第29話

管理局に入ってから迎える何度目かの見知らぬ天井は、もはや見慣れたものになっていた。

 安物のパイプ椅子に腰かけ、目覚めるといつも優しく微笑んでくれた地神稲荷がいない病室だけは慣れることができなかったが。他に誰かいた気もするが現はその度に頭痛に苛まれる日々を送っていた。

 現は三日生死の狭間を彷徨い、四日間の睡眠を経て何とか目を覚ました。医師による入念な健康観察の結果、もう一週間の入院を言い渡され、今日はちょうど一週間後、つまり退院の日だった。

 二週間、管理局に入ってから合計するともう一ヶ月近く寝泊まりした病室ともおさらば。そう考えても別に寂しさは湧いてこなかった。

 ただ、彼岸花を見ると少しの間寂しさが胸を支配した。

 荷物をまとめ、住み慣れた病室を出る現だが一階へは向かわず階段を上り五階のとある病室を訪れる。他の病室よりもやや大きめの扉の横には五八一号室と大きく書かれていた。

 コンコン、と軽くノックするとくぐもった大きな声で入室を許可される。扉を開き、部屋の主に安否を尋ねる。

「籠ヶ峰、元気か。……っと、雛菊もいたか。悪い、邪魔したか?」

「い、いえ、大丈夫っスよ現先輩」

 大型のベッドには籠ヶ峰、そしてその横にはパイプ椅子に座る包帯だらけの雛菊が座っていた。

 一番早く目覚めたのは意外にも最も重症の雛菊だった。雛菊が目覚めたのが約十日前、現が目覚めたのが一週間前、籠ヶ峰が目覚めたのは二日前のことだった。現と籠ヶ峰が顔を合わせるのは実に二週間ぶりになる。

「おう現、久しぶりだな! そういえば今日退院だったか! めでたい! ところでさっきの質問だが、お前は今の俺が元気に見えるか!」

「ああ、とても」

「ハッハ! そうかそうか、お前を喜ばせることができて俺も嬉しい!」

 トレードマークとも言えたニット帽を脱いだ籠ヶ峰は初めて見る。焦茶の髪は短く刈られており、若干痩せたことも相まって幾分か年老いて見えた。

「籠ヶ峰……その、聞いた、か……?」

「お前にしては歯切れが悪いじゃないか! 今更気を使うような間柄でもあるまい!」

 ハッハッハ、と豪快に笑って見せる籠ヶ峰だが、おいそれと聞けるようなものではない。何しろ、

「聞いたとも! 今いる管理局員は現に虚、雛菊と俺のみ! なんともむさくるしくなったものだ!」

 籠ヶ峰は笑ってみせる。振り上げた大きな手は行き場は失ったようにベッドに落下する。彼ですらそうさせる現実に、現と雛菊は項垂れる。

 籠ヶ峰も雛菊もあの一晩の出来事は全て知っている。天将帝を倒したこと。心月平理が裏切ったこと。地神稲荷が死んだこと。

 沈黙を破ったのは雛菊だった。

「今から……オレ達は、心月さ……心月、と戦わなきゃいけないんスよね」

「ああ。厳しい戦いになるだろうな」

「……地神さん無しで、戦わないといけないんスよね」

「……ああ」

「もし……もし、オレがもっと強かったら、地神さんは……」

「雛菊。それは違う。天将を倒したお前以上の強者なんて異能都市の中にいない」

「でも、たまたまっス。偶然の中の更に偶然っス。いや、倒したのは事実でも、でも、俺が、俺がもっともっと強かったら、地神さんは!」

「雛菊一ッ!!!」

 ドウッと暴風が吹いたかと錯覚するほどの呼号。それはもちろん、部屋の主、籠ヶ峰のものだった。

「お前は常に確かに誰よりも弱かった!! 強くなろうと努力し、それでも弱かった! そのお前が最強を打ち倒したのだ!! それだけでいいのだ!! 自分が強くなったことから逃げるな!! お前はいつまでも弱者ではいられない、雛は殻を破り外の世界へ羽ばたくのだ!! お前はもう強者だ!! ならば自信を持て! そして叫ぶのだ! 我こそは異能都市最強だと!!!」

 力強い言葉はその一つ一つが雛菊の胸に刺さる。

「だがな、どれだけ強くなろうと俺たちは過去に戻れん! 失ったものは取り戻せず、永遠に失ったままだ! ならば、二度と失わないために俺たちは強くなる! たったそれだけのシンプルな話だ!!」

 失ったプライドと、それとは比べものにならないほど大切な失った人を思い浮かべ籠ヶ峰は続ける。

「確かに俺たちは負けた! かけがえのない仲間を失った! それでも俺は前に進む! これは義務ではない! 俺が前に進みたいからだ! 亡き人の遺志を継ぎたいからだ!! だからもう誰も死なせやしない! 絶対にだ!!!」

 そう言うと籠ヶ峰は満面の笑みを浮かべる。その睫毛の端には美しい透明の滴が滴っていた。

 それから一時間、籠ヶ峰と雛菊との談笑を終え現は病室を出た。

「ったく、ほんと声でけえな。うるさすぎて患者からクレームくる寸前だっつの」

 メンバープレートに寄りかかっていたのは既に退院し、日常生活に戻った虚と、右眼に黒い眼帯を着けた守桜だった。

「まったくだ。結局謝んのは俺なんだからな、面倒くせえ」

 守桜はいつものよれよれスーツとは違い、珍しく礼服を着ていた(とはいいつつもやはりそれもしわだらけだった)。

 現、虚両人とも守桜の右眼についての話は既に聞いている。守桜が心月に敗北したことも、心月がかつて現と同じ無能だったことも、そして心月が新たな異能を獲得したことも。

 来たる心月戦に備え、より詳しく聞こうとする二人だったが守桜がそれを遮った。

「さて、孤衣無兄弟。お前らはこれから会わなきゃいけない人がいる。ついてこい」

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