第2話
現は今、自分がどういう状況に置かれているか理解できなかった。
脳が、肺が、身体が酸素を求める。できることなら今すぐ足を止めて寝てしまいたい。しかしその先に待っているのは絶望だ。
絶望は明確な形を持って現を追いかける。
「くそったれ、くそったれ、くそったれが!!」
(僕が何をした? 何もしていない。いや違う、何もできないんだ。僕が何もできない無能だから、あの女は追ってくるんだ)
「うぅつぅつく〜ん! あーそびぃましょっ!!」
声が響くと同時に、再び暴風が現を襲う。暴風とは言ったものの正しくは空気砲に近い。今回はだいぶ距離が離れているため直撃は免れたが、かすっただけでシャツの腕部分が破れ散った。
自動車並のスピードで自分の身を超える超巨大な空気砲が襲ってくる。空気砲と壁に挟まれれば風圧で身動きが取れなくなり、直撃をくらえば深いダメージを負うことは目に見えている。それだけはなんとしても避けなければならないが、しかし。
「廃墟の中に逃げたのは間違いだった……!」
現は死に物狂いで街を駆け回り、見つけた廃墟になんとか逃げ込んだ。しかし、それは誤った選択だったと今ならわかる。
超速の巨大空気砲を生み出せる女にとって、障害物は多ければ多いほど逆に有利だった。遮蔽物が少ない場所ならばできてせいぜい吹き飛ばす程度だが、障害物と空気砲で相手を挟んでしまえばそれは捕らえたと同義だからだ。
既に虚には連絡した。だが、虚が来るまでまだ数分はかかる。
虚が来ることで事態が好転するかはわからないが、それまではなんとかして逃げなければならない。
廃墟に入る前も感じたことだが、これだけ轟音が出ても誰一人として来ない。一般人は当然としても、警察が来てもおかしくはないが、おそらくは彼女もしくは彼女の仲間が事前に人払いしたのだろう。現状、虚以外の増援は望めない。
「……くそったれ!」
ところどころ崩れかけている廊下を駆け抜ける。
黒い悪魔はついに、現の全身をその視界に捉えた。
「あっ、いたいた! まさか逃げるだけじゃないでしょ!? もっと楽しませてよ、無能くん!」
空気砲に吹き飛ばされ、疲労に侵された身体が壁に押しつけられる。巨人の拳のような圧倒的な力に耐えることができず、壁は円形状のくぼみをつくりだした。
「グッ、カハァッ!」
ギシギシと骨が軋み、口から血が溢れ出た。
空気の暴力が止むと同時に、ようやく地面に落ちることを許される。もはや立ち上がる気力すら湧かず、現はぐったりとうなだれた。小窓から差し込む光が、現の顔色をオレンジ色に染めた。
足音は徐々に大きくなり、やがて現の近くで止まった。
「え、マジでこれで終わり? つまんな……遊び道具にもならないとか、文字通り無能じゃんっ!」
女はボールのように現を蹴り飛ばす。現は床を二転三転してようやくとまった。やはり腕に力は入らず、野原を駆け回った犬のように荒く息をすることしかできなかった。
現の頭に足を置き、女は続ける。
「ったくもう、こんなゴミカスのためにあたしの王様は躍起になってんの……? まあ王様の言うことだし良いんだけど。散々逃げ回ってたけどさ、ここで諦めちゃいな。疲れたっしょ、走るのも、生きるのも。死んだら楽になるからね〜。あ、でも最期になんか言いたいことある? あるなら言ってよ、聞くだけ聞いたげるから」
女は現の言葉を待ちながらグリグリと頭を踏みつける。
現は思った。
あぁ、こんなものか、と。こんなもので僕の人生は終わるのか、と。
異能を持たない無能として産まれ、それでもなんとか今日まで生きてきた。それは単に、兄である虚のおかげだ。
時に周囲から嫌われた。時に周囲に逃げられた。時に周囲に傷つけられた。
そして、いつしか自分から周囲を嫌い、逃げ出した。
それでも現自身が人を傷つけたことは一度としてない。虚が報復をしたことはあったが、現が人を傷つけたことは決してなかった。
傷つける機会が、力がなかっただけなのだろう。
しかし現本人が人を傷つけたくなかったのもまた事実だ。
だから。
「……だ」
「ん? なんか言った?」
人嫌いの最期の言葉は他人を嫌うものではなかった。
「こんな……こんな最期は…………嫌、だ……!」
血と涙でぐしゃぐしゃになった顔で、現は言った。
「虚に……礼も……まだ、言えてない……」
こんなことを言ってもどうにもならない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「まだ、生きたい……」
何もできない無能な自分と、自分の運命を嫌わずにはいられなかった。
「……それで終わり?」
女はしゃがみ、弓を引くように腕を引いて構えた。
「じゃあね、無能!」
現に拳が放たれる。
その、わずか一瞬前。
「彼岸花!!」
美しい声が廃墟にこだまし、警戒した女が拳をとめる。
どこからともなく響いたその声と共に、戦場に一輪の彼岸花が咲いた。彼岸花はその数を爆発的に増やし、戦場を一瞬で花畑に変えた。
花畑の中に、少女が立っていた。
黒いワンピースに、赤いハイヒール。触れれば折れてしまいそうなほどに細い身体。白い肌に、ツンとした高い鼻の整った顔立ち。肩まで伸びた艶のある黒い髪。地獄で孤高に咲く彼岸花のように、その黒い髪には彼岸花の髪飾りが飾られていた。
ゆっくりと開かれたその瞳は深紅。燃え上がる炎のように輝くその瞳は必死に生にしがみつく無能な少年を映していた。
「誰よあんた!」
新たな敵を確認した女は立ち上がり腕を引く。間違いない、空気砲を少女に放つつもりだ。
現ですら苦しめられたあの空気砲を細身な彼女がくらえば、紙くずのように吹き飛ばされ、一発でリタイアすることは想像に難くない。
「っ……げ、ろ!」
必死に逃げることを促す現だが、どろりとした血が喉に絡まって上手く声が出ない。
「彼岸花」
先程のような叫びとは違う、静かに呟かれた少女の言葉に呼応するように、崩れかけの壁や床から彼岸花が咲き乱れる。しかしそれは手に取れるような一般的な大きさの彼岸花ではない。
脚よりも太い茎を持つ巨大な彼岸花が四方八方から生え、女の腕を絡めとった。
「!!」
咄嗟にもう片方の腕を引くが、もう遅い。彼岸花は両腕を捕らえ、女の全身を覆うように咲き誇る。
くいっ、と少女が指を引くと周囲に咲いていた彼岸花が現を運ぶように動き始めた。手元まで来た現を見て、少女は淡々と呟く。
「全身に擦過傷、打撲跡。骨は何本か折れている程度……額の傷は浅いですが出血量が多い。吐血……臓器にもダメージがありますね」
「お前、は……?」
少女は現の言葉を聞いて嘆息した。そんな仕草すら見惚れるほど美しく、洗練されていた。
「命の恩人をお前呼ばわりですか……。普段ならお説教ですがこんな状況ですし許して差し上げます」
そう言って少女はキッと敵の女を睨む。
「私の名前は龍爪紅(りゅうそう くれない)。異能都市管理局局員、龍爪紅です。以後、お見知り置きを」
二人の少女の目線が空でぶつかる。一人の目線は厳しく、もう一人は……
「深紅の瞳……まさか十本指のっ!?」
龍爪がつい、と指を下げると同時に拘束された女の真上の天井から大量の彼岸花が溢れ出した。
ただでさえ崩れかけていた天井はついに耐えきれず、崩落した。女を抑え込むように瓦礫が落ち、さらに瓦礫の衝撃に耐えきれず床も崩れ落ちる。
女が何かを叫ぶ。しかし声はどこにも届かない。時折瓦礫が重力に逆らうが、一人の異能では限界があった。
女の断末魔が聞こえなくなった頃には、現と少女の前に地から空まで吹き抜ける穴が空いていた。
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