第28話
にんまりと気色悪いほどに歪んだ目の奥に爛々と輝く灰色の瞳。裂けていないのが不思議なくらい上がった口角、剥き出しになった二本の鋭い犬歯。
今この状況で、その表情を見せたことに、守桜は不快感や嫌悪感を通り越した恐怖を感じていた。
狡猾な罠をしかけ他の命を狙う人間とは違う。
本能に従い、それ故に時に人間以上に残酷な獣とも違う。
目の前にいるのはただの化け物なのだと実感させられた。
「そこでいいのか、守桜?」
恐怖で固まっていた思考がその言葉でようやく動き出す。慌ててビルから飛び降りるとほぼ同時に、屋上はかの串刺し公を彷彿とさせる、棘だらけの死地と化していた。
そして迫り来る地面に着地しようと足を僅かに曲げて踏ん張った瞬間、
「っ!?」
ずぶり、と。腰まで地面に突き刺さった。いや、より正確に言うなら沈み込んだ。
「沼だと……!?」
そう、四方をビルに囲まれた一帯が底なしの沼に変貌していた。
「見た目は同じだから気づかなかっただろ? 苦労したぜェ、どこに着地するかわかりゃしねェから全部沼にしねェといけねェ。時間はかかったが、テメェのくっだらねェ他人語りのおかげで済んだぜ」
さて、と心月は一歩歩みを進める。主人に従うように、心月の進行方向に沿って地面は硬さを取り戻していく。ザリ、という砂を踏みしめる音が近づくにつれ守桜の寿命も縮まっていく。
その間にも身体は沼にハマっていく。
「……クソが」
脱出しようと腕や胴を必死に動かすも、もがけばもがくほど、だった。
「お、おいおい心月よう、管理局では随分と世話してやっただろ? 今こそその恩を返すべきなんじゃねえのかな〜、なんておっさんは思うんだけどなあ?」
「ハッ、今更になって命乞いか? 情けねェマネはやめろ、ただでさえ部下一人守れねぇ程度にゃ情けねェんだからよ」
それに、と心月は口角を上げる。
「世話したされたじゃ立場が逆だろ。俺が苛つく龍爪を何度宥めてやったと……と、覚えてねェか。まあいい、最期まで世話してやるよ」
心月が虚空から一振りのナイフを掴み取る。月夜に照らされて怪しく光る刀身は脂汗を浮かべた哀れな中年を映す。もはや勝敗を競り合う次元ではなく、狩る側と狩られる側は完全に決した。
「なぁんて思ってないよな?」
「!」
「ソメイヨシノ・狂い咲」
数匹の巨象が地ならしを起こしているというか、巨大隕石が降ってきたというか。
とにかく、五十キロ先の人間が気づくほどのとんでもない爆音が響き渡った。
もちろん音だけのはずもなく、運悪くそれを直視してしまった者は数十秒程度ではあるが、一時的に光を失った。それほどの衝撃をほぼゼロ距離で喰らって、人は生命活動を維持できるのか。
否、不可能である。
「狩人が自分だと決め込んだ時点で狩りは失敗してんだよ。時間を稼いでたのがお前だけだと思うな」
守桜が行ったのはただ一つ、放電である。
身に纏えば雷の鎧となり、発すればたちまち落雷に変わるほどの電気量を守桜は瞬時に貯めることができる。それほどの帯電を一瞬ではなく、長時間行ったとしたらどれほどの電気量になるだろう。そして、それを一度に放電すればどれほどの威力を発揮するだろう。
答えがこれだ。心月が造り上げた沼は消し飛び、十メートルにも及ぶ巨大なクレーターが出来上がっていた。
「あ〜疲れたっと……死体探しでもするかねぇ。もっとも、ないもの探しにならなけりゃの話だが」
さて、ここでもう一度先程の問いを思い出そう。
「ん……?」
それほどの衝撃をほぼゼロ距離で喰らって、人は生命活動を維持できるのか。
答えはやはり否、不可能である。
「……………………化け物が」
つまり心月平理は人ではなかった、それだけの話である。
砂塵の奥、揺れる人影があった。それは痺れた様子もなくゆっくりと守桜に向かって足を踏み出す。
「ソメイヨシノ」
すかさず守桜の指から雷撃が飛ぶ。心月はそれを避けず、否、正確には避けられるはずもなく、直撃し後ろに倒れかけ、
「ハッハァ〜」
地面スレスレで停止すると、愉快な起き上がり人形のように体勢を戻した。そしてまた一歩、ゆっくりと歩みを進める。
(上半身に焦げ跡はなし……だが、服が焼滅してる。ということは、一定範囲を守ったんじゃなくて自分の身だけを守った。痺れてないってことは衝撃だけから守ったわけでもねえ。いや、むしろ衝撃からは守れてない……? 何かを逆にする異能……)
「つまり…………絶縁体?」
つぶやいたその一言は心月にまで届いた。自慢のタネを見破られたマジシャンは皆苦い顔をするというが、さて。
化け物の場合は顔を醜く歪めるらしい。
(自分の身体を導体から絶縁体にしたってことか! そりゃ痺れるわけないわな、そもそも電気を通さないんじゃあ!)
「でもそれ悪手だろ」
新緑色の発光と同時に砂塵が舞い、心月は守桜を見失った。
そのコンマ数秒後、心月はナイフを逆手に持ち替え真後ろに突き立てた。ナイフに伝わる僅かな振動から心月は読みが当たったことを確信し、右腕の勢いそのまま切り裂くように振り向いた。
しかしそこに守桜の姿はなく、ただ泥だらけのジャケットがはためいているだけ。問題なのはその真下にいた守桜隠身と目があったことだった。
「フッ!」
守桜が放ったハイキックが心月の顎にヒットした。平衡感覚を失い守桜に覆い被さるように倒れ込む心月だが、それを阻止したのは守桜の拳だった。鳩尾にめり込んだ拳を貫通させる勢いで加速させる。
「ぐブぉ!!」
拳の勢いのまま宙を舞う心月。空中で受け身を取れるはずもなく、即座に目前に迫った守桜の踵落としをもろに喰らう。そして心月が地面に叩きつけられると同時にサッカーボールのように灰色の頭を踏みつける。
「一度に反転できるのは一つだけ。ずっと身体を絶縁体にすりゃてめえは攻撃手段を失うし、そもそも俺が雷を使わなけりゃ意味ねえだろ。フィジカルで勝る俺に接近戦挑んだ時点で負けなんだよ」
ぐりぐりと踏みしめても何も反応はない。顎への強打の直後に踵落としを頭に喰らえば、さしもの化け物でも気絶は免れなかったようだった。
「ふぅ……」
一つため息をつき目を閉じると、守桜の身体からわずかに新緑色の光が発せられた。戦闘中のような周囲を照らしだす光ではなく、どちらかというと漏れ出たという印象だった。
(周囲に頻繁な静電気発生はなし……やっぱこいつに仲間は無し、か)
ふと、守桜は思った。愛した両親に裏切られ、愛する弟を亡くし、やがて出会った人間に愛したふりをして。その全てを殺し尽くした。
そこに快楽はなく。歓喜も、悲哀もなく。
何も無かったのだろう。弟を亡くしてから、心月には何も無かったのだろう。
(お前の人生は、何か得るものがあったのか?)
そう口に出そうとした時、ハッと口をつむんだ。
死人に対してでもその言葉が失礼だったから、ではなく。
それは目が合った灰色の瞳にまだ光が宿っていたからだった。
「お前、まだ生きて、」
「やっと、馴染んだ」
瞬時に光を纏い、勢いよく後退するはずだった。
「!?」
右足に何かが絡まった。植物の根のような、柔らかくも強靭な何か。その何かによって大きく体勢を崩し、尻餅をついてしまう。
急いでこの場を離れなければ。そう思って顔を上げた瞬間、ずぶり、と嫌な音が聞こえた。人体のどこかを刺されたのは間違いないが、どこかはわからない。
(痛みは、ほぼない……? やけに耳の近くで聞こえた。で、今見える景色はなんだ? 心月がナイフを突き出してる。俺の顔の近くに。刺されたのは顔か? だとしたらどこだ? いや、待て、待て待て待て待て待て待て、なんで、俺の、視界が、)
「うわああああああぁァァァァァァァァ!!!!!!!!!」
人体とは都合の良いもので、傷に気づかなければ痛みを感じないこともある。ただし、一度認識してしまえば先送りにした分より強く痛みを感じる。
この場合は人体の不思議が裏目に出た。右眼を失った痛みは蓄積された痛みを一気に放出し、守桜をパニック状態に陥れた。
「ソメイヨシノォ!!」
全力の放電。蓄電なしのそれは先刻ほどの威力はなかったが、それでも意識を奪うには十分だ。
しかし心月は既に絶縁体になっている。強い衝撃が心月を襲ったが、心月の身体は何かに繋ぎ止められたように動かなかった。
その隙を突いて守桜はその場を離脱する。肩で大きく息をする守桜を見て、心月は口角を上げた。
「狩人が自分だと決め込んだ時点で……なんだったか?」
なんとも皮肉が効いた言葉だったが、守桜の耳には入ってなかった。
「なんだよ、てめえなんなんだよそれはよぉぉおおおおおおおッッ!!!!!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます