ふうど研究部活動録『信仰の裡面』

柳 茂太郎

プロローグ

第1話 未だ遥けき安息の夜明け

 夜半の月が中天に差しかかる頃、鬱蒼とした森の中を疾走する男女がいた。


 彼等が駆けるこの森には舗装路などといった上等なものは存在しない。人の手が入った形跡すら皆無である。在るのは生い茂った草木と倒木。そして、まるでそれらをコピー&ペーストしたかのように延々と繰り返される似通った風景だけである。ただそれだけ、しかしそれ故に過酷な環境であった。


 にもかかわらず、疾走者達は僅かな明かりすら灯していない。真夜中の、足元すら覚束無い鬱蒼とした森の中で、である。彼等は徹頭徹尾言い逃れようが無いほどに不審者然としていた。


 だが、この場には彼等を見て眉を顰める者はいない。見咎める者すら皆無だ。


 唯一在るとすれば、木々の合間から彼等の足下を薄っすらと照らす月だけである。それは必死な疾走者達を天上から眺め、嘲笑い、揶揄っているかのように、ゆらゆらと心許ない光を切れ切れに地上に送っていた。だがそれでも、その意地悪で不確かな光源ですら、闇夜の疾走者にとっては唯一の寄る辺であった。視覚的な意味でも、精神的な意味でも。


「大丈夫か?」


 大柄な青年は駆けるペースを少し落とし、自身の後ろを走る長身の女に声を掛ける。


「はい、今のところは。ですが、そろそろ休息が必要では?」


 しかし、そう口にした女の顔には疲労は一切見られない。


(休息が必要なのは俺の方ってことか)


 あまりの情けなさに青年は忸怩たる思いを抱き言葉に詰まる。


 しかし今は興奮状態にあるため疲労を感じていないが、はたから見るとそうではないのかもしれない。悠長に休んで良い場面では決してないけれども、さりとて休憩無しの強行軍でこの森を脱せられる自信は微塵も無かった。


「そう……だな。分かった。少しだけ休むか。どこか休めそうな場所を探さないとな」


 すぐさま気持ちを切り替えた青年は、目を凝らして周囲を見回し休息場所を探す。しかし深夜の暗い森の中ということもあり見通しは悪い。どうしたものかと途方に暮れ、青年はその場に立ちつくす。


 すると、女はすらりと長い指で、ある一方向を指し示す。


「あの大木の陰などはいかがでしょうか。私達が来た方向からは死角になっていますし、逆に向こうからは少し高くなっていて幾分か見通しも良さそうです」

「……随分目が良いんだな」

「夜目は利く方です」

「やっぱりさっき見えていたんじゃないか?」


 数時間前の出来事を思い返した青年は女に不信感を募らせる。顔には不貞腐れたような表情も浮かんでいた。しかし女はどこ吹く風で青年の訴えを黙殺すると、その腕を強引に掴み、半ば引きずるようにして大木へ向かい歩き出す。


「さぁさぁこちらです。行きましょう」


 大木の陰に辿り着くや否や、青年は体内の酸素を循環させるように意識的に大きく深呼吸をしてコンディションを整える。その甲斐あって瞬く間に呼吸が落ち着いた青年は、女の様子を窺うために徐に顔を上げる。


 女は青年から少し離れた場所に姿勢良く佇んでいた。その立ち姿は平素と変わらぬ事も無げな様子だ。夜の散歩でも楽しんでいるかのように悠然としている。しかし同時に、まるで周囲を警戒しているかのように鋭く、どこかピリピリとした緊張感を纏っているようでもあった。その威容に気圧された青年は躊躇しつつ女に近づき声を掛ける。


「休まなくても大丈夫なのか?」

「ええ。私は大丈夫です。先導していただけたおかげで随分と楽をできました。ありがとうございます。大変助かりました」


 律儀に頭を下げる女に対し、気にするなと示すかのように青年は左手を軽く振る。


 しかし女としては、その労苦を軽く流すわけにはいかなかった。


 月明かりの下でよくよく視線を凝らして正面から見た結果、青年が思いの外傷んでいた事実に気付いたからだ。木の枝で引っ掛けたであろう擦り傷、服のほつれ、そして体中にまとわり付いている蜘蛛の糸。服が体に張り付いているのも、触れた植物の夜露なのか、はたまた汗なのか、最早判別は難しい。青年のそれらは女と比較してもあまりにも多かった。


 青年にかなりの負担を掛けていたことに気付いた女は罪悪感から表情を曇らせ、重ねて謝罪をしようと口を開こうとする。


 しかし、いち早くそれを察した青年は慌てて話題を変えた。


「いやぁ、それにしても体力あるんだな。これでも割と鍛えていたつもりだったんだけど、俺は正直もうヘトヘトだよ」


 場違いに明るい声で青年がそう言うと、その意図を察した女は敢えて居丈高に応じる。


「ふふ、まだまだですね。もう少し走り込んで体力を付けた方が良いですよ」

 

 女の勝気な態度に青年は苦笑いを漏らす。


 青年はかなり体格が良い。平均身長を大きく上回る上背に加え、明らかに激しい運動習慣が有ることが窺えるほどには筋肉質である。友人達に熊のようだと形容されることも少なくはない。だが、その若く頑健な肉体を持ってしても、月夜の悪条件下での障害物走には多大な労力を伴っていた。


 にもかかわらず一方の女には疲れた様子は微塵も無く、それどころか談笑する余裕すらある。青年が前を走り、文字通り露払いとして障害物を払い除けてきた事実を考慮しても、それでも尚、女の方が体力的に優れていることは明白であった。スタミナに自信があった青年は内心で密かに落ち込み、それが溢れてボソリと自嘲の言葉を漏らす。


「……そうだな。もう少し体力を付けないとな。無事に帰れたら、ランニングでも始めるかな」

「良いですね。その時は私も付き合いましょう」

「お前は家遠いんだから無理するな。それに講義前に朝から汗をかくのは不快だろう?」

「それは大丈夫です。シャワーを浴びますから」

「そうか、それなら……ってまさかウチのシャワーのことじゃないよな?」

「駄目なのですか?」

「ダメに決まってるだろ。また、お泊まりだのなんだのとデマが広がるだろうが!」


 その瞬間、暢気な会話をする二人に警告を発するかのように周囲の木々がざわざわと揺れた。どこからか大型の動物のものらしき唸り声も聞こえる。


 二人は弛緩した空気を引き締めるように真顔で頷き合い、移動を再開し始める。未だ遥けき安息の夜明けを目指して。 

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