ヴァルス、余の軍団を返せ
たぶん、おれは運が良かったのだ。そう思うことにしたい。何故ならおれはエウテュケスだからだ。ティトゥス・エウテュケス。ローマ市民権は一応持っているものの、誇るほどの血筋ではないから真ん中に来る家門名はない。つまりエウテュケス家のティトゥス。しかしこのエウテュケスというのがギリシャ語で「幸運なるもの」という意味であって、つまりおれは運がいいのだ。良かったのだ。たぶん。
おれは帝国の兵士だった。ヴァルス総司令のもと第18ローマ軍団に所属し、皇帝アウグストゥスに仕え、野蛮なゲルマン人どもがライン川を越えてローマ領に入り込んでくるのを防ぐ役目を担っていた。
なんだが、ある日命令が下った。ライン川を越えてエルベ川を目指せという命令だ。つまり、エルベ以西のゲルマニア地方をすべて征服しようとアウグストゥス陛下か、ヴァルス総司令か、あるいはその両方が目論んだというわけである。
おれたちはライン川を越え、ゲルマニアの奥地に入った。鬱蒼と木々ばかりが茂る、薄気味の悪いゲルマニアの森に。
ゲルマニアの民は森の木々に隠れて三々五々襲撃を仕掛けてくるというのは、かつてここに攻め入った神君カエサルの残した記録にも詳しいところだが、実際に入ってみるとそういうことはなかった。ヴァルス総司令の恭順を求める言葉にゲルマンの諸部族はみな従い、われわれは森の中をさらに進んだ。
だが、結論を言えばそれは罠だったわけだ。われわれがトイトブルクの森、沼地だらけで進むも引くもにっちもさっちもいかない場所に辿り着いたとき、突如としてゲルマン系諸部族の連合軍による総攻撃が開始された。
おれたちはその場に城塁を築き、必死で持ち堪えようとした。おれたちはローマ軍団だった。常勝にして不敗、かつてハンニバルをイタリアから退けた、ローマの正規軍団。だが、残念ながらその場所はゲルマニアであってイタリアではなかったのだった。土砂降りの雨が降り始め、ゲルマン人の襲撃は森と雨に紛れさらに激しさを増した。われわれは総崩れとなった。こうなればもはやそれは戦争ではない、虐殺だ。
おれはヴァルス閣下が、敗北の責任を皇帝に詫びつつ自らの首を剣で掻き切るところをこの目で見た。二万人くらいいたわけだが、ほとんどのローマ兵はその場で殺されたと思う。だがおれは、おれも自害しようとしたのだが、その前にゲルマン兵に殴り倒され、気が付いたら縛り上げられて捕虜になっていた。まあ、戦というものの習いだ。止むを得ないと言えばやむを得ないことであった。
仕方がないから、連れていかれるままに連れられていった。ゲルマン民族が捕虜をどのように扱うのか、おれはよく知らないが、しばらくして、おれは鉄の指輪を嵌められた。これはローマにもある風習で、その人間が奴隷であるということを意味するものだ。つまりおれはゲルマン人の奴隷にされてしまったわけだ。
だが、ローマ人がするように奴隷市場に立たされたりはしなかった。いつの間にどうやって取引が済んだのか、それともそんなものはそもそもないのか、よく分からなかったのだがおれはナハナルウァリ族という部族の暮らす集落に辿り着き、ひとりの美しい、ゲルマンの祭司の衣を纏った少女に引き渡された。
少女は下手なラテン語でおれに名前を訊ねた。俺は名乗った。
「ティトゥス・エウテュケス」
「そっか。ティー君ね。ウチはウェレダ。村外れにある、兄弟神アルキの森の神官をやってます。これからウチのところで暮らしてもらうことになるから、よろしく頼むよ」
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