入部編

第2話

「大室君。聞こえていますか、大室君。本日の講義はもう終わりましたよ」


 凛として、それでいて芯のある力強さを伴った声を掛けられたことで、ぼんやりと呆けていた大柄な青年、大室大地は慌てて顔を上げ、声のした方へと視線を向ける。


 声の主は大地のすぐ横に姿勢良く佇んでいた。


 緩くウエーブのかかった黒髪を片側でまとめ、シンプルな装いに身を包んだ長身の女である。女の服装は一見するとやや地味めではあるものの、女が纏う鋭い雰囲気とも相まって、いかにも都会的で洗練されているように大地には感じられた。有り体に言えば、田舎から上京したばかりの大地は少しだけ気後れしていた。


 そんな大地の心中など知る由もない女は、徐に立ち上がると仁王立ちに鋭い視線で大地を見下ろし苦言を呈する。


「今日は少し気が抜けているのではないですか? 少し早めの五月病か何かですか?」


 発破をかけるかのような揶揄い口調で発された言葉に、気後れから立ち直った大地は僅かに苛立ちを感じてムッとする。とはいえ、この女の言うことはもっともだ。学業を疎かにし、自身が楽しみにしていた唯一の講義にまで身が入らないなど注意散漫にも程がある。冷静に自らの身を省みた結果、自責の念に駆られた大地は肩を落として項垂れる。


「……確かに少し弛んでいたみたいだ。注意してくれてありがとう」


 真摯に反省の意を示す大地を確認すると、長身の女は満足げに微笑み頷く。


「分かっていただければ良いのです。これからは気をつけてくださいね」

「あぁ、気をつけるよ」


 しかしそれはそれとして、大地には一つだけどうしても気になることがあった。


「それで、その……えぇっと、どちら様でしょうか?」

「…………は?」


 女の顔色を窺うかのように謙った態度で発された言葉は、しかしその意図に大きく反する効果をもたらした。微笑みを湛えていた女の表情が急速に不機嫌な感情で塗り潰されていく。


慌てた大地は必死に言い訳を捻り出す。


「その……気を悪くしたのならすまない。けど、俺達が話すのはこれが初めて……だったよな?」


 そう怖々と尋ねたものの、大地も一応この女の存在自体は知っていた。


 女性のみならず男性を含んだ上でも稀に見る程の高身長と、独特の近寄り難い謹厳な雰囲気も相まって、強く周囲の耳目を惹きつける類の人物であるからだ。『なにか凄いのがいる。都会には色んなのが居るんだなぁ』と大地も見知ってはいた。


 しかし、その認識が『この女はどこかおかしい』に変化するまでに、さして長い時間を要することはなかった。その理由は女の不審な行動にあった。


 この半月程、講義の度に女は何故か大地の隣の席に着いていた。大地の方が早い時には一直線に隣へ。大地が遅刻ギリギリに駆け込んできた際には席を移動して隣に。隣が空いていない場合は周囲の隣接する席に。大地が席を変えれば女もそうした。


 大地は自身のことをある程度正しく評価しているつもりだ。容姿は優れているわけではないし、間違っても裕福に見えるような人物でもない。頭は悪い方ではないものの、同じ大学内なら多少の差はあれど皆似たようなものだ。大地はただただ頑丈で、良く言えば人が良く、悪く言えば優柔不断なだけの人物である。女が自身に好意を抱いているなどと自惚れるつもりは毛頭無かった。


 故に大地の目には女の行動はただただ不可解に映った。あまつさえ、深い友人関係を前提としているかのように親しげに話しかけてきた上に、さらに大地の名前まで知っているのだ。不可解を通り越して警戒心すら抱き始めていた。田舎の友人の『都会は怖いところだ。美人局には気をつけろ』という言葉が今まさに頭を過ぎっている状況である。


 大地はチラリと上目遣いで女を見遣り返事を待つ。


 女は少しだけ沈思に耽った後、自身の中で納得が得られたことを示すかのようにサッパリとした顔で鷹揚に頷き、口を開く。


「そういえばそうでしたね。自己紹介がまだでした。これは失礼致しました。改めて自己紹介させてください」


女は仕切り直すようにそう宣言すると、元より真っ直ぐであった背筋をさらにシャン伸ばし、大地の目を真っ直ぐに見つめ口を開く。


「佐田律と申します。大室君と同じ一年生で、あなたと同じ講義を複数取っています。具体的には、この文化人類学概論、英語スピーチ、統計学、情報リテラシーです。今後ともよろしくお願い致します。親しみを込めて下の名前で呼んでくださっても構いません」


 律は上品に会釈をして嫋やかな笑みを浮かべる。しかし律の笑顔に反比例して、大地の猜疑心はますます強まっていく。


「待ってくれ。ええと……佐田、はどうして俺の個人情報にそんなに詳しいんだ?」

「名前で呼んでくださっても構いませんよ?」

「いいから質問に答えてくれ」

「…………そんな些細なことはどうでも良いではないですか。それより今の講義のノートは大丈夫ですか? 次回小テストがあるそうですよ?」


 律は話を逸らすと、大地に見えるようにノートを左右に振りながら不敵に微笑む。

 大地は周囲を見回すも、既に他のクラスメイトは立ち去っており、室内には大地と律しか存在していない。今頼れる人物は目の前の不審者のみであった。


「……もし可能だったらでいいんだけど、ノートをスマホで撮影させてもらえるか?」

「それは駄目です」


 律は間髪入れずにキッパリと拒絶する。


 断るなら一体なぜ話しかけてきたのだろうか。大地は不可解さを感じるが、そもそもが自業自得であることを理解しているため、律の言葉に落胆することはなかった。


「それならしょうがないな。それじゃあ自力で頑張ってみるよ。それじゃ」


 大地は机上の私物を鞄に手早く突っ込み、勢いよく立ち上がろうと脚に力を込める。不審者から早々に距離を取りたいとの思いからだ。


 しかし目の前の人物はそれを許さなかった。大地の肩を上から押し込めるようにして再度着席させたその人物は、ぷりぷりとした態度で大地を叱りつける。


「お待ちなさい。それは違います。そうではないでしょう。諦めが早すぎます」

「駄目って言うなら無理強いは出来ないだろ。何かおかしかったか?」

「確かに私は駄目だと言いました。ですが、それは駄目だということです。書き写すことまで拒否したわけではありません」


 大地は律の言い分が理解出来ずに困惑する。ノートを借りてしまえば律が勉強する際に困るはずだし、書き写すためには時間が掛かる。一方で、スマホで撮影してしまえば数秒で済むはずだ。大地には何が問題なのかまるで理解出来なかった。


「つまり?」

「今から一緒にカフェテリアへ行きましょう。そこでの書き写しのみを許可します」

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