闇夜ストレイ

逢原凪色

零. ストレナ

 比較的、穏やかな夜だった。

 誰にも見せたくない何かを包み隠すように霧が視界を覆う。音も光も溶け殺した真闇の帳の向こうでは、ヒトも獣も、およそ生と呼べるものの気配はひどく薄い。ともすれば身体ごとこの深い夜闇に流れ出て、交わって一つになってしまうのではないかと、そう思わされてしまう。

 そんな限りなく明かりの乏しい旧市街地、広範囲に渡って家屋の倒壊した通りの端に、似つかわしくない上等な衣服を身に纏った男が腰を抜かしてへたり込んでいた。

「ひいっ、」

 男は情けない悲鳴を上げる。

 知らない。

 こんなものは、知らない。知らないものほど恐ろしいものはない。

 すぐにでもここを立ち去るべきだと本能が言っている。けれどひび割れた壊れかけの塀にだらしなく預けられた身体は、無意識がいくら警鐘を鳴らしても動き出す気配すらなかった。

 なんなのだこの街は。

 あのバケモノは、いったい何だというのだ。

 脳裏に浮かび溢れるその問いに答えるものはなく、ただ無惨にも大破した馬車の残骸のみが告げている。ほんの少しでも飛び降りるのが遅れていたら、と。お前も今頃はこの瓦礫がれきの一部になっていたのだ、と。

 雇った護衛は既に影形もなく、日頃から身の回りの世話を任せている召使いの姿も見当たらない。生き埋めになったか、それとも上手く逃げ果せたのか定かではないが、いずれにせよ下民の命などはさしたる問題ではない。問題なのは今この瞬間、目の前にいるのことだ。

 男は満足に焦点の合わない瞳でただ一点を見つめる。その視線は明らかに、彼の知識の範疇にない理外の存在に向けられたものであった。

「なんだ随分な態度じゃないか。仮にも命の恩人に対して」

 男の震える視線の先に彼女は立っていた。

 信じられないものを見た、といった様相の男とは対照的に涼しげな表情をその整った面立ちに浮かべ、男を見下ろす。フードの奥から覗くその瞳は、誰が取り落としたのか幽か消えずに残った手灯の僅かな光を反射し、ともすれば見る者に恐怖を抱かせるほどにギラリと煌めいていた。その手元には刃が長くて分厚い薙刀のような武器が握られている。

 その落ち着き払った態度と熟れた所作こそが、男にとっては正気を疑うほどの非現実がここでは現実であることの何よりの証左だった。

 そうだ、この女が殺したのだ。あのを。

「で、あんた何処の馬の骨だ」

「……わ、私は王都アンベリアのイーリージェフ家が三男、ベン・イーリージェフだ」

「へぇ、王都の貴族か。道理で」

「き、貴様こそ何者なのだ!」

 問われれば、彼女はこともなげに答える。

夜衛士ナイト。この街の……そうだな、傭兵みたいなものだと思ってくれればいい」

 彼女は首を回して辺りを一瞥する。驚くべきことにそれだけの動作で彼女はおおよその状況を把握したようだった。

「舐めてるとしか思えないな。最低限の装備に多すぎる従者の数。どこぞの私兵団を護衛に雇って馬車でここまで乗り付けたはいいものの、瓦礫に阻まれて立ち往生と。本当に何も知らずに来たんだな。不憫なことだ」

「……くそ、あいつらめ。高い金を払ってやったというのに揃いも揃って」

「これに懲りたら次は雇う人間を選ぶことだ。それが嫌なら二度と此処へは近付くな。お前のような考え無しの阿呆の面倒を見るのは本来、私の仕事じゃない」

 彼女が冷ややかに言い放つと、男の表情はほとんど反射的に苦々しく歪んだ。

 自分より遥かに階級の低い人間に罵倒された、という事実に貴族階級の人間の高いプライドが耐えられなかったのだ。

 王都の差別主義社会を生きてきた男にとって、階級とは『すべて』である。強者と弱者を振り分ける絶対的な指標であり、不可侵の壁であると、少なくとも男はそう認識していた。その枠内において彼自身が強者である、という自負も多分に含んだ上で。もっとも、彼のこの認識はそう間違ったものではない。

 勿論、それは彼が大人しく王都で暮らしていればの話だが。

「ああ、言われずとも二度とこんな街へ来るものか! まったく、こんなことになるなんて思いもよらなかったんだ!」

 男はようやく起き上がったかと思えば、そう吐き捨てた。傍に落ちていた手灯を拾い上げると、まだ満足には動かない身体を引き摺るように歩き出す。

「愚かだな」

 背を向けた男に聞こえたか否か。溜息のような声で彼女は呟く。供回りの一人もいない有様で何ができるというのか。そもそもこの暗闇の中、来た道を正確に覚えているならそれだけで大したものだ。愚かさを勇敢と言い換えるなら多少は見どころのある人間なのかもしれないが。

「おい」

 その背中を彼女は呼び止めた。

「何だ、無礼な……」

 考え無しに振り向いた男に真っ先に応えたのは、言葉ではなく刃だった。

「ひっ、」

 いつの間にか背後まで接近した彼女に薙刀を首へとあてがわれ、男は咄嗟に上擦った声を漏らしながら倒れるように後方へ飛び退いた。

「悪いが、まだ報酬を貰っていない」

「報酬……?」

「当然の要求をしているだけさ。別に、恩着せがましいことを言うつもりはない。私が拾ったモノに見合うだけの対価があればいい。いま差し出せる額がそのままお前の価値だ」

「は、ちょ、ちょっと待て! 何の権利があって私に、」

 男がそれ以上の言葉を続けるより早く、ぎらついた刃の先がまた男の喉元へ向けられる。

 彼女────トワ・アンロックは一つ溜息を漏らすとそこで初めて表情を動かし、嘲るような、それでいて憐れむような冷たい笑みを浮かべて男を見下ろした。

「皆まで言わなきゃ分からないか? 『有り金全部置いてけ』って」



***


 ガシャリ、ガシャリ。耳障りな音が一つ、また一つと夜に紛れては消える。足元の瓦礫は崩れ、かたちは移ろう。踏み砕いたそれを逐一覚えてなどいないし、顧みることもない。命さえ虚ろに揺れる夜霧の中では曖昧でないものの方が稀有けうだ。

 生活はいつもどこかで見たような景色の繰り返しで、街を覆う夜の帳はまだ明けない。

 あの失礼な男は結局、トワの要求に不承不承応じると、仮にも高貴な身分の者の語彙とは思えない汚い台詞を吐きながら去っていった。どうにも悪運の強い男だったようで、トワに怯えつつも不満げに足音を荒げて立ち去る姿には、特に目立った負傷の痕は見られなかった。

 彼がその後どうなったのか、無事王都まで辿り着けたのかはトワには分からない。興味もない。明日、瓦礫に埋もれた街路の片隅で冷たくなった彼の姿を見ることになるとしても、それを後ろめたいとは、トワは思わない。何の予備知識もなく軽々しく立ち入った愚かな男の前に幸運が降って湧くのはせいぜい一度きりだ。

「……はぁ」

 一仕事終えたトワは肩口の汚れを軽く払うと、ふらふらと彷徨さまようように歩き始めた。

 息を吐く。幽かな白い靄となったそれは、見る間に夜の静寂に混じり溶けていく。トワには見慣れたこの道も、陽の当たる表の街を歩く人間の目には奇怪で悍ましいものに映るのだろう。辺りには今も錆びた鉄の匂いが充満している。

 トワはやがてある廃屋の前に辿り着き、そこで足を止めた。屋根に掲げられた壊れかけの看板にはうっすらとなにか、おそらくはかつての店の名前が書かれていたらしき跡が残っているが、もう正しく読み取ることは出来そうになかった。

 鍵の掛かっていないボロボロの扉を開くと、ぎぃぃ、と嫌な音がした。内部もひどい有様だ。客用の背もたれのない椅子と簡素なテーブル、それから食器の類とテーブルクロス。憐れな残骸たちを慣れた動作で踏み越えると、外からでは見えない位置に地下へ降りる階段が続いている。

 隠れ家の入り口だ。


 ストレナ。

 それがこの街の名前。捨て去られた街の名前。

 どこにでもある治安の悪い街の一つに過ぎなかったこの土地に、ある日、突如としてその異常は起こった。

 それは、長い長い『夜』の訪れである。

 王都の高名な学者たちの調査も虚しく原因も理屈も未だ不明のまま、けれど確かに街を覆った『夜』は今なおこの地に停滞している。

 表の街に何度朝日が昇れども、夜は明けず霧は晴れず、健全な光を拒み続ける異常地帯。そう成り果てた今のストレナという街は、九割九分の善良な市民には関わりのない、近寄るべきでない場所となっている。が、


「おかえり、トワ」

 地下へと続く階段を降りると、耳慣れた優しい声が反響した。こちらを向いて微笑む彼の姿が控えめな灯りに照らされている。

 外にいる間ずっと張り詰めていた警戒の糸が、ふっと緩むのが自分でもわかった。

「ああ、ただいま。レント」


 この街にしか居場所がない、この街でしか生きられない我々のような連中も、僅かながら確かに存在している。

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闇夜ストレイ 逢原凪色 @reruray2

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