11.
「大丈夫か?」
明るい茶髪の青年が、コーヒーを淹れたマグカップを差し出しながら訊いてきた。
「だい……じょうぶ、です」
マグカップを受け取りながら、久遠は言った。
「だいじょばねぇな」
答えを聞いて、青年──
「そんなんじゃ、また永久が心配するぞ」
永久は神秘局の寮に引きこもっていて、今日はここには来ていない。
「オレ、何もできませんでした」
苦しむ母子を前にして、久遠はその場から動くことができなかった。
かつての後悔が押し寄せてきたのである。思い出されるのは、両親の変わり果てた姿。目立った怪我のなかった久遠と永久とは大違いだった。
助ける術はあったはずなのに。
自分がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
伸ばされた母親の手を思い出すたびに、久遠はいつも思ってしまう。
じわり、と黒い
久遠が動けないでいるところに、局員が呼びに行ってくれた
目の前で手際よく行われる一連の流れを、久遠は黙って見ていることしかできなかった。
「そりゃあ、お前……いくら魔術の才能を持っていようが、素人が手を出せるもんじゃねえだろ」
「けど……」
「けど、じゃねえ。当麻先輩だって、あの呪物の解呪に手間取ってるくらいなんだ。それと同じ呪いの影響を受けたかもしれない人間に、下手に手を出してみろ。もっとヤバいことになってたかもしれないんだぞ」
深瀬の言葉には遠慮というものがない。だが、その言い分は間違ってはいなかったので、久遠は反論することができなかった。それでも、何かできたのではないかと、心のどこかで思ってしまう。
「俺は魔術師でもなければ、弥のような特別な目も知識もない。けど、捜査官としての経験はあるんだ。ああいうのは、理解と対処ができるやつに任せておくべきなんだよ。適材適所ってやつだ」
「……はい」
「そんでもって、俺たちは俺たちにできることをする」
「できること?」
「あの母子が何者か。どこに住んでいて、何をして、どうして呪いを受けることになったのか。やれることはいくらでもあるぞ」
そう言って、深瀬は久遠の頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。
──みんな、なんでオレの頭を撫でるんだ?
マグカップに注がれたコーヒーを溢さないようにしながら、久遠は思った。
「あんまり久遠をいじめないでよ、中也」
そう言いながら、捜査課のオフィスに弥が入ってきた。いじめてねぇよ、と深瀬は口を尖らせる。
弥と一緒に、疲れた表情をした当麻もやって来る。
「どうでしたか?」
久遠は訊ねる。
「君の見立て通り、同じ呪いとみて間違いはないだろう」
ふう、と溜め息を吐きながら当麻は答えた。
「今は容態が落ち着いているけど、長いこと呪いの影響を受けていたようだね。子どものほうはかなり衰弱していたよ」
連日の解呪作業で、だいぶ疲労が溜まっているようだった。加えて、先ほどの騒ぎである。当麻は応接用に置かれているソファーにドカッと腰を下ろし、長い足を投げ出した。弥は給湯室に向かうと、マグカップを二つ携えて戻ってきた。久遠の横を通り過ぎる際に、ほのかに甘みを感じる香りがする。
「コーヒーじゃないのかい」
「ミルクティーです。ここしばらく碌に寝てないんでしょう? 今日はもう休んだほうがいいですよ」
「気遣いは有難いけど」
「少しくらい局長に投げてもいいと思いますよ」
「……局長を顎で使おうとするのは君くらいだよ?」
受け取ったマグカップに口をつけながら、当麻は苦笑いを浮かべた。
神秘局の局長は魔術師である。久遠は年末に退院したその足で挨拶に赴いたときに会ったきりで、まだどんな人なのか人物像が掴み切れていなかった。ただ、思っていたよりも若い男性だった。当麻と同じ二十代後半から三十代くらいだろか。局員たちとはフラットに接している様子だった。とはいえ、局長が魔術師だとしても実際に仕事を投げるわけがないと思いたかったが、弥ならやりかねないと久遠はそわそわした。
出会って約一ヶ月──彼女の振る舞いは良く言えば自由奔放、悪く言えば傍若無人な一面があると久遠は感じていた。
「まあ、その提案は魅力的ではあるけど、残念ながらその必要はないよ。解呪は完了したから」
「本当?」
弥は大げさに驚いてみせるが、当麻のことを信用していたのだろう。判っていましたと言わんばかりだった。
「本当さ。もっと褒めてくれよ。ハグしてくれても構わない」
「徹夜続きでハイになってますね。やっぱり、残りの仕事は局長に任せましょう」
弥の言う通り、当麻はちょっとばかし羽目を外しているようだった。彼女に向かって大きく両腕を広げて、そんな呪術師に弥はわりと真剣な声色で提案する。そんな二人のやりとりを見かねた深瀬が、間に割って入った。
「解呪ができたってことは身元を調べられるんだろ、先輩」
「ああ、うん。指紋と血液は採取したから、捜査本部に送ったよ。遺体そのものは、明日にでも監察医の先生に診てもらうことになる。ちなみに被害者は男性で、どちらかというと体格は大柄なほうかな。遺体は見事に切断されていたんだけど、頭部だけは入ってなかったよ」
「じゃあ、身元はすぐに判らないか。指紋とDNAの結果待ちってこと?」
「データベースに入っていればね」
大変だぞ~、と弥は冗談めかしに言う。
指紋やDNAは身元の特定に大いに役立つが、比較する対象があったり、データベースに登録されていたりすればの話である。データが登録されているのは、基本的に職業柄登録義務付けられている者や前科者だった。
「ったく、警察が意地張ってなきゃ、
深瀬はこの頃、広報課の手伝いで講演会の裏方作業に奔走していた。なんで捜査課まで駆り出されなきゃならないんだ、と愚痴っているのを久遠はオフィスで何度か耳にしている。今日は偶々、オフィスで電話番をしていたとのことである。
「この間は宗像さんの機転で現場に出て行くことができたけど、警視庁や警察庁からの要請じゃなかったから、危険を知らせて呪物を回収することくらいしかできなかった。だけど、いよいよ呪物の解呪が終わって、さらに同じ呪物の影響を受けたと思われる別の被害者が確認されたんだ。正式に捜査協力の要請がくるのも時間の問題だよ」
そう言って、弥は自分のマグカップに淹れてきたミルクティーを飲んだ。
遺体が発見されてから一ヶ月が経とうとしていたが、警察の捜査は行き詰まっていた。情報がまるでないのだ。遺体発見現場で久遠と大勢の捜査員が倒れたあとで、原因となった呪物──もとい遺体の入った箱は解呪作業のために神秘局が押収した。捜査本部は被害者の遺体を調べることができず、身元につながる証拠を得ることができていなかった。
現場周辺の防犯カメラや目撃情報を集めることに専念したが、捜査は難航を極めた。境内に遺体が入った箱が遺棄されたのは十二月十三日の午後。不審な人物が箱のようなものを運ぶ姿が近隣の防犯カメラに映っていたが、個人の判別まではできなかったそうだ。閑静な住宅街の中ではあるが人通りの少ない場所ではない。だが、その不審人物が姿を現わした前後は極端に人の気配がなく、近隣住民も何も気がつかなかったと口を揃えるものだから、目撃情報も集まってはいないという。
以上が、神秘局の特別捜査課に入ってきている捜査状況だった。善くないモノが集まっていたから人が寄りつかなかったのだろう、と弥が言っていたのを久遠は思い出した。
さらに、黒魔術が関わっているのではないかという情報が出回ったことで、捜査本部はその対応にも追われた。警察と共にコメントを発表した専門機関というのは、もちろん神秘局のことである。このときばかりは神秘局を頼らざるを得なかったようだが、魔術機関からの見解に表立って異を唱える物はいないという。
「そういえば、この事件に対して、神秘局は魔術の関与を否定してましたよね?」
今更ながら、久遠は心配になってきた。そうだね、と弥が反応する。
「けど、明らかに呪いが関わっているわけだから、会見で言ったことって嘘になるんじゃないんですか?」
つまり、世間に虚偽の報告をしたということになる。そんなことが公になってしまったら、神秘局の信用問題に関わるのではないのか。
そう思って久遠は固唾を呑む。ところが、そんな久遠の懸念をよそに、弥は悪戯が成功した少年のように笑った。
「確かに、魔術による犯行ではないと発表したよ。けど、神秘的事象が関わっていないとは一言も言ってないよ」
「へ?」
「そもそも、呪物の材料にされてしまった被害者は魔術で殺されたわけじゃない。よって、発表したコメントは虚偽には当たらない」
「それって……」
弥は胸を張って答える。久遠はなんだか詐欺に遭った気分だった。
だが、確かに魔術による犯行ではないと公言していたが、魔術を含む神秘的事象全体の関与については言及していなかった。
ふと、久遠の脳裏にクラスメイトの貴澄氷魚の顔が浮かぶ。神秘局の発表を信じて、魔術の関与をクラスメイトの前で否定してみせた彼女の顔を──
悪いことをしたわけではないが、久遠はひっそりと彼女に謝っておきたくなった。
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