第8話
暗い幕に閉ざされたショッピングモールの一角に、肩にカラスを従えた殻例夜唯々は座っていた。
ショッピングモールの一角、と言ったが正確にはそこは子供用の玩具店の一つだ。殻例夜の周りには跡形もなく破かれた絵本の残骸が散らばっており、それを数羽のカラスが啄んでいた。屍と化した獲物を漁るように。
殻例夜が腰掛けているのは幼児の遊び場を区切るための低い壁だ。本来ならばパステルカラーのカラフルな色合いだが、影に包まれたこの場では黒一色だ。
殻例夜は沈黙したままじっと手元の人形を見つめていた。彼が手にしているのは幼児、特に幼女向けの着せ替え人形だ。着せられているはずの服と人形が入れてあった箱は、破り捨てたまま床に転がっている。人間で言えば産まれたままの姿の人形だが、当然その顔に恥らいの色はない。
殻例夜は尚も見つめて、見つめて……
「……」
肩に留まっていた一匹のカラスを握りつぶした。カラスは悲鳴も絶叫も発さず、その代わりに一本の羽ペンを残して絶命した。カラスの血は赤ではなく、闇と同じ黒だった。
殻例夜は羽ペンを握り直し、裸の人形をじっくりと見つめた後、丁寧に人形の肌にペンを走らせた。
黒のインクが人形の衣装を描いていく。その肌の上にやがてレースがあしらわれたドレスが浮かび上がる。裸だったとはとても思えないほど違和感のない立体感のあるドレスはもちろん実物ではない。
殻例夜は満足そうにその人形を持ち上げた。照明のついていない天井に人形をかざし、ドレスの下の肌を見透かすように目を細める。
カラスが一匹飛び立つ。カラスは人形をくわえると近くの看板に留まってそれを喰らい始めた。カラスの唾液で人形のドレスは溶け、再び産まれたままの姿に戻っていた。やや悲しげに顔を歪める殻例夜だったが、
「ガァァ」
新しく肩に留まったカラスの鳴き声が殻例夜の表情を無に戻した。
「……そうか。……来たか、奴らが」
そう呟くと殻例夜は立ち上がる。二メートルを超える彼が子供部屋にいるだけで不気味さを、彼の周りを飛ぶ何匹ものカラスが助長していた。
「では……、ベロニカ。始めると、しよう……」
言葉が暗闇に消える頃には、周りのカラスは闇に溶けていた。
・
当然の話だが、閉鎖されたショッピングモールには人一人いなかった。現達が通った通路には人はおろか生物の痕跡すらなかった。ところどころから漏れる太陽の光が照らす生命は二人の他にない。それなのに隠しきれない生物の気配が、ここに何かがいると示していた。
「それにしても暗いな」
「確かに……私が来た時よりもだいぶ暗いですね。照明も切れてますし」
緊張を紛らわすためだろう、そう思って龍爪は答えた。
「足元に気をつけていこう」
「あら、心配してくださるんですか? お優しいですね」
「からかうな。そんなハイヒール履いてれば誰でも心配するだろ。……そうだ龍爪、殻例夜の異能についてもう一度教えてくれないか?」
「そうですね。接敵するまでは暇ですし、おさらいしておきましょうか」
暗い廊下に二つの足音が響く。片方はゆったりと、そしてもう一つは甲高い音でやや早めのテンポで音を鳴らす。
「クラレント守護騎士・殻例夜唯々の異能はベロニカ。簡単に言うと、影に包まれた真っ黒い動物……いえ、黒い獣を生み出す能力です。黒一色なのでわかりづらいですが、狼に鰐、鼠や虎と獣の種類はさまざま。一番多かったのはカラスでしたが」
「黒い獣、か。龍爪は一度戦っているんだろう?」
ええ、まあと答えながら二人は止まったエスカレーターを登る。止まったエスカレーターの気持ち悪さが暗幕の降りた劇場の不気味さを加速させる。
見れば崩れかけた天井にはブルーシートが何重にも覆いかぶさっている。もう目が慣れてきたからいいものの、このショッピングモールは昼にしては暗すぎる。
「勘違いされたくないので言っておきますけど。殻例夜と交戦した時私はかなり油断してたんですよ」
「強がらなくていい」
「むっ……」
ぷくっと頬を膨らませた龍爪だが反論しきれない事実があるため事実確認に努めた。
「油断していたのは事実ですよっ。あの時、私はただのクラレントとして情報を受け取ってこのショッピングモールを訪れました。本来なら、今みたいに二人一組で行動するべきだったのですけれど、あの時は皆さん忙しかったですから私だけで来たんです。クラレントと聞いて、行かないわけにはいかなかったですしね。そしたら……」
「ただのクラレント、じゃなかったってわけか」
こくり、と龍爪は頷いた。
「まあ確かに、十本指が負けるとは思わないよな。単純に考えて、異能都市にはあと九人程度しか龍爪には対抗できる異能者はいないんだし。まあ、そんな実力者には僕も会ったことないよ」
あら、と龍爪は現の言葉を訂正した。
「十本指でこそないですが実力者という意味で言えば、現さんも会ったことありますよ?」
「え?」
「地神さんです。あの方は十本指でこそないですが、私と張り合える程度には強いですし、しかも原色に近いですよ」
「はぁ!?」
龍爪の言葉を聞いて現は、珍しく素っ頓狂な声を上げた。そんな反応をしたのも無理はない。十本指と張り合える強さというだけでも十分衝撃的だが、それよりも後半の言葉が現を驚かせた。
原色。異能都市に八人いるという、最高クラスのクオリティを誇る異能者の呼称だ。代償、クールタイムなしで超規模の異能の発動が可能な異能者。当然だが美術用語の原色とは異なる、瞳に唯一無二の色を持つ異能者のことを、そう呼ぶ。
「じゃあなんで今回地神さんはいないんだ?」
三騎士を打倒することは、クラレント解体のためには必須かつ最短の道のりのはずだ。当然今回の任務もかなり重要なはずだが、今回地神は作戦に参加していない。
「逆に考えてください現さん。もし今、オーガや天将帝が現れたとしたら誰が対処できるんですか?」
「……あぁ、そうか」
食人鬼と呼ばれるオーガや、クラレントのボスにして異能都市の頂点天将帝。もし彼らが暴れ始めた場合、倒すとまではいかなくても地神なら十分戦いになる。作戦中だとどうしても咄嗟の危機には反応しにくく対応が遅れる。そのため、地神はよほど重要な作戦でないと参加しないらしい。
管理局の目的はあくまで、異能都市の秩序と平和を守ることなのだ。
「正直な話、管理局で戦闘能力が一番高いのは私でしょう。が、戦闘以外も含めた状況判断能力や各所へのツテなどを加味して考えた時、最大戦力と呼ぶに相応しいのは地神さんです。その地神さんだけは簡単に動くことができません。ですので、私たちだけで活動する必要がある、ということです」
なるほど、と言って現は口を閉じた。
管理局に入ってから二週間、多忙な地神を除いた全員で手合わせをする機会があった。それぞれの詳細は知らないが、勝ちの多さ順に龍爪、心月、籠ヶ峰と虚、現、雛菊の順番だった。狙われやすい現は龍爪と、最弱の雛菊は心月と、同程度の戦力として籠ヶ峰と虚がバディになった。
殻例夜を相手に敗走した、と本人は嘆いていたが実際本当に油断していたのだろう。あるいは現自身がそう思い込みたかったのかもしれないが。
(情けないけど、戦闘は龍爪に任せておけば負けることはないだろう)
と、そこまで考えたところで一人忘れていたことに気づく。
「守桜さんは? あんまり強くないって本人が言ってたけど」
「守桜さんですか? うーん……一度だけ手合わせしたことがあるんですけど、あまりお強いとは言えなかったですね。大体ですけど、箱庭さんと虚さんよりちょっと弱いぐらいでしょうか」
そういえば、と龍爪は漆黒のワンピースから小さなケースを取り出した。錠剤などを入れる、白いピルケースだ。
「これ、守桜さんから現さんに渡すよう言われてたんでした。『ようやく出来た〜』とかおっしゃってましたけど、なんなんですか?」
龍爪から受け取りつつ口を開く現だがその答えが返ってくることはなかった。
「…………」
二人の前に、ただの暗闇だったはずの場所に、男が立っていた。男の肩には着色料でも使用したかのような黒いカラスが紅い目を光らせてとまっていた。
二メートルを超すであろうその身長。無造作と言えばまだ聞こえはいいが、その実、放ったらかしにしてあるだけのボサボサの黒髪。鼻先まで伸びる髪が凶暴さを秘めた瞳を隠していた。唯一違うのはその身に纏う服。ホログラムで見た絵の具だらけの汚らしいシャツとは装い新たに、闇色のコートが彼を包んでいた。
ガァァと鳴いてカラスが飛び立つ。
「…………」
殻例夜唯々。クラレントの守護騎士の彼が。
何十人もの殻例夜唯々が、二人を囲んでいた。
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