1. Melville, or Humpback Whale 滄海の唄
1-1. 惑星バハル改めアトランティス、あるいはブルーボール
水槽はターコイズブルーの背景。鋼色の気泡が狂おしげに踊った。
騒がしくさえずりながら縦横に泳ぎまくる一匹の海洋小哺乳類を、フィンレイはじっと睨んでいた。愛好家にはピクフィーと呼ばれる、ピクシー・ドルフィンだ。
大きさは成人男性のてのひらに乗るほど。水の抵抗を抑える洗練された流線美の形態をしている。いつも微笑むように見えるとがった口吻と、豊かな感情を映す大きな黒い目。今では百を超す品種が開発されている、この惑星特産の愛玩動物だ。
同系統の個体が二匹ずつ入った縦長の水槽は、ゆるい凹型カーブを描く壁面に二段になって立体配置される。隣りあう水槽の境界は透きとおって見えない。しかし水面の高さがそれぞれ異なり、壁の端から波形を作って並んでいる。背景色のグラデーションは深海の昏黒から浜辺のベイビーブルーまでを季節のように明滅させ、その色を反射する白珊瑚石の床面が夢幻の深度を演出する。
サワハ生物資源研究所のエントランスホールは水音も涼しく、片側一面が、この惑星が抱くすべての青を魅せつける巨大なアクアリウムだった。
「あんまり熱心に眺めるな、フィン。ピクフィンが食われると思って怯えてる」
「ピクフィー。べつに熱心じゃない。俺はこいつらは嫌いだ」
ソファでくつろぐソードオフは、セレブ御用達のペットにははじめから無関心だ。
標準型は全身灰白色の系統名〈ワイルド〉。
人為交配と遺伝子工学を駆使し、全人類のあらゆる貪欲さに応える品種開発は、この研究所で国家プロジェクトとして始まった。結果は見事に大当たり。銀連に再発見された120年前当初、星を渡るすべさえ忘れた原始生活に逆戻りしていた惑星〈海〉は、現在ピクフィーと海洋資源で栄える観光大国として銀河系社会にその名を知らしめている。
そんな富の代名詞ピクフィーの、くるくると泳ぎ回る忙しさがフィンレイは気に入らない。
鑑賞と愛玩を重視した過剰な遺伝子改造のため、水槽の外、つまり野生では自立生存できない生物である。二時間ごとに餌を与えなければいけないのも面倒くさい。身体が小さく、しかも活動的なので頻繁な餌やりが必要なのだ。忘れるとすぐ餓死する。
ならばじっと動かずエネルギー節約すればいいものを、彼らはそうしない。できない。彼らのDNAにそんなプログラムは入っていない。熟練な飼育者に言わせると、手間がかかるほど愛おしくなるらしい。手巻き時計が現代でも生き残っている理由と同じ。愛好家にとって一日に一度、時計のネジを巻く時間、ピクフィーの餌をセットする時間は神聖な刻というわけだ。おお、これぞ人生の醍醐味、精神の豊かさ! ――いいや、金持ちの余裕だろう。アホらしい。
眺めていた一匹が、気が狂ったみたいに自分の尾を追いかけてぐるぐる垂直回転しだしたので、フィンレイは目を回して見るのをやめた。
「フィン、フィン。ちょっと来い。こいつの系統名は面白いぞ」
しかし、いつのまにか水槽を鑑賞していたソードオフが呼んでくる。
妙に嬉しげな相棒が指差す先には、左右に目がとび出た、あまり可愛いとは言えない、マニア受けしそうなピクフィーが高速で渦巻いていた。催促するソードオフ。
「ガラス面に触れてみろ。名前が表示される」
「どうした、急に上機嫌だな。なんだって?――〈出目フィン〉」
二人の取っ組みあいが一段落するころ。ようやくやってきたサワハ所属研究員は、倒れたソファや場所が違うテーブル、植木鉢から盛大にこぼれた――この惑星ではとても高価な――腐葉土を見つけて眉をひそめた。
「お待たせしました。……何か問題でも?」
「いやあ、ちょっと準備運動を」
「はあ、そうですか。やはり
「学者の格は知らんが、俺たちはただの使い走りですよ。薄給だし」
「お求めの
「困ったときはお互いさま。人類皆兄弟ってね。調査艇の準備は?」
「できました。みんなはもう出発して、私たちが最後です。あちらです」
会話の最中、一言も口を挟まなかったソードオフが無表情にさっさと歩きだしたので、研究員は迷子のピクフィーみたいな顔になる。だがあれが、あの男の通常の態度なのだ――やつの外見では恐れられるのも無理ないが。
内心で溜め息を吐きつつ、フィンレイはいつものように相棒の無愛想を補ってあまりあるほどニッと陽気に破顔する。
「それじゃ行きましょう。肉体労働が雑用係の本分だもんね。俺タダ働き大好き」
惑星〈海〉を、その名で呼ぶ者は多くない。
この星に漂着した人々は、世代を重ねた4000年間に航空技術すら失ったので、彼らの生きる場所を惑星として意識する必要がなかった。彼らは彼らの世界を〈バハル〉と呼んだ。滅んだ地球の古言語で海洋を意味する。
バハル歴にして、今からぴったり120年前。銀河連合を束ねるアルテラ人が、この惑星を再発見した。
アルテラ人祖は、旧地球の頭脳を集めた科学者・技術者集団である。地球崩壊がもはや避けられないとわかったとき、人類社会の未来の再興を託されて銀河系へ出航した播種船の一隻だ。不完全な超空間航法理論の実行により、播種船〈アルベルト・アインシュタイン〉は長いあいだ異次元通廊内に囚われることになったが、漂浪中も希望を捨てずに発展させた知識や技術の土台は莫大だった。
現宇宙への現出成功後、彼らは完全な超空間航法の確立、そして小型ブラックホールをエネルギー源とする
そのころ、はるか地球の記憶も神話物語として薄れさせ、空は見上げるだけの憧れとしていたバハル人たちは、彼らの頭上、夜空の星ぼしのなかに、バハル人祖の移民船が慎ましい反射光を輝かせていることを忘れていた。衛星軌道に遺された宇宙船は、主星から得る光エネルギーだけを頼りに宇宙の虚空へ淡々とメッセージを送り続け、4000年の時を経て、ついに
救難信号を受信し、やってきたアルテラ人の目に、直径が地球の二倍もある
「だから今さら改名してもねえ、誰も馴染まないと思うんですけどね」
サワハ研究所の裏手にあるドックで、腕いっぱいに観測機器を運びながら研究員ダクジャルファッ・サールはぼやいた。
ほとんど陸地のないブルーボールの街は、多くが水上都市である。建造物は空よりむしろ海中へと階層を重ね、人々は海下に巡らせたクリスタルチューブを通る列車で街なかを移動する。もちろん海上では船の利用も盛んだ。水面から少し浮きあがり、波間を滑るように飛ぶ
都市郊外に位置する研究所は、バハル王国でも権威ある施設として、古くとも立派な
「惑星〈アトランティス〉か。悪くない名ですよ、サール博士」
重い機材を両手にぶらさげ、つぎつぎと小型クルーザーへ積みあげながらフィンレイが言うと、ちぢれ髪の浅黒い顔が船上からのぞいた。左右に開き気味の大耳は、バハル人固有の特徴だ。汗を流し、歯を食いしばって機器を受け取りながら、小柄な彼はフィンレイの背高い恵まれた体格を羨ましそうに眺める。
「どうぞ、ダクと呼んでください。再発見120年を記念して、国王の意向で……と言いつつ、本音は観光事業拡大の一環なんですよ。なんだっけなぁ、古代地球にあった島の名前だとか?」
「海に沈んだ伝説の大陸の名ですね。たしかに、ブルーボールに陸地はないや」
「そうだ、そんな話でした。詳しいな、さすがアルテラ人」
なにかにつけて地球の神話や伝説、旧言語にこだわるのはアルテラ人の習癖だ。銀河系共通で冗談のネタにもされる。
フィンレイはダクを見上げたが、彫りの深い顔立ちには海洋民らしい人懐こい笑みしかない。差し出された手を借りて、クルーザーに乗りこんだ。バハル人の手指は水掻きが発達しており、中ほどまで皮膜で繋がっている。
「褒めるのは危険だな、ダク」聞き逃さなかったのはソードオフだ。「調子に乗らせると、出所不明の適当な夢物語を死ぬほど聞かされるはめになる。アルテラ人には気をつけろ」
「どこへ行ってた、ソード。少しは手伝えよな。働け」
「仕事はしてたさ。俺の仕事を」
どうやらドック内をあちこちうろついていたソードオフは、足音も立てずに近づくと、しなやかに
「あなたはアルテラ人ではなかったのですか?」
「俺は、ちがう」
「ガイアだ。こいつのこの黒い肌色は
「特殊部隊員だったのですか」
「そう、元軍人。ソードオフというのも軍隊時代のあだ名なんだ」
「どういった意味が?」
「禁制品」
静かに微笑むソードオフは、またもや全部の受け答えをフィンレイに任せたが、不安げだったダクの視線はすっかり尊敬と信頼に染まっている。
「その腕の入れ墨は、なるほど、所属部隊の印でしたか」
「口数が少なくてつまらん男だが、ま、危険な任務では頼りにならんこともないです」
「偉そうに。おまえが喋りすぎるから俺が黙ってやってるんだ、フィン」
「おまえが喋らないから俺が喋ってやってるんだろ。逆だよ。間違えるな」
「今日の作業に危険がないのが残念になってきた」愉快そうに笑い、電子装備の点検をはじめながら、ダク。「数か所に観測機材と警報器を置いてくるだけなので、スリルという点では物足りないでしょう。なんだかもったいない気分だな。せっかくAIVRの、それもキャンベル研究室のレンジャーが来ているのに」
「……うちの
「あなたがたは有名だ。どんな危険な星にも降りて現地調査や試料採集をこなしてくれる優秀なレンジャーだと。実は冒険譚を聞けるのを期待してたんです。サダクビア星系デイジーワールドで、寄生花草に卵種を産みつけられた話は本当ですか? 人間に寄生した事例第一号とか」
「ああ、あれ。ソードがうっかり防植剤をつけ忘れてね。卵種が分泌する洗脳ホルモンでトチ狂ったこいつに、俺は殺されかけましたよ。一生忘れてやるもんか。そろそろ借り返せ」
「はいはい、来週返す」
「で、その、ダク。……聞いてる噂はそれだけ?」
「ほかにも聞かせてほしいですね、ぜひ。いろんな逸話がありそうだ」
まあね、とフィンレイは曖昧に笑い、素知らぬ顔のソードオフとひそかに視線をかわす。
荷を積み終えると、機材が船内で動き回らぬよう固定。レンジャー二人が着座してからダクはエンジンを始動した。とたんに轟く爆音。「古いんです」言い訳と溜め息をしていくつかのスイッチを手動でON/OFF。騒音がおさまり、振動が安定してきた。
興味深げに身を乗り出して見ているフィンレイの前で、ダクは
「船の
「いや、潮風を切って行きたいな。少しはリゾート気分を味わえそうだ」
支持体からの漸水艇切りはなし。艇は一瞬わずかに沈むが、滑らかに宙をすべって波打ちぎわまでタキシング。
「向かう先はニュー・アデン海峡です。メルヴィルが昼に海面まで浮上することはめったにありませんが、警報器の設置前までが唯一の遭遇チャンスなのはたしかです。組織試料の採取は許可できませんけど、もし幸運に恵まれたら撮影はいくらでもどうぞ」
「ブルーボールの白い海神か。まさかヨットレースの航路が回遊路とかぶっていたとはね」
「いやはや、保護措置が間に合ってよかったですよ。王国の象徴を祝いの催事で傷つけるなんて事態になったら、とんだゴシップだ。では出発しましょう、ベルトは締めました?」
ダクは一度、調子をたしかめるようにエンジンをふかすと、スラストレバーをぐいと押した。海面に白波を蹴立てて漸水艇がダッシュ。閉じる格納庫隔壁の音もあっというまに遠ざかって、気持ちのいい加速度だった。
航宙機にしろ地上車にしろ、慣性が上品に制御されている先進星機ではありえない、この無骨な重力の感覚がフィンレイは嫌いではない。顔面にぶちあたる強風にテンションを上げて思わず叫ぶ――いやっほう!
応えるように、背後の都市上空で祝賀の花火が景気よく打ちあがっていた。ソードオフが振りむいて口笛を鳴らす。水上街と海中街の同時音声放送が、水中・空中の音波伝播速度の微妙なズレによるエコーを響かせて謳っている。
「あー、あー、銀河系人類の皆さま、こんにちは。惑星〈海〉改め〈アトランティス〉再発見120周年記念祭へ、ようこそおいでくださいました。ブルーボ……アトランティス名物、ホホジロガメ料理はもうお楽しみいただけましたでしょうか。
お天気は今日も晴れ、明日も晴れ、時おりの爆弾スコールを除けば一週間ほどバカンス日和の快晴が続く予報でございます――祝賀祭最大の催し、五大都市横断ヨットレースは、いよいよ明日の開幕です」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます