第18話
記憶は曖昧だけど、多分五歳の時だったはずだ。
目の前で人が死んだ。
まだ幼児と言っても差し支えない年齢だし注意力散漫だった、という理由で許して欲しいのだけれど、時速八十キロで突っ込んでくる鉄の塊に気づかず、僕は横断歩道を渡ろうとしていた(もちろん歩行者用信号は青だった。これは間違いない)。そこを助けてくれた彼が死んだ、というわけだ。
彼、とは言ったもののそれが彼なのか彼女なのかは判別できなかった。ブチブチに引き裂かれた肉の間からは血で赤黒く染色された骨が見えていたり、腕は普段曲がらない方向に曲がっていた。僕はグロテスクという言葉の意味をその時学んだ。おかげで僕はグロテスク耐性がそこそこ強い。
まあ、そんなことはどうでもよくて。
何が言いたいかというと、僕はその時『ラッキー、助かった』としか思わなかった。
僕を助けてくれた人には申し訳ないけれど、今になっても僕はその人に一ミリも感謝していないし、ましてや懺悔の気持ちもない。
気持ちが無いことに、申し訳無い。
物申すほどの理由がない。
思わないことを謝れと言われても何が悪いのか分からないから自然、その謝罪に心がこもらない。
逆に知らない人が死んで何で感謝したり懺悔したりしなきゃいけないんだ。テレビを見ればわかるように、人が死なない日なんて存在しない。
お前は知らない国で死んだ知らない人のために毎日悲しんでいるのか、という話だ。
僕はそれ以来直接死体を拝んだことはなかったし、近しい人の死は初めて体験すると思う。
けれど…………やっぱり僕は、何も思えない。
・
「……地神さん」
管理局局長、地神稲荷の死体と目を合わせるようにして、現はそう呟いた。
いや、目を合わせることはできなかった。天井からぶら下げられた生首の、美しい山吹色の瞳があったはずの場所は空洞だった。
「ヴ、ゔぉエぇッ」
誰もいなくなってしまった局室に嗚咽が響いた。見れば雛菊が溢れ出る吐瀉物を抑えるように口を塞いでいた。それでもやはり抑えきれず、雛菊は膝から崩れ落ちて嘔吐した。
雛菊の目から、涙が溢れた。明らかに嘔吐の副反応ではない、大粒の涙が堰を切ったように溢れる。雛菊が心ある人間であることを改めて認識しつつ現は雛菊の背中をさすった。そして顔を上げて、
「龍爪、どう思う」
声をかけられた本人は振り向きもせず、ただ、
「どう……とは?」
震える声で聞き返した。
「誰が地神さんを殺したのか、だ」
地神稲荷は斬殺で、惨殺されていた。いわゆるバラバラ死体だ。片腕は棚の上に、もう片方は花瓶に刺さっていた。両足はくるぶしで切り揃えられ、靴と一緒に丁寧に机の上に並べてあった。さながら、私は自殺しました、とでも言うように。
抉り取られた目玉は消失したわけではなく、机の上のコップの中にあった。それがわかったのは、文字通り血塗れのコップの中身が傘増しされていたからだ。おそらく目玉同様に切り取った鼻と耳が入れてあるのだろう。
部屋中に血生臭さが漂っている。まだ時間が経っていないのだろう、臭いが濃い。首から滴る血がそれを裏付けしていた。
彼女を和風美人たらしめた長い黒髪は赤黒い血で醜い斑模様を描かれていた。
「自殺は考えにくい。このタイミングで、こんな死に方を選ぶ意味がわからない。だったら誰が殺したのか考えないといけない。じゃないと、次に死ぬのは僕たちだ」
現の言い分は正しい。地神稲荷はあの性格で誰よりも真面目で誰よりも人のことを考え、そして誰よりも人のために行動する女だった。そして仮面騎士、天将との対決を残したこのタイミングで、自分が死ぬことが一番まずいことだとわからないほど頭が悪くもない。
となると、やはり他殺。管理局とクラレントの抗争の最中、私怨で地神を狙った殺人とは考えにくい。地神本人ではなく、管理局に恨みを抱えた者が犯人ならば次に狙われるのは局員だ。
「それも、確かに考えなければなりませんね。ところで、現さんは何も感じないんですか?」
小さな背中を見せたまま、龍爪が問う。
「……どういう意味だ、龍爪」
「たかが一ヶ月とは言え、現さんが地神さんから頂いたものは数知れず……身の安全の確保、管理局という居場所、資金援助に戦闘指南。そのどれもがそれ以上ないほど価値あるものだったでしょう。それなのにあなたは他人事のようにべらべらべらべら……。もう一度聞きます。地神さんが死んだのに何も感じないのですか?」
「恐怖を感じるよ」
しかしそれは、
「地神さんを殺すほどの力を持つ敵に、僕は恐怖を感じる」
龍爪が現の胸元を掴む。思わず息を呑んだが、身長差があるためどうしても喝上げのようにはいかない。幼い子供が野球選手にインタビューをしているような、平和なワンシーンにしか見えない。
尤も、龍爪の表情はそんな微笑ましいものではなかった。悲しみに暮れながらも涙を必死に堪え、今すぐにでも絶叫し、狂ってしまいそうな程の怒りを身のうちに宿しながらも、なんとか限界寸前で耐えている、複雑極まりない表情をしていた。
「僕は間違っているか、龍爪」
対する現の表情は崩れない。無感情な無表情。
それが余計に龍爪の神経を逆撫でした。
「貴方は人が死んでも何も思わないんですかっ!?」
シンとした局室に悲鳴に似た詰問が響く。しかしそれは森に響いた銃声のように静かに飲み込まれ、やがて部屋はもとの静寂を取り戻す。
次に響いたのは現の言葉だった。
「ああ、少なくとも今回は何も感じない。僕は誰よりも強く生きたいと思っている自信がある。だから文字通り命懸けでクラレントと戦ってきた。その中でわかったけれど、僕が生きるのは人が死んだ時悲しむためじゃない」
孤独を強いた現実は、十七歳の少年にそんなことまで言わせてしまう。
じゃあ、と俯いたまま龍爪は言葉を重ねる。
「私が死んでも、貴方は何も思わないんですか?」
震える声を聞いて現はわずかに目を見開き刹那の間思考を巡らす。
もし、目の前の少女が死んだら。
その時、孤衣無現は何を思う。
「何も、思わないよ」
導きだされた答えは、龍爪の期待したものではなかった。
「っ!!!」
パァン、と肌が肌を打つ音が響く。
現は同い年とは思えないほど小さな掌に頬を打たれた。
「貴方は私が死んでもどうとも思わないかもしれませんがね! 貴方が死んだら私は悲しいですよ!」
現は初めて彼女の本気の怒りに触れた気がした。
初対面で身長をからかった時も、命を賭けた単独行動をしても、親しい人の死を軽んじた時でさえも、手が出たことはなかったというのに。
龍爪紅は、今何に怒ったのだろう。
その問いの答えを聞こうと、現は唇を開く。が、
「もうやめてぐだざいよ!!!」
それを止めたのは雛菊の涙声だった。
まだ嗚咽が止まらず、唾液塗れの床の上に四つん這いのまま雛菊は叫ぶ。
「今喧嘩なんてしてる場合じゃないっスよ!! それぐらいわかるっスよね龍爪先輩!! 現先輩も、何で何も思わないんスか!? 地神先輩が死んだんスよ!?」
自然と二人は硬直する。しかしそれは、雛菊の必死の言葉にではなく、
「雛菊逃げろ!!」
「雛菊さん今すぐ離れて!!」
「ーーえ?」
「失せろ愚民。王が通る」
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