第12話 Doctor Wax

2017年11月12日


「注射っこも、一本打ってけねべが?」こう言って外来で粘るお年寄りが、若いころ勤務していた郡部の病院にはよくいたものである。

薬よりも注射の方が早く治ると信じての言葉であろう。

当然、注射をしてくれる先生の人気は高く、注射が不要であることを時間をかけて説得する若い医者の評判はよくなかったことを思い出す。


先日、同和鉱業が主催するクロスカントリースキーの講習会に参加してきた。

土曙日の午後、八幡平スキー場に到着すると直ちに実技指導が始まった。

結城選手を始めとするオリンピック級の講師から直接指導を受けるとあって、緊張の中にもミ一ハ一族としての興奮は高まった。


最初、スケーティングの基本的な滑りを教えてもらった。

講師の前で滑つて批評してもらうのであるが、「あなたの今の滑りはラビット走法ですね」と言われても、その意味が分からなかった。

よく聞いたら、なんとダブルストック・ダブルキックという普通の滑りのほかに、ラビット走法・スーパースケーティングというものがあり、それぞれ地形や状況に合わせて選択するというのである。

これまでも、テレビや実際の大会を見ていて、滑り方に違いのあることは気づいていたが、それぞれの選手の個人差だと思い込んでいた。

そのため、昨シーズンは ダブルストック・ダブルキックで滑つていたのを、単に見た目が格好いいという理由で、今シーズンはラビット走法に変えたのである。

しかし、もともと平地や緩い下りでの高遠走行用のスタイルである。

ちょっとでも上り加減になると止まってしまい、この滑り方は良くないのかなと、混乱した気持ちのままで東日本医学生体育大会は終わった。

「目からうろこが落ちる」とは、まさにこのことを言うのであろう。

ダブルストック・ダブルキックはローギア、ラビット走法はトップギアであり、スーパースケーティングはターボチャージャ一なのである。

ギアの選択を誤つたら、100馬力の車でもエンストする。まして、46歳のプア・エンジンに、何という負担をかけてきたことか。

「うろこ」と言えば、5年前に初参加した岩木山スキーマラソンを思い出す。

いわゆる歩くスキーというのは、滑走面にうろこ状のギザギザがついているので、上り坂も後戻りしない反面、スピードが出ないという欠点がある。

そのため、上りでいくら頑張つても、下りではス一イッと抜かれてしまう。

そこで、翌年には「うろこ」 のないスケーティング用の板と靴とポールまでそろえてしまった。

結局、1年でスキー板から取れた「うろこ」は、目から落ちるまで5年かかったことになる。


夕食後は、スキーのチューニングとワクスィングの講義が行われた。

実演が終わった後で、ノートを見ながら自分のスキーで復習をしていたら、「まだ、ワックスが残つていますね」と、スクレィパーで文字どうりはぎとられてしまった。

スキーの滑走面のプラスティックに染み込んだ分のワックスで滑るのだそうである。

ワックスが厚いと汚れやすく、逆に滑りにくくなるのだということを聞いて、ここでも「目からうろこが落ち」、老眼の進んできた両目が急に若返つた思いであった。

これまでは、滑る距離に合わせてワックスの厚さを加減していたのである。

無知とは言え、思い込みとは恐ろしいものである。

講習の最後に、開発されたばかりの新しいワックスの説明があった。

ベースワックスをきちんと塗つた後で、試合前にクリーム状の秘密ワックスを薄く延ばすというものである。

このワックスの容器は、目盛りのついたディスボーザブルの注射器そのものであり、名前もナッ何と「ドクター・ワックス」という。

来年の東医体では、レース前に「注射したか?」「うん、今やつたとこ」というような会話が交わされることであろう。


注射の威力に頼ろうとしている自分に気づいた。

20年前に外来で注射をほしがっていた患者の年代に、確実に近づいているのである。

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