第6話

 その棟群は大地達の所属する『赤舎大学』の最外側エリアに存在していた。大学の広大な敷地を囲う外壁に押し掛かるようにして乱立する雑多な建物の群れ。大変古めかしく、また大変侘しい佇まいのそれらは、弱小活動団体の拠点として使用されている建物であった。


 しかし、それらの棟群は大学の主要施設やメインストリートからはあまりにも遠い。それはすなわち、その距離こそが、弱小団体に対する大学からの評価に他ならないからである。中央寄りであればあるほどに活動規模が大きく、知名度や実績も高まる傾向にあった。勿論、教職員からの憶えも良くなる。


 その観点から判断すると、大地と律が連行されてきたこの最外層エリア、通称『辺境』を拠点にする団体は、活動団体としては最下層の下の下もいいところの、いつ潰れても不思議はない零細団体であることは疑いようがない。しかし仮にそういった背景知識を持たない者が一見したとしても、それらが零細団体であることは容易に推測出来る。酷くうらぶれた外観を見れば一目瞭然であるからだ。


 そんな『辺境』の中でも、さらに外れに存在する建物内の最奥の角部屋。その部屋の前には、味のある金釘流で『ふうど研究部』と書かれたプレートが下がっていた。経年劣化により色が褪せた磨りガラスのドアは酷く歪んでおり、開け閉めにコツを要する程に建て付けが悪い。ドアを一人で開けられて初めて一人前とみなされるという風潮すら存在する程だ。数十年間もの長きに渡り、代々受け継がれてきた新入部員の通過儀礼である。


 しかし、連綿と続いたその慣習も本日を持って終了の運びと相成った。その通過儀礼を純粋な膂力のみで突破し、あまつさえ破壊せしめた者が居るからだ。その人物は部屋の中央で仁王立ちをしながら高らかに宣言する。


「では、我々をここに連れてきた用件の詳細を速やかに説明してください。大室君と私の貴重なデートの時間を浪費させたのです。くだらない用件であったのなら、その時点で即退出とさせていただきます」

「あの……」

「いや、デートなんてしてないし、そもそも今日初めて会話をした程度の仲だろうが。というか、まずはドアを壊したことをだな……」


 悪びれる様子もなく真面目くさった顔で平然と虚偽を述べる律に対して、大地は即座に訂正を入れる。しかし、大地としては外れた状態で立てかけられているドアの方も気になるようで、チラチラと入り口に視線をやっては気まずげな表情を浮かべていた。


「年頃の男女が放課後に仲睦まじく談笑していたのです。あれはデートと言っても過言ではないはずです。それと私ドアを壊したのではありません。ドア壊れたのです。もしくは既に壊れていたのです。そうに違いありません」

「そのことなんだけどね……」

「あれは断じてデートではないし、ドアは佐田が怪力で力任せに開けて壊したんだろうが。小学生のような屁理屈を言うな」

「大室君。か弱い女性を捕まえて怪力などと暴言にも程がありますよ」

「ねぇ、聞いてちょう……」

「か弱い女性は人一人を軽々と抱え上げないし、乾パンみたいにカチカチのビスコッティを二口で噛み砕くわけがないだろうが」

「そういうところが好きだと先ほど仰っていたではありませんか」

「そこまでは言ってない! さっきからちょこちょこ都合よく捏造するな」

「……ぐすん」


 小柄な女は先ほどから何とか口を挟もうと機を見計らっていた。しかし背の高い二人が遥か高みで繰り広げる激しい口論によって、声どころか姿すら視界に入らない。それでも、めげずに何度かトライしたものの、終いには声掛けを断念し涙目で項垂れる。


「いい加減にしろ。何なんだ一体」


 その時、部屋の奥から何者かの怒声が響く。決して大声ではなかったものの、多量の苛立ちを含んだ甲高い声は室内に良く響いた。


 白熱していた二人も動きを止めて声の方へと視線をやる。奥の物影から現れ出でた声の主は神経質そうな顔立ちの男であった。


 こざっぱりとした出立ちをした清潔感のある人物だ。着ている衣服は、つい数分前にアイロンを掛けたかのように折目正しく仕上がっているし、掛けている眼鏡のレンズは曇り一つなく煌めいている。また、纏っている清潔感が雰囲気だけではないことを示すかのように、その手に小型の消毒ジェルボトルを握りしめており、周囲に独特の消毒臭を撒き散らしていた。


 しかし大地が最も気になったのは男の表情だ。憤懣やる方ないと言わんばかりに酷く苛立っている上に、額には青筋が浮かんでいたからである。疲労の色も濃いように見える。律と共に大声で騒ぎ立ててしまったせいで迷惑を掛けてしまったかもしれない。大地は謝罪のタイミングを見計らいつつ事態の趨勢を見守る。


 律も大地同様に男を見つめて黙り込んでいた。しかし、その視線はまるで不審者を見つめるかのように鋭く、猜疑心に満ち満ちていた。


 場が静まったタイミングで、小柄な女が感極まったかのような態度で神経質そうな男に声を掛ける。


「秀一郎君……ありがとうね。私、頑張るからね!」

「はぁ?」

「え?」

「……」

「えっと……、秀一郎君は私が話をしやすいように場を整えてくれたんだよね?」

「全く違います」


 秀一郎と呼ばれた男は小柄な女の言葉をバッサリと切って捨てる。


「あ……そ、そうなんだ。私の勘違いだったかぁー。そっかぁ、そっか……へへっ」


 気恥ずかしそうに頭をかいていた女は気恥ずかしさから虚ろな笑みを浮かべて項垂れる。その気落ちする女を横目で気の毒そうに眺めていた大地は、居た堪れなくなり神経質そうな男に向けてやんわりと声をかける。


「えっと……それならもしかして、俺達が騒いじゃったから怒っているんじゃないのか? その……もしそうならすまない。ドアも壊しちゃったしな。壊したのは俺じゃないけど」

「そんなことはどうでもいい。というか、お前達は何だ?」


 秀一郎は大地と律を訝しげに睨みつける。ただでさえ狭い部室内に自身よりも大きい女と、その女よりもさらに縦にも横にも大きい熊のような人物が居座っているのだ。鬱陶しいことこの上ない状況であった。


「私達は、そこの先輩? ……に連れてこられました。状況は全く把握出来ていません。ちなみに、あなた、確かお名前は秀一郎……さん、でしたね? 原因が先輩でも私たちでもないというのなら、あなたは何故そんなにも苛立っているのでしょうか?」

「勝手に名前で呼ぶな、馴れ馴れしい。駒井だ」


 秀一郎が吐き捨てるように言い放つ。律は一瞬だけ小柄な女に視線を向けた後に、特に気を悪くした様子も無く頷き訂正する。


「承知しました。では駒井君、続きをお願いします」

「続きも何も……お前達、この部屋を見てなんとも思わないのか?」


 秀一郎は律の平静な態度こそが何よりも気に食わないと言わんばかりに声を荒らげると、激しい身振り手振りで周囲を指し示す。


 ふうど研究部の部室内は、文字通り足の踏み場もない程に酷い有様であった。紙束や本のみならず、何に使うかすら定かでは無い物品で室内が埋め尽くされていた。室内の真ん中に置かれているテーブルや机は、もはや本来の用途を為してはいない。否、そこへ辿り着くことさえ難しい状況であった。獣道のようにか細く不確かな、道と呼ぶには烏滸がましい程に貧弱なそれが無ければ、移動が困難な程に雑然としていた。


 潔癖症気味な秀一郎にとって、この部屋も、この部屋の惨状を放置していた女も、この信じられない程に雑然とした部屋で平然と口論を続ける男女も、全て等しく狂気に冒されているのではないかとすら感じられていた。


「……仰る通りですね」

「……ごもっともだな」

「誠にごめんなさい」

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