8.

「道枝さんは、まだ来ないみたいだね」

 八年前の誘拐事件の犠牲者となった男子児童の母親は、道枝波子というらしい。事件のあと夫婦は離婚し、今は別々に暮らしているという。

「さっき電車が遅れてるって連絡があったよ。電気系統のトラブルらしい。波子さん車持ってなくて、移動はいつも電車やバスを使ってるそうなんだ」

 そう言いながら、玉木はおもむろにスマホを取り出して確認するが、新しい連絡は入っていないようだった。


「波子さん、有名な輸入家具会社の秘書さんでさ、年が明けたばっかりだっていうのに結構忙しそうなんだよね」

「年明けたばっかりって……世間ではもう仕事始めですよ」

 フリーで仕事をしているからなのか、玉木はまだ年始休みを楽しんでいるらしい。

 まだしばらく待ち人が来ないようだったので、弥は店員を呼び、店特製のジョッキパフェを注文した。久遠は何か食べるかと再び訊かれたが、また遠慮してしまう。


 注文した品を待つ間、玉木がどのような記事を書いているのかなどを聞いた。いつもは芸能やオカルトといった大衆向けの記事を書いているが、時には社会派のコラムなどライターとして幅広いジャンルを手掛けているという。

 ジョッキパフェが運ばれてくると、久遠は目を見張った。弥の前に運ばれてきたパフェは想像よりも一回り以上大きく、嬉しそうにそれを頬張る彼女の姿を見ているとなんだが胸焼けしそうだった。


 弥がパフェをぺろりと平らげた頃に、店の入り口のベルが鳴った。そちらに目をやると、三十代後半くらいの女性がきょろきょろと店内を見渡していた。

「おーい、こっちだ」

 玉木が手を振ると、彼女はホッとした表情を浮かべてこちらに向かってきた。

「遅くなりました」

 道枝波子は頭を下げる。穏やかな雰囲気の女性で、背中に届く黒いストレートの髪に、服装はシンプルだが上品な印象を感じるスーツ姿だった。秘書であると聞いていたこともあり、背筋をピンと伸ばした姿勢からは規律正しさが感じられた。

 弥はジョッキをテーブルの端に退けて、じっと彼女の姿を確かめる。そして、その場で立ち上がって丁寧に会釈をした。


「こちらこそ、突然の呼び出しに応じていただき、ありがとうございます」

 いつもの男勝りな口調を封印した弥につられるように、久遠も頭を下げる。

「波子さん。彼女が神秘局の雨辻弥ちゃん。若いけど、とっても信頼できる子だよ」

 隣に座った道枝に、玉木が紹介する。弥が名刺を取り出しながら自己紹介するので、道枝も自分の名刺を差し出しながら、よろしくお願いしますともう一度頭を下げた。タイミングを見計らって、再び店員がテーブルにやって来た。道枝から注文を受けると同時に、弥が食べ終えたパフェのジョッキを回収していった。


「そちらも、神秘局の方なんですか?」

 彼女は物珍しそうな、それでいて訝しそうな目で久遠を見た。

「研修生の御山です。研修の一環で同席させていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」

 そう弥が言っている隣で、久遠はなんだか気まずくて縮こまった。

「そういうことなら、構いませんよ」

 研修生だと聞いて意外そうな顔を見せたが、道枝は快く申し出を受け入れてくれた。


「早速ですが、お話を聞かせてもらってよろしいですか?」

「その前に、どうして神秘局の方が息子の事件のことを知りたいのか伺ってもよろしいですか?」

 眉をひそめながら道枝は訊ねる。

 当然の疑問だろう。八年も前の出来事を、わざわざほじくり出そうとしているのである。遺族としては、そっとしておいて欲しいという気持ちもあるだろう。久遠自身、両親が亡くなった事故のことを他人に話すのは今でも辛かった。だから、少なからず道枝の気持ちは理解できた。


「先月、雑司ヶ谷で遺体が見つかった事件をご存じですか?」

 弥は落ち着いた様子で説明する。

「ええ、ニュースで見ました」

「公にはなっていないのですが、その事件の捜査に神秘局も関わっているんです。それで、捜査の過程でなぜあの場所に遺体が遺棄されたのか疑問に思って調べてみたら、息子さんの事件に行き当たって──」


「つまり……今回の事件は、息子の事件と何か関係があるとお考えだということでしょうか?」

「それは、まだ判りません。ただ、今回発見されたご遺体と、息子さんのご遺体の状況が似通っていたので、個人的には無関係だとは思えなくて。念のため、当時のお話を伺えたらと思った次第です」

 弥は変に隠し事をしたりせず、正直に現状を伝えた。なるほど、と説明を聞いた道枝は顎に手を当てて呟いた。

「すみません、辛いことを思い出させてしまって」

 そう言って、弥はまた頭を下げた。普段、笑みを浮かべていることの多い彼女が、本当に申し訳なさそうにしているものだから、久遠はつい目を見張った。


「……そういうことでしたか」

 道枝は目を伏せると、小さく息を吐いた。気を落ち着かせようとしているのか、テーブルの上で重ね合わせた手を撫でている。

「事件が未解決だということは、ご存じですよね」

「はい。当時の新聞や雑誌、ネットで得られる程度の情報にしか、まだ目を通せていませんけど」

 捜査を行った所轄署に問い合わせて捜査資料を取り寄せてはいるらしいが、手続き上の問題以外にも、八年前の未解決事件であることや、神秘局と警察との協力関係が確立されていないこともあり時間が掛かっているのだという。


「──警察なんて、信用できませんよ」

 吐き捨てるように道枝は言った。彼女の口からまさかそんな言葉が出るとは思わず、久遠は目を丸くした。

「何度問い合わせても捜査中だからと何も教えてはもらえなかったし、やっと連絡がきたと思ったら、捜査の規模を縮小するけど解決に向けて尽力します、なんて社交辞令を並べ立てて……結局、事件は未解決のまま」

 道枝は両手を握りしめる。俯きかかった表情も険しかった。警察に対して、相当な鬱憤を溜め込んでいるようだった。子どもが殺されて、その犯人が野放しになったままなのだから、そう思うのも無理はないだろう。


「今回の事件が、息子さんの事件と関わりがあるのか判りません。けど、お話を伺う以上、できる限り調べたいと思っています」

 弥は眼鏡越しに真摯な眼差しを向けた。それを見て、道枝はなんだか泣きそうな表情を浮かべた。

「……八年前にあなたがいてくれたら、違う結果になったのかしら?」

「さあ、どうでしょうか」

 どこか縋るような物言いに、弥は困った表情をしながら、それ以上何も言わなかった。


 程なくして道枝の紅茶が運ばれてきた。店員が戻っていくのを見届けてから、道枝は手持ちの鞄を開くと中から手帳を取り出し、そこに挟んでいた写真を取り出した。

「息子の満です」

 そこには道枝と、彼女に抱えられている男の子の姿が写っていた。背景はどこかの遊園地だろうか。カメラに向かって笑顔を見せる二人はとても幸せそうだった。

「……先ほど、警察は信用ならないと言いましたが、事件の捜査が遅れてしまったのは私の責任でもあるんです」

 紅茶を一口飲んでから、道枝は話し始めた。


「どういうことでしょうか?」

「初動捜査って言うんですか? それが遅れてしまったんです」

「息子さんがいなくなって、すぐに通報しなかったということですか?」

 弥が訊くと、「はい……」と道枝がためらいがちに頷く。

「正確には、身代金の要求があったのにすぐ通報しなかったんです」

「犯人から連絡があったのかい?」

 そう声を上げたのは玉木だった。彼も初耳だったらしく、驚きの表情を浮かべていた。確認できた記録にも、犯人が接触してきたというものはなかった。


「どうして通報しなかったんだい?」

 玉木が問い詰める。

「あの子が帰ってくるなら、さっさとお金を渡したほうがいいと思ったんです。身代金も少なくない額でしたが、払えないわけでもなかったので……」

 サスペンスドラマなんかでよくある、子どもを無事に返して欲しかったら警察には知らせるな、というようなやり取りがあったのではないかと久遠は想像する。身代金が払えなかったというわけではないということなので、さっさと金の受け渡しを済ませてしまえば子どもは帰ってくると考えたのだろう。だが、多くのサスペンスやミステリ作品で、それは悪手だと語られている。現実でも、そう上手くいくことは少ないだろう。


「後悔しています。ちゃんと通報していたら、あんな結果にはならなかったかもしれない」

 道枝は俯いてしまう。久遠はかける言葉が見つからなかった。

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