第18話
週明け一番の講義は必修の『統計学』であった。
大地が今期で取得した講義の中で最も憂鬱な講義である。統計学においては数学的要素が大部分を占める。そして大地にとっての数学とは、受験の際に最も苦労させられた不倶戴天の怨敵であった。
(寝るな。ダメだ。先週やらかしたばかりなのに、またもや居眠りは駄目だろう)
大地は自らに言い聞かせると頭を振って歯を強く食いしばり、なんとか眠気を遠ざけようと意志の力を振り絞る。それにより少しだけ眠気は遠のいたものの、講義の内容は一向に頭に入らなかった。
(このままではまずい。ただでさえ苦手な数学なのだ。一度脱落したら後々苦労することになる。せめて復習しやすいようにノートだけでもしっかり取らなければ)
大地は、なんとか食らいつこうと必死の形相で顔を上げる。しかし、その視線の先に存在するホワイトボードにあったのは、謎の数式の羅列だけであった。
(もうダメかもしれない……うおっ)
大地の心が折れ、諦めかけたその瞬間、横合いから肘で脇腹を突かれる。大地はその衝撃に驚き、その驚きをもたらした人物を横目でチラリと見つめる。
その人物は背中に鉄定規でも差し込んでいるかのようにぴんと背筋を伸ばし、何事も無かったかのように講義に聴き入っている。大地が最近話す機会を得たばかりの少し変わった同級生、佐田律である。
律は素知らぬ顔で講義を受けているものの、その横顔には大地が居眠りしかけたことを非難するかのような色合いが浮かんでいる。先日結芽によって任命された諌め役を忠実にこなしているのだ。
(分かっている。全部俺が悪いのは分かっているんだ。やる気もあるんだ。本当なんだ)
内心で誰にともなく言い訳をするものの、さりとて眠気が覚めるわけでもなし。
大地はその後、律によって脇腹を突かれ続けた。音も無く、しかし回を増す毎に少しずつ痛みが増すエルボー、その的確な力加減に対する恐怖が身に刻み込まれるまで。
講義終了後、律とは逆側に席をずらしていた大地に対して、律は折目正しく挨拶を行う。
薄く微笑む律は遠方からの通いで朝はそれなりに早い。しかし、大地とは異なり全く眠そうな様子もなく溌剌としている。挨拶を交わす間も無い程の始業間際に駆け込んできて、居眠りをしかけた大地とは雲泥の差であった。
「大室君、改めておはようございます。目は覚めましたか?」
「お陰様でな」
「寝不足ですか? もしや先日の件でお疲れでしたか?」
律の憂いを帯びた表情は心底大地を心配しているかのように気遣わしげで、労りの色で満ち満ちていた。先程まで大地の脇腹を抉りこむかのような殺人エルボーを放っていた人物だとは思えないほどだ。そのギャップに大地は苦笑いを浮かべつつ言葉を返す。
「いや、アレくらいで疲れたりするほど運動不足ではないぞ」
「そうですか? それなら良かったです。……いえ、やはり良くありません。では、なぜ船を漕いでいたのですか?」
大地の寝不足の原因は、深夜に家まで送迎をさせてしまった自分にあるのではないかと考え、律は罪悪感を抱いた。しかし、どうやらそうではないらしいと分かり、ホッと胸を撫で下ろす。
だが、それならそれで本来の原因を探る必要がある。なぜなら自身は大地の友人にして、大地を諌めるべき役目を持つ者であるからだ。
「ちょっとのつもりで調べ物をしていたんだけど、つい夜更かしをしてしまったんだ」
「富地米村の件ですか? 熱中するのは良いですが、学業を疎かにしてはいけませんよ」
「それはそうなんだけど。あ、それより聞いてくれ。面白い本を見つけたんだ」
バツの悪そうな態度を浮かべながらも、早く語りたくてしょうがないと言わんばかりに大地の目はキラキラと輝いていた。律は呆れたように大きく溜息を吐くと、聞き分けのない子供をあやすかのような態度で了承の意を返す。
「分かりました。では放課後に部室でお聞きします。本日はお互い次の講義で終わりですし、大室君も今日はアルバイトは入っていなかったはずです。それでいいですか?」
「あぁ、勿論だ。ありがとうな」
何故か自身のスケジュールを事細かに把握されている。そんな異様な光景も今の大地にとっては気にもならない。ただただ興味の対象について語り合えることが嬉しかった。
一方で、態度にこそ出さなかったものの、律も律でこの状況を余すことなく満喫していた。今までとは違って気兼ねなく友人の隣の席に着き、そればかりか談笑すら行えている。内心では今まさに我が世の春と言っても過言ではないほどに浮かれていた。
そして、その内心の浮つきは僅かではあるが表情にも表れ、周囲から律の微笑む様子に視線が集まりだす。
長身で目立つ上に目つきが鋭く、普段は極端に無愛想な律だ。少し微笑むだけでも印象がガラリと変わる。決して目が大きい訳ではないし、鼻が特別高いわけでもない。美人の条件と言われる涙袋も、えくぼも、口角も至って普通である。だがそれでも人目を引き付けるだけの存在感が律にはあった。
そんな衆目が集まる只中で、しかし当の張本人は周囲の様子に気付くこともなく、普段通り世間話をするかのように口を開く。
「そういえば先日お借りしたコーヒー代をお返ししますね。こちらです」
「あぁ、そういえばそんなのもあったな」
「その節は大変お世話になりました」
畏まった礼と共に差し出された封筒を、大地は小さな驚きの表情を浮かべながら受け取る。封筒に入れて渡してくるあたりに律の育ちの良さが垣間見えたからだ。
しかし、すぐに大地がさらにギョッとするような発言が続く。
「それと、お借りしていた服も持ってきました。ここで渡しても荷物になると思い、ひとまず駅のロッカーに入れてあります。後で大室君の部屋まで返却にお伺いしますね」
それは律にとっては真実世間話に過ぎなかった。だが大地と周囲の者にとってはそうではなかった。「入学早々お泊まりかよ」「付き合ってるのかな」「あいつ手早いな」
周囲は俄かにざわつき、様々な憶測が飛び交いだしている。これに肝を冷やしたのは大地だ。入学してまだ日は浅い。こんな形で悪目立ちはしたくなかった。
「……そうか。わざわざありがとう。こないだ家に五分だけ! たった五分だけ寄った時に貸した上着とヘルメットとグローブだな! バイクで家まで送った時に貸したアレな!」
大地は顔をひきつらせながら、周囲に釈明するかのような説明口調で大声で訂正をする。決してお泊まりの事実など無いと主張するかのように一部を強調しながら。
しかし、その慌てる大地と周囲の喧噪を見て諸々を察した律は、大地だけに見えるようニンマリと醜悪に微笑む。そして一瞬で表情をガラリと作り替えると、大地に無慈悲な追撃を行う。
「私の両親もお礼を言っていました。これからも娘をよろしくと伝えてほしいと」
そう口にした律の表情は誰が見ても楚々とした印象に映るように整えられていた。気恥ずかしさを誤魔化すかのように目を伏せ、ほんのりと赤くなった頬を隠すかのように頬に手をやっている。実際には口元が緩まないよう手で押さえているだけであったが。
「……俺の大学生活はもう駄目かもしれない」
大地はガックリと肩を落とす。周囲のざわめきを見るに今更否定しても噂を止めるのは無理だろう。律の稚気から放たれた追撃は、大地にとって致命的な効果をもたらした。
入学早々にお泊まりをした上に両親公認であるという、身長的な意味での大物カップルがいるという噂が流れるのは、それからすぐのことであった。
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