一. 行方知れずの少女(一)
翳った月、濁った風。足元に落ちる吐息、軽薄な足音。
曖昧で定義されないものの全てが溶けて消えていくような、そんな気がしていた。不気味な感覚で、けれど妙に肌に馴染む。僅かな明かりを受けて暗がりの中にいっそう濃い色を残す影は、さながら何もかもを喰らい尽くす怪物のよう。時折、微かに聞こえてくるそれは
風で身体に纏わりつく外套を、トワは煩わしそうに払う。その視線の先には今日の依頼者たる少女の姿があった。
歳の頃は十四、五ほどだろうか。彼女はひどく怯えた様子で黒い薄布の羽織の端をぎゅっと握り込んでいる。そのままの格好では目立つだろうとトワが渡したものだ。彼女の身に着けていた衣服は華美ではないものの生地のしっかりした上物で、手入れの行き届いた黒髪には銀飾りのピン。血色の良い顔とまだあどけなさの残る表情を鑑みても、一部の悪人たちの格好の獲物であることは明らかだ。
「依頼内容を確認しておく」
彼女から反応は返ってこない。
「要求は二つ───現地点からホルロットの街境まで、可能な限りの最短距離であんたを送り届けること。そして、この依頼について一切他言しないこと。違いないな?」
一拍置いてようやく、彼女はこくんと首を動かして肯定を示した。
ホルロット、というのはストレナから見て南東に位置する街で、言うなれば娯楽都市だ。王都を含む多くの都市との交流が盛んで人の出入りが激しく、こと遊戯と芸術の分野においては第一の街だといえる。が、一方で表の繫華を少し外れればすぐにあらゆる非合法の娯楽が待ち構えている、という闇の側面も併せ持っているのがこのホルロットという街だ。
「あんたからは既に前金として充分な額を受け取ってる。貰った分の働きはするから安心してくれていい。ただ一つだけ、」
トワは虚空に向けて人差し指を立てて示す。
「私の指示には必ず従うこと。此方から提示する条件はそれだけだ。指示を無視した行動が招いた如何なる結果にも私は責任を負わない。いいな?」
また首が小刻みに揺れる。トワは「ならいい」と素っ気なく返して、それ以上余計な口を挟むことはなかった。フードを目深に被る。夜闇に紛れるその姿は、
「行こうか。ペースは合わせるつもりだが、遅れないように」
「……ええ」
逡巡したような間があって、ようやく発せられた声は弱々しく震えていた。足音はしない。俯いた彼女とトワの間に、既に踏み出した一歩分の隔たりが生じた。
「どうした。急ぐんじゃなかったのか」
「……ええ」
「早くしないと、父親が追いかけて来るかもしれないんだろう」
「……ええ」
「随分と過保護なんだな」
「……」
「あのなあ」
生気のない返事を続ける彼女に、ついに焦れたトワは
「急ぐと言ったのはあんただぞ」
「そ、そうなのですが、ここは真っ暗で、ほとんどなにも見えなくて」
トワの態度に彼女はますます小さな身体を強張らせる。
「わたし、怖ろしくて、」
「今更だな。ここまで来ておいて」
「……そう、ですね。わたしだって、わかってはいるつもりなんです」
毅然としていたい気持ちはあるのだろう、彼女はそれまで俯いていた顔をぐっと上げてトワを見つめた。が、それもトワにしてみれば喰われる寸前の小動物が最後にする抵抗にしか見えない。
「今更恐れることなど無いのに、他でもないわたし自身が決めたことなのに、おかしいですよね。どうにも思うように身体が動かなくて」
難儀なものだ。トワの口からは溜息が漏れる。
「依頼を取り下げるか? 今ならそれも難しい話じゃないが」
「っ、嫌です!」
彼女は裏返った声でトワの言葉を遮った。
それはそうだろう、とトワは思う。事の大小はあれど何の事情もなくトワを雇う人間などいない。いざという瞬間になって
「……ダメですよね。こんなことでは」
隠していた傷口に無意識に触れてしまったような、そんな反応だった。
「あの家を出るときに決めたんですもの。大人になるって。他人に言われたことしかできない、自分では何も決められない。そういう自分とはもう決別するんだって」
「で、どうしたい? 決定権はあんたにある」
トワに急かされ、少女はそれでも少し躊躇いながら、「あの」と言葉を繋いだ。依然震えたままの声には自己嫌悪にも似た色が滲んでいる。が、不思議と先刻ほどの怯えは感じられなかった。
「手を、握っていてくれませんか。この震えが止まるまでで構いませんので。そうしたらわたし、ちゃんと自分で歩きますから」
如何にも少女然とした不器用さが痛々しい。
トワは彼女から視線を外すと、ぶっきらぼうに右手を差し出した。
「好きにしろ」
「……! ありがとうございます!」
ぎこちない動作で彼女の左手が重なる。自分のそれとは違う滑らかな感触がする。多くの苦労を知らずに生きてきたのだと、それだけで分かってしまう。
彼女はたどたどしく二歩進んで、トワの横に足を揃えた。
「わたし、レイヴェルと申します。ええと、」
「
「トワ、さん。改めて宜しくお願いします」
「ああ。こちらこそ」
トワは彼女のまだ幼さが残る顔を見つめる。
「この街を抜けるまで、あんたの身の安全は保証する。それが私の仕事だからな」
その先でどうなるかは、トワの知ったことではない。
どうせ、今夜限りの付き合いなのだから。
どこの、誰が、何のために、依頼をしたのかはどうでもいいことだ。良くも悪くもそれがトワの仕事に影響を与えることはないのだから。
ゆえに依頼者への不要な詮索は美学に反するとすら言える。後に余計な揉め事を生まないため、という理由もそこには多分に含まれているが。
「わたしが何をしてもお父様はいつも決まってこう仰るんです。『シャールがお前くらいの頃はもっと優秀だった』って。あ、シャールというのはわたしの歳の離れた姉でして……」
とはいえ、向こうから話し掛けてくるならそれはそれで勝手にすればいい、というのも本音ではある。
歩き出してからもレイヴェルは暫く俯いたまま黙っていたが、目が慣れてきて視界が定まるにつれ多少は落ち着いてきたのか、それまでとは別人のような饒舌さで語り始めた。こちらが素なのかもしれないが、何とか不安を紛らわせようという意識も少なからず働いているのだろう。彼女の話はあまり輪郭が明瞭ではなく、思いついたことをただひたすら挙げ連ねているという感があった。
依頼者の中には個人的な事情を極端なまでに秘匿しようとする者も少なくないが、彼女はそれには当て嵌まらないらしい。下手に小賢しい連中よりは遥かにマシだ、とトワは思う。
聞くところ、彼女の実家はなかなかに裕福らしい。そもそも今回の依頼費にしても本来ならレイヴェルくらいの歳の小娘に容易く払えるものではない。慎ましく暮らせばそれで一月は生きられる額だ。不可能だとまでは言わないが、まさか自身で稼いだ金ではあるまい。
「そんな、大した家柄では」と否定する言葉は当人からすれば謙遜ですらないのだろうが、少なくとも彼女の所作や口調の端々から育ちの良さが滲み出ているのは確かだった。あえて嫌な表現を選ぶなら、これから上流階級、ひいては貴族の仲間入りをしようと目論む中流上位の階級の親が子供に施す英才教育、といったところか。常に他人との比較の目に晒され、親同士が水面下で繰り広げる勢力争いの駒にされる。子供の側から不満が出てくるのも分かるというものだ。
「とにかく、あの家はわたしには窮屈なのです」
「そうか」
「ええ。いつまでもあんな場所にいては、私、呼吸ができなくなってしまいそうで。ですから、ね。そうなる前にわたしはホルロットへ行くのです」
これからの生活への希望も、不安も、そのどちらも入り混じった淑やかな声色だった。トワは暫くの間、彼女の言葉に相槌だけを返していた。
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