#3 夢みる万華鏡

3-1 遺り香と万華鏡

 祖父が死んだ。

 あたしにとっては、たった一人の家族だった。


 物心ついた時には既に両親が離婚していたから、父親の顔は記憶の片隅にもない。

 母親はあたしが小学生の時にいなくなった。

 祖母はといえば、母親がまだ幼かったころ、伊勢湾台風の年に亡くなったらしい。


 つまり祖父は、母親孫娘あたしを立て続けに男手一つで育てた人だった。

 駄菓子屋を営みながら、その傍らで一人親方の電気工事士としてちょこちょこと小口の仕事を受ける。あたしが高校を卒業する七十すぎまで精力的に働きまくっていた、スーパーおじいちゃんだったのだ。



 初七日法要でお昼をいただく、だだっ広いお寺さんの応接間は、お線香とお節介の匂いに満ちていた。


「これであんたもようやく結婚できるんじゃない? まぁええ歳でしょ。早よせんと子供も難しなるでな」


 知らんわ。零和れいわも五年ぞ、今。


 そもそも呪われた血筋なのだ。

 親戚じゅうをざっと見渡しても、霊感があったり異能持ちだったりする人が多い。

 かく言うあたしもそうだ。他人の気分の向きを、『匂い』として受け取ってしまう。


 だから、よく分かる。この老人たちに悪気なんか一つもない。

 女であれば結婚して子供を産むのが当然の幸せで、三十代も半ばのあたしにそれを勧めるのは心からの親切であるらしい。

 「もう面倒を見るべき祖父もいなくなったんだから」というニュアンスも感じられて、更にもやもやが募った。

 大きなお世話にも程がある。


 で呼ばれるのも、ストレスの一端だ。

 この場限りと呑み込んで、どうにか笑顔でやり過ごす。


 法要の会食を終え、小さな給湯スペースで全員分の湯呑みを洗っている時に、背後から声がかかった。


百花もかさん、何かやることある?」


 二つ下のハトコ、皓志郎こうしろうだ。

 祖父同士が兄弟という関係。続柄からしたら故人とはかなり遠い。だから来なくて大丈夫だと言ったのに、わざわざ手伝いに来てくれた。

 普段は伊達男風のコーディネイトが多い彼も、この日ばかりは上から下まで真っ黒のフォーマルスタイル。括った長髪さえ目を瞑れば、割と真面目そうに見えるから不思議なものだ。

 あたしも今日は喪服姿である。普段から和服は着慣れているものの、こうも全身を黒で包まれていると何となく息が詰まる。


 ただ、『百花』と。

 皓志郎が律儀にを守ってその名前で呼んでくれるので、多少は呼吸の通りが良くなった。


 皓志郎に洗い終わった湯呑みを布巾で拭く役目を与え、あたしたちは肩を並べて片付けを進める。

 いや正確に言えば、皓志郎の肩に並んでいるのはあたしの頭だ。昔はあたしの方が大きかったのに。もう二十年も前の話だけど。


「はぁ、じじばばの相手も疲れるわな」

「皓志郎も何か言われたの?」

「いや、ほら……いつまで独り身でおるんだとか、いい加減髪切れとか」

「髪……あぁ、うん、まぁそうだろうね」


 一瞬の間。


「……切った方がいい?」

「え? 別にどっちでもいいんじゃない?」

「えー……」


 そんな不満げな声を出されてもね。


「髪みたい自分が伸ばしたきゃ伸ばしゃいいし、結婚してもしんでも個人の自由でしょ。どんな風に生きるかなんて、好きにしやいい」


 あたしは綺麗に拭き上げられた湯呑みを棚に戻し、溜め息みたいに小さくこぼす。


「結局、逝く時は独りだもん」


 祖父が死んだ。四日前の夜、知らぬうちに風呂場で倒れていた。急いで救急車を呼んだけど、病院に着いた時には既に心臓が止まっていた。八十九歳。持病もなかったのに。

 各所への連絡やら手続きやらが降っては湧いて、昨晩は通夜で、今日は朝から告別式で、バスで火葬場へ行ってご遺体を焼いてもらって、戻ってきたらすぐに初七日法要。

 異常なほどに目紛めまぐるしい。おかげで、まだ実感がない。感情が置いてけぼりだ。


 立ち止まる暇もないのは、むしろ良かったかもしれない。


「百花さん」


 再度の呼びかけにハッとして振り返れば、いつも通りの緩い表情。


「仕事の案件とか家の片付けとか、俺にやれることあったら手伝うでな。また連絡してよ」

「あぁ、うん……ありがと」


 ……うっかりはずみでほろっと来そうになったのは、ここだけの話だ。




 日常生活が戻ってくると、ようやく実感する。

 いるべき人がいない。その事実を、嫌でも突き付けられる。


 告別式の日から一週間ほど経った、梅雨の晴れ間の黄昏時。

 一人分の食料の買い出しから戻り、いつもの癖で「ただいま」と言いかけて、口を閉じる。高い上りかまちに腰かけた途端、どっと疲労が襲ってきた。

 湿気と宵闇が誰もいない家の中に入り込んでいて、停滞した空気が重い。

 風でも通そうかと考えて、唐突に思い当たる。表の店舗のシャッターを開けることは、もうないのかもしれない、と。


 うちの表は駄菓子屋だ。

 寂れた商店街に行き交うのは、今や老人ばかり。子供のお客なんて滅多に来やしない。

 それでも毎日お店を開け、置物よろしくレジの横に座っていた晩年の祖父。

 当たり前みたいな光景だったけど、本当は当たり前なんかじゃなかった。今さら気付いたって遅い。


 ギィギィ軋む幅の狭い急な階段を登り、二階の自室へと赴く。

 アンティーク風の小物をこまごまと揃え、雰囲気だけはレトロモダンに見せかけたあたしの自室の六畳間。心霊相談のお客さんを招いたり、ネットで受注販売している一般向けのお香を作る仕事部屋でもある。

 古い家特有の饐えた臭いは、香の匂いでは誤魔化すこともできない。良くも悪くも、慣れ親しんだ我が家の匂いだ。


 静かだった。

 多少なりとも気晴らしになればと、建て付けの悪い窓を開ける。

 ぬるりとした湿気は、いっそう濃い。

 ぼんやり眺めるいつもの景色が、二重写しになっていた。

 あぁ、駄目だ。


 あたしには前世の記憶がある。

 今の身体に生を受ける前は、江戸時代の私娼だった。名古屋にいた私娼のことを、総称して『百花』と呼んだらしい。

 つまり今のあたしが名乗っているのは、どこの誰とも特定できない、ただの一般名詞なのだ。


 あたしが親からもらった名前を捨てても、祖父は受け入れてくれた。

 いつも朗らかで優しかった祖父。

 あたしは幸せな孫娘だった。


 どれほど霊感があっても、祖父の霊には会えない。まだその辺にいてもいいはずなのに。

 最後に交わした言葉は何だったっけ。それすらも思い出せない。

 こんな時なのに、前世の記憶ばかりが蘇ってくる。あたしは久々に、自分の中のもう一つの魂を恨んだ。


 不意に、変わった匂いを感じた。たぶん階下から。

 が訪ねてきたのかもしれない。だけど一階へ降りていっても、誰の姿も霊体もない。

 あるのは、胸をざわめかせるような『匂い』だけ。

 祖父の寝ていた部屋の方からだ。


 心臓が早鐘を打った。


「おじいちゃん?」


 柄入りガラスの嵌った引き戸を開ける。

 誰もいない。何もない。あたしが畳んだ、もう使われることのない布団が目に入れば、気分が一段沈む。

 目には視えない。声がするわけでもない。

 だけど、確かに『匂い』がする。決して心地いいとは言えないのに、どうにも無視できない匂いが。

 押入れの中に、何かある。


 あたしは意を決して進み入り、押入れを開けた。

 原因はすぐに分かった。

 両手に載るくらいの長四角形をした、昔のお菓子の缶。微かに護りの気を感じる紐がかかっている。


 その時だった。


 ——百花ちゃん、気を付けなかんよ。


「え?」


 息を呑んだ。

 今のは、祖父の思念だったと思う。

 缶にかかった紐からは、もう護りの気は消失していた。


 缶から漏れる『匂い』が濃さを増した。

 この手の簡単なまじないは、術者が死んだら効力を失うのだ。


「おじいちゃん……」


 あたしに注意を呼びかけてから、思念も術も消えた。

 つまり、これは不用意に触れたら不味いものだという、祖父が最後の最後に送ってきたメッセージに違いない。


 あたしは自室から仕事道具を運んできて、簡易的な結界を張った。

 特殊調合した香が効いている空間は、あたしのテリトリーだ。多少の異変があっても対処できる。

 手元には使い慣れた煙管キセル。様々な術の香も揃えた。


 慎重に缶の紐を解き、そっと蓋を外す。

 そこに収まっていたのは。


「……万華鏡?」


 赤いちりめんの、昔懐かしい。ところどころ古びた千代紙が継ぎ接ぎされていること以外、見た目には何の変哲もない筒状のそれは。

 これまでに感じたことのない異様な匂いの『念』を纏っていて。

 なぜかあたしの耳の奥では、嵐の吹き荒れるような轟音が鳴り響き始めて——。

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