幕間 熊田ふみ子
最初にシェルターの話が出たとき、娘たちの反対を押し切ってシェルターには入らなかった。
もちろん、娘たちと一緒にいたいという気持ちも強かった。
しかし、娘は今は結婚して子供もいて幸せな家庭を築いている。私が言うのもなんだが本当に素敵な旦那さんと一緒になったものだと思う。
私がいなければ一人ぼっちになってしまうこの人と違って、あの子にはもう一緒にいてくれる家族がいるのだ。
そこは本当に何も心配おらず、先が短い私のことなんて気にしないでこのまま幸せになってほしいと思っているのも本心だった。
※※※
感染がどうのこうのと騒ぎだしてからすぐだった。
元から体が弱く、生活習慣病もわずらっていたこの人はすぐに寝込んでしまい、容体はみるみるうちに悪くなっていった。
感染も健康体の人ならば感染も発症もしないといううわさがある。
現に特になにも病気がない私に症状が現れることはなかったし、感染してしまっているだろうこの人の近くにいても私が検査で陽性とされることはなかった。
そもそも、陽性・陰性の判断などお役所の人たちがよく分からない検査方法でやっているだけで、まるでシェルターに入る人物を選民しているみたいでどうしても好きにはなることはできなかった。
陽性としてくれれば娘たちも諦めてくれたのだろうが、そうではなかったので娘たちも無理を言ってシェルター側の人間に色々駆け寄ってくれていたみたいだ。
子供たちの気持ちは嬉しかったが、どうしても私はこの人がいる限りこの家から離れる気は起きなかった。
そんな中ぶらりんで鬱々とした日々を過ごしているある日に、すこし外の空気を吸いにと二階のベランダに出たら、お向かいのアパートのバルコニーにいるかわいい子と目が合うのだった。
※※※
最初は遊びのつもりだった。夫が、ホラー映画好きだったので私もそれに釣られて色々見ていたのだが、ある映画のワンシーンで屋上に取り残されたもの同士が双眼鏡などで意思疎通をしながら友情育んていくのを思い出したのがきっかけだった。
まだ、中学生の低学年くらいだろうか。その子は律儀にも私の遊びに付き合ってくれやり取りをしているうちに名前まで教えてもらった。
<<雪っていいます>>
大きな紙に書かれたそれは偶然にも私の娘と字は違えど名前が一緒だった。
ちくりと痛みが胸をさす。あんな子がどうしてシェルターにも行けず、こんなところにいるのか。夫のことに対して、この子に何か嘘をついているような後ろめたさもあった。
一応、避難所にも私は顔を出しているがシェルターに行けなかった人間は当然わけありの人が多い。その件について、深堀りしないようにするのは人と人とが円滑に付き合っていくことで当然のことだったので、そのことについて聞かないのはある意味、暗黙の了解のようなものができあがっていた。
ピンポーン
ピンポーン
「こんにちはー」
ある日、私が作った煮物のおすそ分けを取りに雪ちゃんともう一人のお兄ちゃんがうちにくる。
私が声をかけたのだから当然だが、おせっかい心と親心ともうひとつ、この子たちの事情を何とか聞き出せないかという大人特有のいやらしさもあった。
この頃になると、うちの夫は完全に転化してしまっていて元の面影は完全になくなってしまっていた。
呼んでしまった以上、この兄妹には絶対に迷惑をかけないように夫を物置に厳重にくくりつける。
「お父さんごめんね……」
言葉以上に、気持ちが締め付けられた。
「うちの兄も熊田さんのこと可愛いって言ってました」
談笑していると、雪ちゃんがそんなことを言う。
嫉妬といじけたような目が可愛らしくて思わず笑ってしまう。
思えば、雪ちゃんの目線はずっと兄のことを追っているのだ。
このやり取りで分かってしまった。
あぁ、この子はお兄さんに恋をしているのだと。
そんな、二人のやりとりを見ていたら何とか事情を聞き出そうかと思っていた頭がどこかにいってしまっていた。
そして、そんな話を聞き出すことは最後まですることができなかった。
※※※
ある日、突然感染者の行軍が来た。
あの兄妹に迷惑をかけないよう、夫のことは基本物置にくくりつけていてしまっていた。
夫の事も諦めることができず……かと言ってあの兄妹に嫌われたくない、迷惑をかけたくないといった私の弱さからだった。
まるでくくりつけられた夫を助けるかのように感染者の行軍がうちに入ってくる。
物置に夫と隠れ、過ぎ去っていくのをただ耐えるしかなかった。
夫が、まるで助けを求めるように奇声をあげる。
その声で察してしまっていた。
“私の夫はもういなくなってしまった”のだと。
※※※
雪ちゃんに手帳を残そう。傲慢だろうが私が思ったことを少しでも残してほしくて。
何かあった際の、田舎の空き家のカギも託すことにした。
どのみち、いつか取り壊す予定であったし,避難所のコミュニティが崩壊しそうな今、ライフラインが残っている居住地は悪い人に狙われる可能性があるだろうから万が一のときのための避難先として。
――夫のことはもう諦めて、大人しく娘の言う事を聞くことにしよう。
そう思っていたのに。
そう思っていたのに。
うちを明け渡すことも、夫を見殺しにすることもできなかった。
体が勝手に動いてしまっていた。
「うん……私もそっちに行くね。ずっと小さいころから一緒だったもんね。お父さん……茂さん……おに……」
朦朧としていく意識の中、今はもう変わり果てた夫がいつかのように優しく私の顔を撫でたような気がした。
それが、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
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