第19話
昼下がりの辺境の部室棟。先だっての週末に徹底的に磨きぬかれたその部室にて。大柄な青年は不貞腐れた様子を隠しもせずに、隣に座る女を睨んでいた。
「俺に在学中に彼女が出来なかったら恨むからな」
「おいおい大室、浮気は駄目だろう。お前には、入学早々お泊まりした上に、両親公認の彼女がいるんだろう?」
おかしくて仕方がないといった様子で、涙を拭いながら秀一郎は言う。
あまり素直に笑うことが無い彼を初めて笑わせた話題が、よりにもよって自らのゴシップネタであることに納得がいかず、大地は仏頂面をさらに険しくする。
「そうです。浮気はいけませんよ」
律は手元の本に目を落としたまま顔も向けずに平然と言う。資格試験のものらしき大判の参考書である。資格取得が趣味の律は参考書をいくつか持ち込み、早速部室の本棚の片隅を占有していた。
「佐田、お前がそれを言うのか……濡れ衣を着せた張本人のお前が」
「私は『浮気はいけない』という一般論を述べただけです。何かおかしかったですか?」
「違う。俺が言いたいのはそういうことではない」
律は真面目くさった顔と声音でそう言うものの、口元の緩みを隠しきれていない。
大地は絶望に打ちひしがれたかのように机に伏せつつ、自らの現況を確認する。
そもそも大学の面積は広大で、生徒数も高校とは桁違いに多い。一口にクラスと言っても、所詮は同じ場所に偶々集っただけの他人の集団である。故に、意図的に同じクラスを取った友人同士意外は無関心が常だ。大地はそう認識していた。そして、それは概ね正解である。通常であれば、一カップルの話題など七十五日を待つまでもなくあっという間に立ち消える。
ただ一つ大地に誤算があったとすれば、律の存在が思いの外知れ渡っていたことだ。
一度目にした者同士ならば、その特徴だけで察せられる程に律は印象深かった。その律に関するゴシップである。加えて、相手とされる大地も熊のように縦にも横にも大きい特徴的な見た目であり、ゴシップの内容も年頃の若者にとって衝撃的な内容であった。
どうあがいても絶望しかなかった。誰が流したのか、SNSやスマートフォンのメッセージアプリ上でも話題になっているらしい。特にメッセージアプリでの被害が深刻だった。大地は知らなかったが、昨今の若者は入学時に同世代の多数存在するオンライン上のグループに入るものらしい。秀一郎ですら入っていた。秀一郎が噂を知っていたのはそれ故だ。
やがて、しょんぼりと項垂れていた大地は何かを閃いたのか、律に対して前のめりに懇願するように声を掛ける。
「そうだ、佐田から噂を否定してくれないか? 俺の大学生活がかかっているんだ。頼む」
「誰に何を否定すれば良いのですか? 借りたものを返すと伝え、両親からの伝言を言い添えただけですが? 事実しか存在しません」
「そうだけど……そうなんだけれども」
すげなく淡々と律が述べると、大地は荒々しく頭を抱えて激しく体を悶えさせる。
それを眺める律は徐々に表情を取り繕うことが難しくなりつつあるようで、口元だけでなく目元まで緩み始めていた。
「なぁ佐田、お前はそれでいいのか? いつか困る時が来るぞ。事実は異なるとはいえ、同じ同好会に所属している男が親公認の彼氏となれば多大な機会損失になるぞ。事実と異なるとはいえな! 在学中に彼氏が出来なくてもいいのか?」
大地がなおも食い下がると、律は軽く息を吸ってからキッパリと切り捨てるかのような鋭い言葉を発する。
「その程度で諦めるようなら所詮それまでです。縁は無かったのでしょう」
「いや普通諦めるだろ、それ」
さすがに大地が不憫になってきた秀一郎が口を挟む。しかし、律は秀一郎を一睨みして黙らせると、話を逸らし別の話題を持ち出す。
「それより、相田先輩はまだでしょうか。遅いですね」
すると噂をすれば影が差すとばかりに、補修したての部室のドアが勢いよく開かれる。
「ねぇ、大地君と律ちゃんが許婚だったって本当? なんで教えてくれなかったの?」
結芽がぷりぷりと膨れながら入室すると、大地は盛大に溜息を吐いた。
数分後、結芽の追及は一向に止む気配は無かった。それと同時に、結芽への対応が面倒になり始めていた大地は、結芽による執拗な追及をかわすために鞄から一冊の書籍を取り出し話題の転換を図る。
「先輩、その話はまた今度にしませんか? それより同好会の活動に関して話があります」
「えー、それより許婚の件について詳しく教えて欲しいのに。……まぁいいけどぉ」
結芽は少し不貞腐れた様な態度を浮かべるものの、さすがに活動の方も重要だとは認識しているためか渋々と矛を収める。だが決して追及を諦めた訳ではないことは、その視線が雄弁に物語っていた。
それを眺めていた秀一郎は、あまりに哀れな大地に同情し、話題に率先して乗っかることで助け舟を出す。
「おい、大室。それは何の本だ? 富地米村関連か?」
「あ、そうそう、そうなんだ。この本の中で富地米村の伝承について記述されている部分があってな。それがかなり興味深い話だったから共有しようと思って持ってきた」
大地はそう言って、一冊のハードカバーの本をタイトルが皆に見えるように掲げる。『民間伝承の正体』いうタイトルで黒い装丁の、一見するとやや胡散臭い類の本である。だが、その胡散臭さが一周回って大地の琴線に触れた。
「著者がオカルト否定派なのは残念だけど、こういう類の検証本は大好きだ」
「うんうん、分かるよ。良いよね」
「はい、良いです」
結芽が大地の嗜好を肯定すると、大地は人生で初めて現れた理解者の存在を噛み締めるかのように、しみじみと頷く。しかし、そのオカルトオタク二人を怪訝な表情で見つめる秀一郎の視線は冷たい。
その時、著者名を見て考え事をしていた様子の律がポツリと呟く。
「この著者の方、須木高氏、どこかで見覚えがあるような気がします」
「あぁ。テレビには頻繁に出ているし、ネット上でもよく炎上しているからな。どこかで見たんだろう。似たようなトンデモ本も数多く出している」
「雑誌にコラムも連載していたりするしな」
秀一郎が小馬鹿にしたように言い放つと、大地はさりげなくフォローするかのようにやんわりと情報を付け足す。しかし大地のフォローに対して、良い子ぶるなと言わんばかりの口調で秀一郎はさらに情報を捕捉していく。
「著者は酷い毒舌な上にオカルト否定派だ。この類の議論の際に槍玉に上げられることは多い。独善的で傲慢で、どこか人を見下しているような語り口だ。ロクな奴じゃない」
「なるほど。随分とクセの強い方のようですね」
律は秀一郎をまじまじと見つめ、得心が行ったと言わんばかりに大きく頷く。「同族嫌悪では?」と言わんばかりの律のあからさまな当て擦りに、結芽と大地はハラハラとしながら様子を窺っている。しかし幸か不幸か秀一郎に自覚は無いらしく、いつもより少しだけ滑らかな語り口で人物評を付け足していく。
「そうだ。さらに言うなら基本的にこの著者の言い分は酷い言いがかりだ。隙あらば何にでもケチを付けるし、常に何かの逆張りをしている。酷く低俗な人間だ。だが、それっぽく聞こえる現実味がありそうな絶妙なラインの言いがかりをつけるのが巧い。それがウケて、今じゃ引っ張りだこだ」
「議論するなら分かりやすい反対派や敵は必要だものな。その辺の需要を上手に取り込んだってことか」
大地が無難な感想を述べると、一通り話し終えて満足げな秀一郎が頷く。そこへ、わずかに口元を歪めて薄く微笑んだ律が疑問を投げかける。
「つまり、駒井君はその方のファンであるということですね?」
その言葉に秀一郎は俄かに機嫌を悪化させ、怒髪天を衝く勢いで声を荒らげる。
「はぁ? お前、僕の話をちゃんと聞いていたのか? 嫌いに決まっているだろうが。こんな偏屈で捻くれた人間のどこにファンになる要素があるんだ。つまらん冗談だな」
しかし、秀一郎の怒声を柳に風と受け流した律は、平然とした口調で言葉を返す。
「そうですか? 私は嫌いではありませんが。人間臭くて良いではないですか」
「俺もなんだか嫌いになれないな」
「わたしも! 私も良いと思います!」
「…………ちっ、揃いも揃って物好きな奴らだな。僕には理解できない。それより本の内容を早く言え。用が無いなら帰るぞ」
予想外の三人の反応に秀一郎は言葉に詰まり絶句するも、すぐに気を取り直し、話の先を促す。しかし、その口調には先程までの勢いはなかった。
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