9.
道枝の息子である満くんがいなくなったのは、八年前の七月、夏休みに入ってすぐのことだった。
当時、彼女の家族は豊島区の雑司ヶ谷近くで暮らしていた。満くんはよく鬼子母神堂の境内や隣接する公園で遊んでいたという。幼い頃は母親である道枝に連れられて足を運んだが、小学校に上がって友達ができると親の同伴なしでも訪れるようになっていた。
その日も、満くんは遊んでくると言って、一人で家を出た。そして、帰ってこなかった。
一人で出かけるようになってから作った門限を過ぎても、外がすっかり暗くなっても、帰ってくる気配はなかった。
どうしようかと道枝が焦り始めた頃に、自宅に電話が掛かってきた。それが誘拐犯からの身代金を要求する連絡だった。道枝はすぐに夫に知らせ、それを受けた夫は大急ぎで帰宅した。
電話の内容は、次の通りである。
息子は預かった。返して欲しければ、百万円を用意して次の連絡を待て。
二人は迷った。警察に通報すべきか、素直に金を払って子どもを返してもらうか。事件記者だった夫は、誘拐事件における警察の対応を知っていた。通報すれば、警察は誘拐犯を捕まえてくれるだろう。だが、もし通報したことを誘拐犯が察知して、息子の身が危険に晒されたら──
営利目的ということは突発的な犯行ではなく、家のことや経済状況を事前に調べての犯行だと考えられる。もちろん道枝の家庭についても事情を把握していたのだろう。夫の収入は記者として平均的で、どこにでもあるような一般的な家庭だった。ただ、妻である道枝には亡くなった両親から相続した遺産があった。そういった事情も把握されているというのなら、相手を刺激するようなことは避けたほうがいいのではないか。
道枝の夫はそう考え、道枝自身も納得してしまった。だから、警察への通報は留まったという。
ところが、連絡は来なかった。
身代金を用意して、今か今かと家の固定電話の前で待機していた。しかし、電話は掛かってこなかった。
夫婦は動揺し、恐怖を覚えた。そうして、ようやく警察に通報した。
後日──八月に入ってしばらく経った頃だった。自宅に荷物が届いた。宅配業者が運んできたわけではなく、直接何者かが玄関先に置いたようだった。
箱を開けた道枝は絶叫した。中には満くんの変わり果てた姿があった──
○
道枝が話し終えると、辺りはしんとする。
久遠はその様子をじっと伺っていた。何を言っていいのか判らなかったのである。弥は口元に手を当てながら考え込んでいるようだった。玉木も複雑そうな表情をしている。誰も口を開こうとはしなかった。
「……犯人は、どうして連絡をしてこなかったんですかね?」
何を言っていいのか判らなかったけど、沈黙の重さにも耐えられなくて、久遠は疑問に思ったことを口にした。
「そのときには、もう死んでいたんだろうね……あ、すみません」
弥はうっかり口を滑らせる。配慮が足りなかったと気づいた弥は、道枝にすぐに謝る。
「いえ……夫もそうじゃないかと言っていました。二度目の電話をする前に、息子は死んでしまったのではないかと……」
道枝はゆっくりと頭を振りながら答えた。
「で、でも……死んだことを隠して、身代金をせしめることもできたんじゃないんですか?」
久遠がそう言うと、弥は冷静に解説する。
「身代金を得た犯人が、被害者を殺害するというパターンはある。でも、そういう場合は身代金を手に入れてから殺害に及ぶことが多い。被害者は生きて帰ってくると思わせておく必要があるからね。けど営利目的の誘拐で、人質を百万で殺人を犯すのはかなりリスキーだとは思わないかい?」
「ってことは、子どもを死なせるつもりはなかったってことですか?」
「旦那さんが予想していたように、身辺を調べていたのなら犯行は計画的だったと考えられる。それにも関わらず連絡してこなかったということは、想定外のことが起きたんじゃないかな。だから、犯人は連絡しなかった……できなかった」
想定外のこと──誘拐した子どもが死んでしまったということか。
「満くんの死因は判っていますか?」
弥の口からスラスラと語られる推理を聞いて呆気に取られていた道枝は、急な問いかけに、えっと……と口ごもりながらも質問に答えた。
「口と鼻を塞がれたことによる窒息死だと聞いています。胸にも圧迫した痕があったそうなので、強引に押さえつけられた結果、死に至ったのではないか……と」
「もし故意でなかったとするなら、騒ぐ子どもを黙らせようとして押さえつけたところを、力加減を誤って殺害してしまったということかな?」
弥はテーブルに肘をついて、両手の指の腹を合わせながら思案する。そんな彼女の姿を見て、道枝はまたぽかんとした表情になっていた。
「彼女、本当に凄いですね。あっという間に推理して」
隣の玉木にそう耳打ちすると、だろう? となぜか玉木が自慢げに鼻を鳴らした。
「──そうだ。久遠も以前は鬼子母神堂の近くに住んでたんだよね」
ふいに、弥が訊いた。いきなり訊ねられた久遠は目を丸くしながらも、そうですと頷いた。
「あら、そうなの?」
道枝も意外そうな表情をする。
「小四のときまで、ですけど。事故で両親を亡くして、色々あって今は神秘局の世話になってるんです」
「そうだったのね……」
事情を聞いた道枝は、気遣うような表情で久遠のことを見つめた。同情されるのは正直落ち着かないが、それがただの慰めではないことが判った。彼女もまた家族を失った被害者なのである。
「家族を失ってつらい気持ちは、オレにも判ります。ただ、恥ずかしながら息子さんの事件について覚えてることは、ほとんどなくて……」
同じ時期に、同じ場所で暮らしていた。それにも関わらず、何も知らなかった。それがとても申し訳ないように思えてならなかった。あの頃のことで覚えているのは、やっぱり恐ろしい鬼子母神の話ばかりだった。
「あなたが気に病むことじゃないですよ。まだ子どもだったんだし」
申し訳なさを感じている久遠の予想に反して、道枝の反応は穏やかだった。
「子どもの頃のことなんだから、覚えてなくても特別不思議じゃないと思うけどなあ?」
弥もこてんと首を傾げながら言う。
「でも、子どもが誘拐されて亡くなったっていうなら、少しくらい噂になったり、学校で話があったりしてもおかしくないと思うんですけど……」
まさか記憶から、そのことだけがすっぽりと抜け落ちているとでも言うのだろうか。自慢ではないが記憶力は良いほうだと久遠は自負していたので、弥に少し見縊られたような気分だった。
「確かに情報は少なかったけど、一応ニュースにはなっているから、たまたま君の耳に入らなかったとか、そういうことなんじゃないかい?」
フォローするように玉木が口を挟むが、久遠はまだ腑に落ちなかった。
「まあ、どんなに身近で起きたことだとしても、印象に残らなければ仕方ないよ」
「印象に?」
「遺体が見つかったのは八月。小学生にとっては楽しい楽しい夏休みの真っ最中だ。休みに入る前なら全校集会なんかで学校側から話があったかもしれない。けど、事件が起きたのも夏休みに入ってからだし、関心が向かなかったとしても当然のことだと思うよ」
個々人の認識の問題だよ、と弥は答える。
「そう……なんですかね?」
自分はそんなに無関心だったのだろうか。当時のことを思い出そうとしながら、久遠は呟く。
「そんなもんだよ。様々な媒体から伝え聞く物事は、自分からは程遠い出来事だと感じてしまうものだから」
「そうかもしれませんね」
弥たちの話を聞きながら、道枝が何とも言えない悲愴な面持ちを抱えながら言った。
「私自身、テレビや新聞で事件のことを見聞きしても、本当にそれが自分の家族に起きた出来事なのか──しばらく受け入れることができなかったから。無関係な人たちなら尚更だと思いますよ」
彼女にそう言われて、久遠はふと両親が亡くなったときのことを思い出した。確かに事故のあと、しばらくは現実味のない日々を送っていたような気がする。他人から何か言われても、それが自分に起きた出来事なのかイマイチ実感が湧かない。
だが、頭のどこかでは理解しているのである。以前と同じ日常がやって来るのではないかと眠りについても、朝になったらそんなことはあり得ないのだと。
「御山くんは、とても優しいのね」
まだ哀しみを帯びていたが、道枝は微笑んでいた。
「え……?」
「だって、まるで自分のことのように気にかけてくれているから。きっと、ご両親も優しい方で、愛されて育ったのだということが判るわ」
「あ、ありがとうございます……」
突然の誉め言葉に、久遠は思わず襟足に手を伸ばした。
その後、弥は誘拐事件についていくつか質問をした。当時の交友関係や事件前後の身の回りのこと等々──八年前の捜査のときに警察から聞かれたことの繰り返しのようで、道枝の口からは滞りなく情報がもたらされた。
それらが終わると、道枝は久遠のほうに話しかけてきた。なにが彼女の気を引いたのだろうか。もしかしたら亡くなった息子の姿を、久遠に重ねているのかもしれない。いずれにしろ、かなり好意的に思われているようだった。控えめながらもこれまでの生い立ちについて訊ねられ、今の生活も苦労していないかなど心配されてしまった。しばらくして、道枝のスマートフォンに会社から連絡が入ったことで店を後にすることになった。
「お疲れさま」
道枝を見送ってホッと息を吐いた久遠に、弥が悪戯っぽい笑みを向けながら言った。久遠は転校初日の質問攻めよりも大変だったと思いながら、すっかり冷たくなってしまったカフェオレを飲み干した。
「久遠くんのおかげで、久しぶりに楽しそうな波子さんの顔が見れたよ」
玉木にそう言われて、久遠はむず痒さを感じる。
「お役に立てたのなら、よかったです。けど、まさか先月のアリバイを道枝さんに訊くとは思いませんでした」
誘拐事件の聞き取りの最後に、弥は雑司ヶ谷で遺体が発見された日の、道枝のアリバイを確認したのである。
「ただの形式的な質問だよ。それに、可能性はひとつでも潰しておきたいだろう?」
今回の件に彼女は関係ないのではないかと久遠は思ったが、弥は刑事ドラマでよく聞く台詞を口にしながら、弥は笑ってみせた。
「まあ、遺体があんな状態じゃ死亡推定時刻なんて判らないだろうから、あんまり意味ないかもしれないけど」
久遠は一瞬、あの箱の中身を思い出してしまい、身体を強張らせる。血液が酸化して赤黒くなっているように見えたことから、殺害されてから時間はかなり経っていたのだろう。だが、遺体そのものはそれほど痛んでいなかったようだった。目にした時間はわずかだったので、その印象が正しかったのかは判らないが──
「とりあえず、ボクは八年前の事件と今回の事件に関わりがあるのか、もう少し詳しく調べてみるかな」
弥は紅茶を飲み干し、視線を天井に向けた。
そういえば、と久遠は思い出す。道枝から話しかけられている間、弥の目はじっと彼女を見つめていた。事件の話を聞いているときは気にならなかったのだが、あの目は弥と初めて会ったときに向けられたのと同じだった。
魔眼で物事を視るときの癖の一つらしいが、つまり彼女はこの対面で何かを視ようとしていたということである。一体何を視ようとしていたのだろうか。
久遠は気になったが、なんとなく聞き出すことができなかった。
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