第3話 ぼくがHOSPnetを始めた理由(ワケ)

1999-2-15


用意の名刺を差し出すと、ゲート前の守衛さんは一瞥をくれただけで、あまりに呆気なく通してくれた。

身分証明書代わりにと、わざわざ新発売のカラープリンターまで購入して作成した自信作である。

宇宙に浮かぶ地球をデザインしたロゴマークの下に、「HOSPnetが日本の医療を変える!」のスローガンが目を引く。

もっとも、厚生省の守衛さんにしてみれば、研究会会長と刷り込まれた名刺など気に止めてられないのであろう。


     ***


私が初めてマックと会ったのは、1987年に文部省在外研究員としてカリフォルニアにいたときである。

研究室のスタッフによると、日本人留学生が使っていたもので、日本語ワープロもインストールされているはずであった。

日本にいる頃の私は、コンピューターどころかワープロすら使ったことがなかった。

原稿用紙の升目を鉛筆で埋めていく作業が好きで、鉛筆の芯を削りながらお茶にするのも楽しみだったからである。

さらに、教授の下請け作業をするようになると、秘書がカーボンコピーをとりながら清書してくれるので、ワープロを使おうという気すら起きなかった。

環境の変化というのは恐ろしいもので、スタッフに教えて貰いながらマックと付き合い始めてしまった。

英語環境で少し使えるようになると、次は日本語ワープロへの挑戦である。

スタッフに教えて貰うわけにも行かず、今度は全くの独学で試行錯誤を繰り返した。

突然に笑い出す私をスタッフは怪訝そうに見ているが、日本語の誤変換を説明するのにも疲れてしまうのである。


     *


日本に帰ってきて早速、ワープロを購入することになった。

アメリカでマックを使ったといっても、ワープロ以外のアプリケーションは知らなかったのである。

それに、医局で当時流行していたのはDOS/V機で、わざわざコマンドを打ち込む気にならなかったからである。

ワープロで文章を作るのに慣れると、作文の思考過程が原稿用紙を鉛筆で埋める作業とは異なることに気づく。

鉛筆では、ある程度の文章を頭で考えてから書き始めるわけだが、ワープロでは、何処からでも書き始めて繋ぎ合わせられる。

つまり、ワープロでは作文しながら推敲も同時に行えるような気がする。

その後、研究グループの若い連中はマックを使い始めたが、私は相変わらずワープロ専用機の上位機種を買い換えるだけであった。

研究グループの仲間がインターフェイスとなって、パソコンでデータの集計や解析からスライド作りまでしてくれたので、私自身はワープロ専用機だけで何も不自由は感じなかったのである。


     *


第2の人生を目指し、45歳で国立病院へトラバーユしてから、必要に迫られてパソコンを始めた。

自分のことは全て自分でするという極当たり前のことであるが、その環境に自分でも驚くほど素早く順応していった。

当直もない若年寄のような生活から、分娩や手術もこなす現役臨床医へ戻ったのである。

パースエイジョンでスライドを作ってみると、この作業自体が実に楽しく、自分の満足のいくまで何度でも気兼ねなくできるのが嬉しい。

エクセルで集計作業をしてみると、数十枚のシートが串刺し集計されたときなど感動を覚えた。

ファイルメーカーで電子分娩台帳を作ってからは、自分だけでなく助産婦さんたちの業務態勢まで変わってしまった。

母子医療センターでは、手書きの分娩台帳を前に、電卓と鉛筆をもった助産婦さんが必死で集計するというのが、それまでの年度始め恒例の大事業であった。

これを何とかしようと、自前のダブルマックから一台を母子医療センターへ運び込み、助産婦さんと一緒に分娩台帳の過去6年分のデータを入力した。

それ以降は、分娩立ち会いの助産婦さんが入力してくれるようになり、共同研究者としてお互いにデータベースを活用している。


     *


1995年10月25日、全国から医長34名が東京へ集められ、第1回目の管理者(医長)研修会が行われた。

研修の目的は3つ示され、施設のリーダーを目指すこと、国立以外の病院との相違を理解すること、国立病院のネットワーク化を推進することであった。

研修テーマは広範囲なため消化不良気味ではあったが、弘前病院での沈滞ムードに嫌気がさしていた私にとって目から鱗が落ちる思いであった。

すっかり洗脳されて弘前へ戻った私は、国立病院のネットワーク化を進めようと、臨床産科情報ネットワーク(Clinical Obstetric Information Network:COIN)を提案した。

1997年には仙台・大蔵・呉・善通寺が参加し、5施設における分娩統計(COIN Annual Repoet-96)が報告された。

分娩総数は2369件であり、その集計解析にはエクセルが大活躍したのであるが、エクセルシートの搬送にはインターネットを利用してE-MAILに添付した。

その後も産科施設数は増加し、1998年は18カ所で分娩数は7895件に達しており、今年は集計中であるが20施設を越えるのは確実である。

ちなみに、その中の9施設が全国国立病院治療共同研究班を結成し、「臨床産科情報ネットワークによる全国共通データベースの構築」というテーマで臨床研究を進めている。

これでインターネットの便利さに魅せられ、続いてホーム頁の作成に手を出した。

といっても、知識があるわけでもなければ教えてくれる人もいない状況のなか、他人のホーム頁の物まねだけで立ち上げた。

産婦人科と輸血関係の情報のほかに、それまで書きためた駄文を載せたことから、「二足の草鞋」書房と銘々した。


     *


半年後の1997年3月、ついに待望のHOSPnetが本稼働し、職場から高速専用線で常時接続されることになった。

個人的にプロバイダーと契約してインターネットをしている方なら、職場で自由に使えるHOSPnetの有り難さが身にしみて判るはずである。

その通信速度の速いことに加えて、時間を気にせずに使用できるからである。

もちろん、個人的には懐が痛まないといっても、公金で支払われていることを忘れてはならない。

施設でのHOSPnet運用を円滑に行うため、九州医療センターの阿南さんからアドバイスをいただき、HOSPnet運用委員会を設置した。

まず最初の事業として、弘前病院のホーム頁を立ち上げたのであるが、「二足の草鞋」書房での経験が大いに役立った。

ちなみに、九州医療センターの開設は21日で1等賞、我が社は24日の2等賞であった。

その後、ホーム頁の外部公開が準備されたものの実施されておらず、臨時措置として私の個人ホーム頁で公開している。

その際、ネーミングも「二足の草鞋」書房から「Health Information」へと変更した。

次に、共同研究者である助産婦さんたちにもHOSPnetを利用して貰おうと画策したが、看護支援システムはTCP/IPが使用されておらず断念した。

そこで時々、私のマックから掲示板やニュースへ顔を出すだけで我慢して貰っている。

一方、医局内LAN計画には興味を示すものがおらず、経済的な裏付けもなく頓挫した。

そこで、自費で接続することの了解だけは得て、接続希望者を募り自前でケーブルを敷設した。

最近では、接続希望者が増えても対応できないため、改めてLAN計画が浮上しているが実現は少し先であろう。


     ***


私がHOSPnetを使いだした理由を考えてみると、大学を飛び出して国立病院へトラバーユしたことにありそうだ。

あのまま大学での生活を続けていたら、私はインターネットどころかパソコンすらできない親父になっていたことだろう。

先日、自嘲と反省を込めて、その頃の思い出を外科の若い医者に話したら、「そんな上司が多いから、大学の若いもんは泣いとるんですよ!」と、逆に追い打ちをかけられた。

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