彼岸花の散る頃に

@sisiwotome

第1話

死にたい。死ぬ勇気なんてないけれど。

  ・

 腹に鈍い痛みが走った。たまらず吐き出した胃液は、殴ってなお僕の内臓を圧迫し続ける青年の腕にかかる。それを見た青年は不快そうに眉をひそめた。

「おいおい……無能の汚ぁい胃液が異能者様にかかっちゃったじゃんよ。なんか言うことないの?」

 その言葉に顔をしかめ、僕は青年を睨む。そんな僕と生意気に逆らうペットの姿が重なったのか、青年は不機嫌そうに続けた。

「無能の分際でさあ……逆らっていいと思ってるわけ?」

 あまりに理不尽な問いに、僕は食道から込み上げる酸っぱい液体を押し戻して口を開く。

「さあな……いいか悪いかで言えば、別にどうでもいいんじゃないか? 確かに僕は無能だけど、お前らは文字通り低脳なわけだし」

「……舐めた口聞いてんじゃねえよ無能野郎!」

 言い切ると同時に襲いかかった鋭いつま先は僕の脇腹を突き刺し、勢いのままコンクリートに吹っ飛ばした。蹴られた僕は二転三転してからようやくとまる。

「カッ、ハッ……くそっ、たれ…………」

 挑発しなかったら蹴られなかっただろうか。いや文字通り低脳な奴らだ、何もせずとも……そう、僕が無能だというだけで攻撃していただろう。

「ハハッ、やりすぎだろおい! 死んじまったんじゃねえの?」

「いや〜まだだろ! まだ生きてる! じゃないと面白くない!」

 動かない僕の生死を確認するように青年の取り巻き2人が近づいてくる。チャラそうな金髪頭が笑いながら僕の髪を掴んで持ち上げた。

「ん〜どれどれ……お! やっぱ生きてるよまだ! ってことで、さっさとくたばれ!」

「っっ!!」

「それ! それ! それ!!」

 金髪頭が僕の顔をコンクリートに何度も何度も叩きつける。ヤブ医者の整形でも受けている気分だ。

「おいおいやりすぎだろ〜? まあもっとやるんだけど!」

 今度は坊主頭が手のひらを僕の顔の前に突き出す。するとたちまち、ちょうど人一人の顔を覆うぐらいの水球が出来上がった。

「それじゃ、頑張って〜」

 そんな軽い声と共に、僕は水球の中に顔を押し込まれる。

「ッ! ッ……ッ!」

 水球の中、つまりは水中で呼吸なんてできるわけがない。酸素を求めてもがき苦しむ僕を見て、青年たちは邪悪に顔を歪ませて笑った。

 何分か経って、僕が本当に死にそうなところになってようやく坊主は水球を解いた。

「ッハァッハァハァッッ!」

 肺が、身体が酸素を求めている。呼吸は乱れ、フルマラソン後のような疲労感が全身を襲った。苦しむ僕を無視して、青年は胸ぐらを掴んで言った。

「お前が無能なのが悪いんだよ、バァカ」

 そんな発言を聞いて僕は。

「……ハッ」

 僕は、笑ってしまった。青年達はそんな僕を見て再度不快そうに顔を歪める。一方でその顔には若干の恐怖も混じっているように見えた。

「お前らの中じゃ、僕は絶対的な弱者なんだろう」

 そんな彼らを無視して僕は続ける。

「それは僕が異能を持たない無能だからだ。まあそれはいいとしよう、実際僕はお前らの劣等種なんだ。見下すのも仕方ない。それで、だ。お前らの中では自分より弱い奴にはどんなことをしてもいいらしい。じゃあこうは思わないか?」

 青年達の背後に誰か立っていた。どこからともなく現れた人物に驚いて振り返るが、もう遅い。

「てめぇらは俺より弱ぇんだから、俺は何してもいいんだよな?」

 続きのセリフは白銀色の瞳の誰かさんが言ってくれた。

「覚悟しろよ、低能野郎供」

  ・

 十年前、赤い彗星が空を跨いだ。ある者はそれを絶望の幕開けと呼び、ある者はそれを幸福の第一歩と呼び、ある者はそれを神の涙と呼んだ。

 全人類が見た赤い彗星は、老若男女に人種問わず、人類に異能と呼ばれる特殊能力を授けた。七十億を超す人類全員が持つ異能は、誰一人として同じ人がいないようにそれぞれ異なる。また、能力の幅も発火現象や瞬間移動、千里眼など多岐にわたる。

 最初の七日間、人は新たな力に戸惑った。

 次の七日間、人は新たな力で争った。

 そして次の七日間で、人は日常を取り戻した。

 異能に寄り添う生活、否、動物が呼吸をすることが当たり前のように、異能があることに誰も疑問を持たない生活が始まった。

 しかしその中でただ一人、取り残された例外がいた。 

 彼の中身はからっぽだった。異能が眠っているはずの力が彼にはなかった。

 この世界で彼と同じ存在は一人としていないだろう。

 もはや、人類とすら数えられない彼の呼び名は無能。

奇しくもそれは、彼が常日頃己に抱いていた感情と同じだった。

  ・

青空に浮かぶ気球船は新たな化粧品ブランドが誕生したことを報告している。街を歩く人々はそれを特に気にすることもなく各々の目的地に向かって歩く。並び立つ高層ビルと都会の喧騒にひっそりと紛れるように出来た路地裏から何度か閃光が発せられ、割れるような悲鳴が聞こえたが人々はそれに気づかない。

 もしくは、気づかないふりをする。

 異能者の多いこの街で生き抜くコツは藪をつつかないことだ。出るのが蛇だったらまだマシ、それが鬼だったらと思うと目も当てられないことになる。

 よって人々は今日も争いから目を逸らして生きている。

 そんな大都会から少し外れた住宅団地の中心地に大きな四角形の無愛想な建物がある。そこには、近代的な都市のイメージとはかけ離れたデザインからは想像できないほど大勢の人が出入りする。

 建物の中、『第三大型治療室』というプレートがかけられたその大部屋の中では二十人を超える異能者が治療を受けたり、施していたりした。他人からわざわざ距離を取ったような部屋の片隅に孤衣無現(こころな うつつ)と孤衣無虚(うつろ)は腰掛けていた。

「……虚、今度包帯を巻く練習をしておいてくれ。これじゃ手当てされてるのか痛めつけられてるのかわからない」

「人にやらせといて何言ってんだ。文句あんなら自分でやれや」

「できたらやってる……痛っ……あの低脳、少しは加減しろよ…………あぁ、今日も死にたい」

 左腕に走る消毒の痛さに唇を噛む。現のその様子を見て虚は消毒綿球をゆっくりと傷口から離した。

「あいつらに見覚えあんのか?」

「さぁ」

「さぁって……流石にどっかで見たことあんだろ? 学校とか」

 虚の言葉に促され、現はゆっくりと頭の中を振り返る。

「そういえば、クラスにああいうのがいた気がする。はっきりとは覚えていないけれど。覚える価値が無い低脳野郎に割く容量はない」

「そこまで言ってやんなよ……」

 虚は苦笑いしながら弟の腕に包帯を巻いた。

 虚は現の双子の兄だ。弟、現とは違って異能者である。兄弟そっくり瓜二つのため、虚は前髪を上げ現は前髪を下げている。また現の瞳の色が黒なのに対し、虚は白銀色の目をしていた。

「にしても、なんだってそんなやつが急にふっかけてきたんだ。喧嘩に巻き込まれたわけでも、挑発したわけでもねぇんだろ?」

「あぁ。不意な戦闘って感じじゃなくて、僕だけを狙って待ち伏せてた感じだ」

「ふぅん……ぼっちで平和主義なお前が恨み買うことなんざないと思ってたんだけどなァ」

「ぼっちは余計だ」

「ハッ。ま、考えても仕方ねぇか。……うしっ、治療終了っと」

 そう言って虚は現の鼻に絆創膏を貼り、治療は終わった。

「ありがとう、虚」

「礼なんざいいっての。こんな日はさっさと帰ろうぜ」

 二人は補給所を後にして、帰路についた。

夕陽で紅く染まる帰り道を二人で歩く。

「にしても聞いたかよ、あのゲームリメイクされるらしいぜ? ありゃあのドット感が良かったんだろうによ」

「一理ある。だけどリメイクされるんならやらない手はない」

「そりゃそうだけど、なぁ?」

 趣味の話をしながら肩を並べて歩く二人は仲のいい兄弟にしか見えない。そこに異能者と無能という、圧倒的にして決定的な差があるとは誰も思わないだろう。

「……」

「どした、現」

「いや、」

 現は目を伏せて言葉を紡ぐ。

「今日襲ってきたあいつらは何度も僕のことを無能と呼んでいた。別に隠してもいないから、聞いてきた何人かには話したと思う。けど、襲われたのは初めてだ。無能がそんなに悪なのかって、ふと疑問に思っただけだ」

 世界の端から端まで探しまわっても現と同じ存在はいないだろう。

 無能だから、と現がいたぶられていても止めに入る者はいない。常に異能の研鑽が求められるこの街で人に構っている余裕はないのだ。そして、ただの人間が異能者にいたぶられればそう遠くない未来命を落とすことは目に見えている。

「自分の生死に関わることだし、深く考えるのも無理ねえよ。怖えだろうし、考えることすら嫌かもしんねえ。まあでも安心しろよ、現」

 そう言ってニッと虚は笑ってみせる。

「弟一人ぐらい兄貴が守ってやるからよ」

 根拠のない自信だ、と他者なら笑っただろう。しかし現はその根拠のない自信に何度も救われてきた。

「はっ、せいぜいよろしく頼むよ」

 故にその言葉を軽くいなし、別れを告げた。

  ・

孤衣無現は友人関係を持っていない。

 これは過剰表現ではない。本当に友人というものが一人もいない。それどころか人との関わりを持っていない。携帯電話の連絡先は家族だけだし、ここ数週間で虚以外としたまともな会話に心当たりがないほどだ。

 それは現の無能としての経験もあるが、それ以上に現の性格自体が問題だった。

 孤衣無現という人間を構成している感情の大部分は『人が嫌い』と『死にたい』だ。

 それが大量虐殺の刑に服役する囚人だろうが、ジャンヌ・ダルクを思わせる聖人だろうが、どんな人でも無条件に気持ち悪いと思ってしまうような人間が人嫌いにならないはずがない。それが現が人間関係を持たない理由で、持てない理由だ。

「まあ僕はどうだっていいんだけど」

 ……それを問題視していない面にも問題はあるだろう。

 ともかく、そんな極度の人嫌いである現は人を視界に入れることすらも嫌がる。笑い合う人々を見て、その裏のどす黒い感情を読み取ろうと躍起になってしまう。怒っている人を見れば面倒くさいと思うし、泣いている人を見れば迷惑だと思ってしまう。

 だから、虚と別れてから偶然にも誰一人として会っていないことを内心喜んでいた。急に襲われたりしたけどなんだ、今日はいい日じゃないか、と現は考えていた。

 なんと、甘い考えだろうか。

 人と会っていないのが偶然だという考えが。

 そして、今日はいい日じゃないかというあまりにも楽観的な考えが。

「……?」

 いつからいたのだろう、帰路に着いた現の目の前に一人、黒づくめの女が立っていた。

 半袖の黒ジャケットを羽織り、豊かな胸は縛るように黒い包帯で押さえつけている。下は気持ち程度の黒いミニスカートを腰に巻きつけていた。全身黒づくめの女、としか言い表せない。肌も黒めで、髪はわざわざ地毛を染め直したかのような漆黒で、短いポニーテールに結んでいた。

 女性にしては身長が高く、一七十cm近くあるだろう。何らかのスポーツをしていることを窺わせる健康的な筋肉美、引き締まったウエスト。

 黒づくめの女は現の行く手を遮るように堂々と仁王立ちしていた。現を視認すると女はニヤリと口角を上げた。

「孤衣無現、だったっけ?」

「っ!!」

 現は何も言わずに、Uターンして駆け出した。

 あの声は人を嫌悪する声だ。嫌い、憎み、厭う声だ。何故あの女があんな声を発するのかはわからない。しかし、逃げなければならないと、直感が叫んでいた。

「あぁらら、逃げちゃうんだぁ……しょーがないなぁもう。アネモネ〈開花〉」

 後ろから悪魔の声が響く。

「あたし、動かない方が楽だと思うな」

 女は弓を引くように、自身の腕を引く。

「死ぬのはさ」

 瞬間、荒れ狂う暴風が現を襲った。

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