾けるようにソードオフの身体が跳ねた。

 ダクは骨がきしみそうなほどの力で腕を掴まれ、船床に倒れこんだ。エンジンが唸り、漸水艇は前へつんのめって船首を少し水に突っ込み、船尾を振って暴力的にドリフトした。

 側頭部を打ちつけて星の散る視界に、一緒に倒れこんだフィンレイが跳び起きて備えつけの水中銃を掴むのが見えた。激しい水音。再びの衝撃、最初よりは軽い。

 視界を斜めに横切る白い甲板の向こう側――まぶしい青空を、ずぶとい紡錘形の下半身と、そこから水平に生え出た鋭利な鎌型尾がブンと空を斬って半円を描き、消えた。降りしきるしぶきに目を閉じる。風圧さえ感じた。銃声。

 次に目を開いたとき、漸水艇はまだ襲撃の余波を残して不安定に揺れていた。

「ヒューッ、見たかソードオフ! 8メートルはあったぞ。どうだ、また来そう?」

「モニタではどんどん離れていってる。だがあまり急いで逃げてはいないな。フィン、ちゃんと当てたのか?」

「なんだと、俺の腕を疑うのか。尾びれに風穴開けてやったぜ。殺さないように加減したんだよ――しかしこの銃、化石級のライフルかと思ってたら槍みたいな実弾が出たな。威力もなかなかだったし、ひとつ欲しいかも」

「これだから銃器マニアは」

 舷側欄干に片足を掛け、身を乗り出して銃を構えていたフィンレイが、そこではじめて気づいたようにダクへ手を差し延べてきた。

 大丈夫と断り、虚栄心を総動員してなんとか立ちあがる。足が滑った。

「ソードオフ、シャドウリッカーはどんなふうに離れていきましたか?」

「ゆっくり泳いでいった。水平に。水深約10メートル」

「それなら、たぶん大丈夫だ。また襲う気があるなら深く潜るはずだから。念のため、探知ソナーは出力最大で僕らにもしておきましょう」

「あれで中型って言ったっけ。ダク、大型の肉食魚ってどんなもんなんです?」

 フィンレイの無邪気な質問にはさすがに答えられず、ダクはただかぶりを振った。

 今更ながら全身に噴きでた冷や汗をぬぐい、気つけに水を飲む。レンジャーたちの陽気な興奮がちょっと信じられなかった。

 銃を掲げ、明らかにはしゃいでいるフィンレイに、余裕のある皮肉げな笑みで応じるソードオフ。たった今、大惨事の瀬戸際だったことを彼らはわかっているのだろうか? すっかり縮みあがった自分のほうが異常みたいじゃないか……。

 しばらくしてから、唾を飲みこみ唇を湿らせて、やっと震えずに声を出せた。

「シャドウリッカーは餌の少ない外洋を広く放浪するサメなので、とても貪欲なんです。狩りをするのはおもに朝と夕方で、昼は中層域にいるのですが、船影を見つければさっきのように奇襲攻撃をしてくる。獲物の下から、海上まで飛びあがる勢いで噛みついてくるんですよ」

「ああ、すごい捕食生物だな」と、フィンレイ。「真下から突きあがってきたもんで、思わずのけぞったよ。まるで生きたミサイルだ。安全確保のためとはいえ突き倒して悪かった、ダク。怪我はないか?」

「大丈夫です。むしろお礼を言いますよ、本当に危なかったんだ。昔はあれにやられて、大勢のバハル人が食われたんですから」

 最大で10メートルに達する巨体の突撃は、中型の漸水艇すら転覆させる威力があった。そのうえ、たとえ損傷しても永久に生え代わる肉切り歯での喰らいつき。顎骨の構造は人間とはちがい、上下とも頭蓋から独立した構造のため外見からの予想以上に大きく、しかも前にせり出しながら開く。まるで三角波の直撃を受けたように船首をもぎとられた艇体を、ダクはニュースで見たことがあった。宙を飛べない古代船ではひとたまりもなかっただろう。

 それでこの星では、一定の大きさを越す海中の影に激しい恐怖感を抱く怪魚恐怖症ダゴノフォビアが珍しくない。数千年間シャドウリッカーを含む凶暴な海生捕食者に脅かされてきたバハル人は、足下を泳ぐ巨影に対して敏感に反応する性質を育んできた――と、精神医学者は言うが、真偽はともかく、これまたダクの嫌うであるのは痛いほどだった。

「今もまだ人間を獲物と認識する個体群がいて、被害事故が絶えないんです。政府も対策を進めていますが、種類も数も多いので、なかなかね。都市近海でさえ危険生物の管理がなっていなくて、お恥ずかしいかぎりだ」

「この星の海が広すぎるんだ、仕方ないでしょ。それはともかく、忌避剤を使っても襲われるんじゃ明日のレースの安全が不安だな。やつが寄ってきた原因はなんだったのかね」

 フィンレイのなにげない指摘に、ダクはやっと我にかえった。

 専門家は自分のはずなのに、まったく、なんて情けないんだ。フィンレイの銃撃もソードオフの反射神経も頭が下がるほど見事だった。もし自分一人だったら、今頃は魚の胃袋の中だったかもしれない。

「危険生物への対処は、ヨットレースの専門委員会が万全を期すことになってますから……。しかし、ユニットが襲われた理由は究明しないと」

 結局、原因は忌避装置内部にセットした溶剤の消費期限切れという単純なミスだった。溶剤が容器内で固化し、必要量が海中に放出されなかったのだ。予備の品にかえ、三人はまた汗をかきながら機器ユニットの設置をやりなおした。

 作業が終わり、帰途につくころ――。

 ブルーボールの太陽はやはりまだ高かったが、ダクはへとへとになって漸水艇を運転していた。むしろ二人のレンジャーのほうが精気を取り戻したようである。

 一種の畏敬を込めて捕食者の威容を熱く語る彼らの――おもにフィンレイの――声を背後に聞きながら、なるほど、とダクは思う。これがアルテラのレンジャーか。

 危険のエキスパートなのだ、彼らは。当然AIVR所属であるからには生物への造詣も深く、強い好奇心も持っている。襲ってきた捕食動物を、彼らの本能行動だと理解し、感情的に嫌悪したりもしない。とにかく緊急時に対する訓練をつんだ鋼の心臓を持っていた。

 うーむ、いいなあ。こういう人材、うちの研究所でも雇ってくれないかなあ……。

 街へ帰還後。各星系での冒険譚と新鮮な魚貝料理を肴に、三人はブルービールで愉しく乾杯した。ダクにここまで思わせたレンジャーたちは、とても有能で模範的だった。

 もちろん、この日までの話だ。

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