2.

 最初に久遠の才能を認めてくれたのは、母親だった。


 まだ物心つかないくらいの頃に、たまたま母親がマッチを擦るのを見た。小さな棒っ切れに小さな火が点るのを見て、久遠はその行為を真似して指を擦り合わせた。すると、指先からパチッと火花が散って、驚いて泣き出してしまった。

 もっと驚いたのは母親だった。マッチを拾った息子が火をつけてしまったとでも思ったのだろうか。慌てて我が子を抱きかかえると風呂場に駆け込んだ。けれども火の粉はどこにも引火することなく消え、小さな指先にはマッチも火傷の跡もなかった。


 泣きべそをかく久遠から何があったのかを聞き出し、そこでようやく、あれは小さな奇跡であることに気づいたのである。

 つい見逃してしまいそうな現象であった。

 それでも、母親は息子の才能は確かなものだと信じた。どうしてそう考えたのかは判らないが、少なくとも彼女は魔術に理解があった。


 ──これは久遠の曽祖父さんの本なの。

 ある程度の読み書きができるようになった頃に、プレゼントされたその本からも、母親が魔術に馴染みがあったであろうことが判る。

 それは古い本だった。表紙は擦り切れ、ページを捲るたびにツンとした臭いがする。おまけに英語やラテン語、サンスクリット語などで書かれていた。久遠には何の本なのかさっぱりだった。


 ──もしも久遠が魔術師になりたいと思うなら、この本をあげる。

 久遠の曽祖父はアメリカ人だった。すでに亡くなっており、写真も残っていないので、どんな人だったのか久遠は知らない。久遠の母親も会ったことはないという。

 曽祖父が遺したその本は、魔術機関〈OZ〉を創設したオズワルドが書いた魔術書だった。曽祖父と世界的な魔術師の間にどんな繋がりがあったのかということも判らないが、それがとても貴重な蔵書であるということは後から知った。


 魔術師とは、どんなものなのだろうか。

 絵本の登場人物としての漠然としたイメージしか持っていなかった久遠は、空を飛んだり、怪我や病気を治したり、悪者を懲らしめたり、誰かを笑顔にしたり──そんなことが自分にもできるようになるのだろうかと胸を躍らせた。


 母親に読み方を教わりながら、もらった魔術書に齧りついた。理論とか法則とか難しいことはまだ理解できていなかったが、実際に神秘を再現することができたときは、母親と一緒になって飛び上がったものである。あまり魔術に興味のなかった父親も、そのときばかりは声をあげて久遠の頭をぐしゃぐしゃと撫でまわした。


 けれども、楽しい時間は長く続かなかった。

 六年前、休日に家族全員で出かけた帰りの出来事である。

 久遠は車内から暴走する一台の乗用車を目にした。信号を無視して、猛スピードでこちらに向かってくるところだった。父親も異変に気づいて慌ててハンドルを切った。しかし、車は避け切れないところまで迫っていた。

 久遠は練習していた魔術を使おうとした。


 相手の車はどんどん近づいてくる。

 誰かの叫び声がした。

 焦りから魔術式の通りに魔力を操ることができない。

 遠心力で身体が傾く。

 もう、すぐそこまで車が来ている。


 みんなを守らなきゃ──!


 次の瞬間、意識が飛んだ。

 気がついたときには乗っていた車の前方部分は拉げて、フロントガラスが割れていた。飛び散った血液の臭い。後部座席のほうへと右手を伸ばす母親。


 ……どうして?


 久遠は思った。

 魔術は誰かを助けるためにあるのではないのか。

 どうして両親を助けることができなかったのか。

 救助を待つ間、久遠は考えた。恐怖と不安と混乱の中で、幼かった彼の心には、魔術がなんでもできる万能のものではないという事実が刻みつけられた。

 大量の血液と死の臭いが漂うその空間で、久遠は優しかった母親の手を眺めていた。

 才能を認めてくれるのと同時に、その無力さを教えてくれたのも、また母親であった。

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