蛭飼い

江古田煩人

蛭飼い

だから蛭なんて軽率に飼うもんじゃない、という切り貼り屋の警告を俺は今さらになって思い出していた。雑営団地地下の闇市で一匹いくらで仕入れてきた赤斑種せきはんしゅ食用蛭しょくようびるは、動きこそ愚鈍だが生体になると肉と言わず骨と言わず一緒くたに呑み込んで消化してしまうという触れ込みだったものだから、中にはその手の証拠隠滅に使うやつもいるらしく、ただのろまで飼いやすそうだからという理由で赤斑種を選んでしまった俺の軽薄さを今は恨むしかなかった。賭け酒屋を始めたのならひとつ蛭でも飼うといい、半年もすれば元手が三倍になる、ちょっとした空間さえあれば素人でも飼えると闇市のブリーダーがしきりに勧めるものだから、店に備え付けてあるコンクリート張りの地下収納につがいで放り込んだきり今まで蓋を開けようともしなかったのだ。飼い始めて半年と少し、普通ならもう絞めて蛭革にしてもいい頃だった。

「おおい」

俺の背丈ほどもある、コンクリートに開けられた大穴を前に俺は吠えた。呼んでみたところであの米俵ほどもあるのっぺりした蛭どもが素直に俺の元へ帰ってくるはずもなかったが、ともかく逃げ出してしまったものはどうにかして始末をつけないとまずい。なにしろ、餓えきった食用蛭のつがいなのだ。今ここで確実に仕留めておかないと隣近所に住んでいる住人たちが片っ端から蛭の胃袋におさまってしまうどころか何倍いや何百倍にも膨れ上がった食用蛭の大群がむらがるように古巣へ戻ってきて俺をどんな目に遭わせるものだか分からないし分かりたくもない。俺は震える足で店のカウンターに駆け戻ると、いつも悪質な酔っぱらいを取り押さえるのに使っている刺股を引っ掴んでまた穴の前に戻ってきた。扱いが乱暴なせいで角の片方がやや欠けてしまっている硬化プラスチックの汎用刺股、あのぶよぶよした肉の塊に対してこんなものがどれだけ役に立つのかは分からないが丸腰で襲われるよりましである。なけなしの勇気を振りしぼって穴の中へ足を踏み込もうとした俺の肩を不意に骨ばった手がぐいと掴んだ。

「死ぬえ、ああた」

耳元で囁かれたかすれ声と愛想もくそもない突き放した物言いがどれほど俺を驚かせたのはいまさら説明したくもないが、俺が素っ頓狂な悲鳴を上げてもやつは土気色の顔をつまらなそうに歪めたままにこりともしなかったからきっとこんな事には慣れっこなのだろう。切り貼り屋は俺が握りしめている安物の刺股をねめつけるように見るともう一度つまらなそうな目で俺をじとじとと睨んだ。

「あれだけ言うたに逃しおって。だあら素人が蛭飼うんはやめとけ言うたが、人の言うことまるで聞かんでこのずうたらべえが」

雑営団地でなにかしら揉め事があると必ず首を突っ込みに来るのがこの切り貼り屋のトカゲ男で、それはつまり彼がこの団地に店を構えて随分長いために半ば公然的に団地の管理者のような役割も引き受けているからで、年の割にはけっこう頼りにされているのだがなにも彼自身好き好んでこうした尻拭いを引き受けているわけではないことくらい彼の苦り切った顔を見ればよく分かる。何号室のだれそれが食用蛭を飼うとなると決まって二言三言忠告しに来るのがこの男で、親しい友人に蛭を飼うつもりだとひっそり打ち明けた話がどういう風に巡り巡ってこの切り貼り屋の耳に届いたのか、そこで俺は数日前に先ほどのぶっきらぼうな注意を受けるに至ったのだ。その時は年寄りのお節介と思って適当に聞き流しておいたのだがあの忠告をもっと素直に聞いていればこんな事には巻き込まれずに済んだのかもしれない、しかし今さら泣き言を言ってみたところでどうにもならないし現に俺の蛭は大きく開けられた穴ぼこの奥深くへ逃げてしまったのだ。切り貼り屋は大穴に足を踏み入れると猫でも呼ぶような調子でちちちと舌を慣らしてみせたが案の定蛭からの返事があるわけもなく、代わりに穴の奥からは野ざらしにした生肉のような臭いがむわりと漂ってくるだけである。俺のいぶかしげな視線に気付いたのか、切り貼り屋は白衣の隠しに手を突っ込むと腹立たしげに尻尾を一振りした。

「ここにゃ居らん」

「分かるのか、今ので」

「つがいになった蛭ば今みてえに鳴きよるけ。子ぉこさえるようになった蛭ばえれえ乱暴になりよるんやが、今んで近くにおれば穴からすっ飛んできて噛みついてきよるが。したらばああたの刺股で押さえら事は済むけえの、呼んでも来んつうことはここにゃ居らん」

つまり今の呼び声は蛭のつがいが鳴き交わす声を真似たものらしく、それなら先に言ってもらわないともしも蛭が穴の側でも潜んでいたならば蛭を押さえるどころか俺も一緒くたに飲み込まれてしまっていたところなのだが、切り貼り屋は俺が文句をつけるより先に刺し殺すような鋭い視線で俺を黙らせてしまうとそのままなんでもない調子で穴の中に這い込もうとするのだから、今さっきまで一人で蛭を探しに行くつもりだった俺は切り貼り屋の思いがけない思い切りのよさにかえってまごつくばかりだった。何の断りもなく俺をおとりにする男にのこのこついて行ったらどういうことになるか、重い刺股をもてあましたまま足踏みをし続けてている俺の耳を切り貼り屋の怒鳴り声がするどく刺した。

「来るか来んのかどっちかにせえかい、ばあたらもんが」

あの切り貼り屋はどこの出身なのだか普段からやたらと訛りのきつい方言を話すのだが、その意味がわからないまでも言葉が持つ雰囲気だけは俺にもなんとなく分かる。それが罵詈雑言のたぐいであればなおさらで、暗がりから飛んできた切り貼り屋の声ははっきりそれと分かる程度の怒気を含んでいたので俺の身体は頭で考えるより先にじめじめした穴の中へと勝手に這い込んでしまっていた。

蛭のやつがあれだけの大穴をぶち抜いていったのだから、てっきり穴の向こうはそっくりそのまま隣家の地下収納に繋がっているものだと思っていたのだが、俺の予想に反して穴の奥にはセメントで覆われた狭い洞窟がどこまでも広がっているだけである。荒く削り取られた穴の側面にはぬるついた粘液があちこちにこびりついており、どうやらあのつがいはこの穴を掘り進めてまだ間もないらしい。

「少し前にゃ、ああたみたいに蛭ば逃がす輩がようさんおったげな。逃げ出すだけなら蛭もそんうち溶けちまうが、性悪の蛭は暗がりに潜みよったり床下から鼻ぁ突き出して人の血ば吸いよるけえ、しまいにゃどこの部屋もこん通りセメントで地下ぁ塞ぎよってな。ああたが逃したんは赤斑種の蛭やろが、あれなら簡単には死なんし壁も二階分くれえなら平気で上りよるわえ。はた迷惑な事しでかしたなぁ、ああた」

とげのある物言いとは裏腹に切り貼り屋は穴のすぐ脇で俺のことを待っていてくれたようで、やつは鱗に覆われた腕をがりがりと掻くと鼻面を突き上げるようにして地下の空気を嗅いでいた。その手にはしっかりと手回し発電の懐中電灯が握られているのだからまったく準備の良い男なのである。

「逃がすつもりじゃあなかったんだ、それに蛭がこんな大穴を空けるなんて」

「顎ぁ強え赤斑種ならセメントくれえ鰹節みてえに削りよるわ、そげな事もよう知らんで飼ったもんやえ」

切り貼り屋は手元の懐中電灯を何度かためすと、この暗闇を照らすにはやや心もとない灯りを足下に向けたまま黙って歩き始めた。

荒いセメントの洞窟は、緩やかにうねりながら徐々に下り坂になってゆくようだった。まさか隣近所の家全てが地下収納をセメントで塞いでいるはずもないのだからこの調子ではいつか民家にぶち当たるのではないかと思ったが、俺の予想とは裏腹に食用蛭どもは民家を避けて地下深くへと潜り込んでいっているようである。

「妙だな、蛭が人を避けるなんて。卵を抱えているのなら栄養が必要だろうに」

俺の独り言を聞いても切り貼り屋は何も言わず、ただ大きなため息を一つ吐いた。それはつまり俺の予想よりも事態はさらに悪化しているということで、逃げた蛭のつがいが人目を避けた場所で次に何をするかと言えばこれはもう産卵に間違いないのだから、すぐにでも居場所を突き止めて卵を燃やすなり踏み潰すなりしないといよいよとんでもない事になる、いやもうなっていてもおかしくはない。いつ暗闇から飛び出してくるかもしれない蛭どものために、俺は役に立ちそうもない刺股を暗闇に向かって構えながら静かに歩き続けた。

進めば進むほど洞窟の傾斜はいよいよひどくなる一方で、それに加えて通路もますます狭くなっていくのだから、最初は背をこごめながら洞窟を進んでいた俺もしまいには身体を折りたたむようにしながら粘液まみれの道を進むほかなくなっていった。蛭が削り取っていったわずかな段差を足がかりに、今にも足を滑らせそうな道をおそるおそる辿っていくのがやっとだったが、その点切り貼り屋の方はさすがトカゲ男というだけあって道が大きくえぐれている所などは壁面や天井を這うようにしてすいすいと進んでいく。しかし俺よりはるかに足の速いはずの切り貼り屋があくまで俺の歩調に合わせてくれているのは、不注意から蛭を逃がしてしまった俺に対しての温情か、それとも蛭飼いとしての責任をあくまで俺に押し付けようという腹づもりからか、ひょっとすると蛭のつがいを片付けるついでに俺の事も蛭に食わせてなかったことにするつもりかもしれないぞ、なにしろ造営団地の管理者なんだからなあ、団地にとって迷惑な住人をひっそり私刑にかける事だって平気でするかもしれないきっとそうだ、なにしろ俺をおとりにしようと企む男なんだからな、まったく爬虫人ってやつは善良そうに見えてもやっぱりその裏で何を企んでいるものか分かったものじゃないなどと思っているところで切り貼り屋が急に立ち止まったものだから俺はやつの背中に思いきり顔をぶつけてしまった。何度目かの舌打ちと共に俺を振り向いた切り貼り屋の顔は懐中電灯のほのかな灯りに照らされておどろおどろしい隈取りのように見え、俺はあやうく叫び出しそうになるところだった。

「何ね。考え事でもしよったか」

「ああ、まあ」

そうですねえ、と喉から言葉が出そうになるのを俺はとっさに押さえ込んだ。それにしても切り貼り屋は何を見つけたと言うのだろうか、食用蛭の死骸を見つけたにしてはどうも動きが急すぎる、と思いながら切り貼り屋の肩越しに洞窟の先を覗いてみるとそこには蛭の死骸どころかたっぷり三メートルはあろうかという真っ黒な大穴が固い地面をぶち抜くようにしてずどんと空いているのだから俺は今度こそ叫び声を上げて二、三歩後じさった。

「わあ」

こんな所でうっかり足を滑らせたりしたらそれこそたまったものではないが、そもそもこんなに巨大な穴をあの食用蛭が二匹がかりで空けたというのも疑わしいもので、するとつまりこれはつまり俺が逃がした以外にもさらに大量の食用蛭がここら一面にむらがってこの大穴を開けたのだとするとこの大穴はおよそ蛭の巣に違いないはずで数えきれないほどの食用蛭の大群がうじゃらにじゅると今にも穴を這い上ってきて今にも俺たちを食い殺そうと狙っているのではないかそうだとしたらなぜこの切り貼り屋は悠長な顔で穴なんか覗いてやがるんだそうかこれはいよいよ俺を穴へ投げ落として殺すつもりなんだなそっちがその気なら俺だってやってやるさ、とそこまで考えたところで切り貼り屋が不意に俺の袖をぐいと掴んだ。

「わあ」

人間だれしも混乱するとまったく情けないほどの声しか出せなくなるものだが、切り貼り屋はそんな俺を前にしても普段と全く変わりのないのっぺりとした能面のような顔をこちらへ向け続けるものだから、そのいかにも落ち着き払った態度に俺もいくらか自制心を取り戻していた。どうやら俺をどうこうしようという気はないようで、すると俺の今までの考えは全て恐れから来る妄想だったのだろうか。刺股を握りしめている俺の手のひらは冷や汗でぐっしょり濡れていた。

「ひどい顔しよんなあ、ええ?そげな心持ちでよう蛭なん飼おう思うたもんやが。ああしの知っちょる限りじゃああたみてえに易い気持ちで蛭ば飼い始めたやっちゃ長くて半年保たんのよ」

「半年?」

「蛭ば飼い始めた言うやつぁ半年かそこらでふっつり顔を見せんようになるけえ、ああしが訪ねてみよったら大抵は蛭飼いん代わりに肥えた蛭がなんぼかおるだけや。きゃつら服も骨も残さんげな」

どうやら俺に蛭の飼育を勧めたブリーダーの言葉は『飼育が容易である』ということを除けばおおむねその通りらしかった。ここから生きて帰ってこれたらあのブリーダーの顔面に一発食らわせてやってもいいかもしれないなどと考える俺の袖を切り貼り屋がなおもぐいぐいと引くので、俺も切り貼り屋にならって穴の奥を覗き込んでみると、穴の縁に引っかかった硬化アルミニウムの簡易梯子が暗闇の奥深くへ垂れ下がっているのが見えた。そういえばこの大穴も蛭が掘った洞窟と比べるといやに滑らかで、どうやら大規模工事で掘られた穴に誰かが手を加えたものらしい。穴の周囲が粘液でぬらぬらと光っているのに梯子にはその痕跡がないことを見ると蛭はこの大穴へ落ちても上がっていくことはできないらしい、さしずめおびき寄せた蛭を穴の底へ集めるための仕掛け罠だがいつ誰がどうしてこんなもの、と俺が考える間にも切り貼り屋は俺をまるで無視した様子で簡易梯子をすいすいと下ってゆく。さすがに俺もついて行くものかどうかためらい、闇の奥に消えていく切り貼り屋に向かって声を張り上げた。

「あんた、一人で何しに行くつもりだい、俺は……俺はどうすりゃいいんだ、帰っていいのかい」

「帰りたきゃ帰れえ」

切り貼り屋の間延びした声が穴の中から聞こえてくる。帰れというのならすぐさま回れ右して帰っても良いのだろうが万が一帰りの洞窟内で蛭どもに鉢合わせをしたらそれこそ目も当てられない、そこまで考えた途端に急激な心細さに襲われ、俺は唯一の武器である刺股を壁に立てかけると切り貼り屋の後を追って梯子を下っていった。まったくここまで来ると自分の意志薄弱さがほとほと嫌になるが、それでも自分のしでかした過ちの後始末を他人に押し付けて逃げ帰るのは非常にいやな気持ちがしたのだ。それに、あの命知らずの切り貼り屋が万が一穴の底から帰ってこなかったら団地の住民に袋叩きの目に遭うのはほかでもない俺である。そう思うとやはり奴を置いて俺だけこの地獄から逃げ帰るわけにはますますいかなかった。

穴の周囲は一面ぬめぬめとした粘液に覆われ、やはり蛭どもはこの穴を下って地下に落ち込んていくらしい。いかにも奇妙な代物であったが、雑営団地の住人が野良蛭をいちどきに集めて処分するためにこしらえたものだとしたら説明がつく。だとしたら今ごろ団地の基礎は野良蛭どもが削った穴であちこち崩落していそうなものだが、そこまでを切り貼り屋に尋ねる気力は俺にはもうなかった。手も足もすっかりくたびれた頃に穴の下の方から湧き出すような白い光が見え始め、それはちょうど水を張ったプールの底から光を当てたような具合で壁面に小さなさざなみを作っている。俺がプールを連想したのは穴の底からぴちぴちきゃあきゃあと子供がはしゃぐような声が聞こえてきたせいもあるだろうが、その涼しげな音に惹かれて足元を覗いた途端それはもう毒々しい縞模様をした大小さまざまな蛭が穴の底を一面覆い尽くすように群がってざわりざわりとさかんに蠢いているのが目に入り、子供の声を連想したのも単にすっかり飢えきった蛭が互いに噛みつきあって体液をすすっている音で、俺はもうその光景のあまりのおぞましさ気持ち悪さに両手の感覚すらなくなってしまうような心地だったが、俺の身体が左右にふらつき始めたのに気づいたのか下にいる切り貼り屋が俺に鋭く声を掛けた。

「だあら、力あ入れえ、揺らかすくらいならいっそ落ちちまやあ!」

冷や汗でびっしょり濡れた肌に突き刺さるような声だったが、かえってその剣幕が俺の気を引き戻してくれた。俺はうっすら感覚のなくなってきた両手に今一度しっかりと力を込めると、全身で梯子にとりつくようにしながらこちらも声を張り上げた。

「大丈夫だ、なあ、あんたこれからどうするんだ。ここは一体なんなんだ、あんた何をしようってんだ」

そうしながら恐る恐る下を覗いてみると切り貼り屋は穴の底が見えているというのにますます梯子を下っていくところで、縄のように長く吊り下げられたその尻尾に食いつこうと、穴の底では蛭の一群が小山のようになって群がっている。さすがにここまでくると俺も切り貼り屋が蛭に対してなにか決定的な策を講じているのだということはなんとなく見当がつきはじめたので、俺はそれ以上切り貼り屋の邪魔をすることなくはしごにしがみついている方を選んだ。切り貼り屋はしばらく白衣の隠しを探るとやがて小さな布袋のようなものを取り出し、その中身をいちどきに穴の底めがけでばらまき始めた。山椒の濃い匂いが俺の鼻をつんと刺激し、蛭どもはその途端に身体をぎゅうっと縮こませると火をつけた鼠花火のように穴の底をばしゃばしゃと跳ね回り始めた。その勢いがまた凄まじいもので、あらかた粉を撒き終えた切り貼り屋が俺に向かって何事かを叫んでいるようだが、穴の底の蛭という蛭がすっかり狂乱して跳ね狂うせいで俺の耳にはきゅうきゅうという悲鳴と滝のような水音しか聞こえない。蛭どもが撒き散らす体液のしぶきが俺の顔まで飛んできて、その味は案外塩辛いものだった。

「だあらっしゃるがいこのすったらもんがあ!」

切り貼り屋の怒鳴り声がすぐ足元で聞こえ、見ると奴はついぞ見たことのないような恐ろしい顔で俺を睨みながらしきりに俺の足首を揺さぶっている。穴の底からなんとか逃れようとしている蛭が二、三匹切り貼り屋の尻尾に食いついているらしく、俺がそれ気づくか気づかないかのうちに今度はひしめく蛭の大群を突き破るようにして一抱えはありそうな巨大な赤斑種の蛭がのっそりと顔を突き出してきた。口の周りについた刺股の刺し傷、間違いなく俺の飼っていた食用蛭だったが闇市で買ってきた頃と比べても十倍以上は巨大である。つがいの片割れの姿が見えないのはさしずめ共食いでもしたのだろうか、だとしたらこの規格外の大きさにも説明がつく。

「ばあっくらがや、がらわんがい!」

ぐずぐずしている俺に痺れを切らしたのか切り貼り屋がどことも分からぬ方言でまた激しく吠えた。その顔色ががらにもなく青ざめているのを見て俺は若干胸のつかえが取れたような気もしたが、このままだと奴もろとも穴の底へ引きずり込まれかねない。言われなくても上るつもりだったが長い時間はしごに取り付いていたせいで腕がすっかり重く、思うように身体を引き上げることができない。切り貼り屋の撒いた毒はあのばかでかい赤斑種にも効いているようで、俺の蛭はでっぷり太った身体を壁に激しくぶつけながらのたうつようにして穴を上ってくる。その速度は他の蛭よりもかなり遅いようだったが、巨大な肉の塊が大口を開けて俺たちに迫ってくる光景は破滅的なまでにおぞましい。蛭の吐くなまぐさい息が俺のすぐ側にまで感じられ、そこから先はもう死に物狂いではしごをよじ登ると手が穴のふちに掛かるか掛からないかのうちに俺は冷たい地面の上へ死んだようにへたりこんだ。ついで切り貼り屋もすぐさま穴から這い上がると今度はふところから別の袋を引っ張り出し、袋の口を広げた途端に先ほどのものとは比べものにならない刺激臭が辺り一面に濃く漂いだしたので俺は鼻と口を覆いながら切り貼り屋のすることを息をつめて見ていた。中身がうまく出ないのか、切り貼り屋はじれったそうな手つきで袋の口を大きく広げようとしていたが、迫り来る蛭どもの勢いに押されたのかついには袋ごと中身を穴の中へ放り込むと頭を抱えて俺の隣にしゃがみ込んだ。途端にどぱんと巨大な水風船が破裂するような音を立てて薄黄色の体液が噴水のように噴き上がり、俺の全身をびしゃびしゃと濡らした。暑さとも寒さともつかない異常な震えの中でその体液は奇妙に心地よく、急に静まりかえってしまった穴のふちで俺はしばらく胎児のようにうずくまったまま呼吸を整えていた。あのざわざわという蛭の足音もさえずるような鳴き声も破裂音と共にぴたりと止んでしまい、時折何かやわらかいものが水面に落ちるようなぽたりぽたりという滴りが聞こえてくるだけである。切り貼り屋の撒いたもので蛭どもがどうにかなってしまったことは俺にも分かったが、それでも全身を襲う震えは簡単には収まってくれず、俺は口に入った汁の塩辛さにむせながらその場にごろりと仰向けになった。

「殺す気ぃかわりゃ、邪魔ばっけえしよろうがこの役立たずぅが!」

切り貼り屋の荒々しい声と共に俺の肩が蹴られたがその声も最初と比べてはるかに弱々しく、蹴り付けられても俺が起き上がる気配を見せないと分かるとやつもくたびれ果てたようにその場にへたり込んだ。だらりと垂れ下がる尻尾にはいくつかの丸い噛み跡があり、うち一つ二つからは血がにじんでいる。ひょっとしたら穴を埋め尽くしていた蛭は全てあの赤斑種が産んだ子供ではなかったろうか、俺はそんな事をぼんやりと考えていた。

「ああた、こらジリ穴いうてな。十何年前にもああたみてえにでけえ蛭ば逃しよったやつがおっての、それえ捕まえるんに団地の輩で罠ぁこしらえたんが始まりよ。もうすっかり使わんくなったけえ塞いどったが、なんかの弾みに仕掛けてた誘蛭灯ゆうしつとうば付いてしもうたらしいわ」

切り貼り屋は額に浮かぶ汗だか蛭の体液だかを拭うと、隠しから取り出した酒瓶の中身を一口にあおった。

「すぐ隣ぃは団地の配電設備に繋ごうとるけえ、ここもその跡地使うてこしらえたがな。え、ああしが蛭ば飼うのやめえ言う理由が分かるけ、こげな面倒事になるからやきに」

「じゃあ、団地の地下にはこんな穴がいくつもあるのか。あんたら、ずっと、その上で」

震えまじりの俺の声を聞いても切り貼り屋はつまらなそうに鼻を鳴らすだけだった。

「当たれ前やけ。ヤミで蛭ば売るやっちゃなあ、大抵こういうとっから蛭ば捕まえて来んのよ。飼うもんもおらんようになったこんな穴ぼこで暮らしとる蛭ばそらもう性悪で、そう生半可なこっちゃ死なんからなあ、ええ、やくざもんの蛭飼いが総出でさらっちゃあヤミで売りつけとんやわ。丈夫で、素人でも飼える言うてな」


後から聞いた話では、あのとき切り貼り屋が撒いた毒はやはりというかなんの変哲もない鰐山椒を挽いた粉だそうで、どれほど丈夫な食用蛭であっても山椒の粉が体に触れるとたちまちのうえに表皮がただれて死んでしまうのだから蛭に山椒は禁忌なのだが、用心のためにも食用蛭を飼うなら首から山椒を入れた袋を掛けておいたほうがいい、という事だった。

「あんた、そんな事も聞かされなかったのか。そりゃあ随分とあこぎなブリーダーにかまされたもんだな、あんたに売りつけたあとで逃げた蛭を回収してまた高値で売ろうって魂胆だったんだろうよ」

二軒隣で賭け酒屋を営む狼人に話をすると、奴はそう言って呆れていた。あの食わせ物のブリーダーがあれからどこへ行ったのか、何度か闇市に顔を出してみたのだが半年前にふっつりと姿を消してしまったらしく、結局俺はあいつの顔を拝むことはできなかった。どこかのジリ穴でまたでかい蛭でもさらっているのか、それとも誘蛭灯に照らされたまま仄暗い穴の底にぽっかりと死体が浮かんでいるのか、どちらにせよ俺が再び食用蛭を飼おうという気を起こすことは二度となかった。

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蛭飼い 江古田煩人 @EgotaBonjin

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