第375話 狂人化
バッシュ公爵家本邸の地下牢。
それは、本邸から距離のある、敷地内の北の端にひっそりと立つ堅牢な建物の中に在った。
本来牢獄とは、下層に行くにつれ罰則の重い罪人が収監されているのが常だが、この建物も例に倣っている。
そして今現在、この地下牢にはオリヴァーが捕らえた『
尤も、『
「……どうしてよ……。なんで私が、こんな目に……」
石畳の床に視線を落としながら、ブツブツと呟いていたフローレンスは、のろのろと顔を上げ、魔導ランプにぼんやりと照らされた牢の中に目をやる。
物置のような広さの牢の中にあるのは、小さく固いベッドと、質素な木製の机と椅子のみ。
トイレとシャワーは続き部屋にあるが、そこもこの牢内よりも狭く薄暗い。
「こんな所……人間の住む場所じゃないわ!なんで女の私が、こんなに狭く薄汚い部屋に入れられて、罪人扱いされなくてはならないの!?」
悔し気に顔を歪め、そう吐き捨てるフローレンスだったが、普通の罪人が収監される地下牢とは違い、ベッドと机が置かれてた部分には柔らかく温かなラグが敷かれており、地下ゆえにこもりがちな空気も、十分な換気が行われている。
掃除も行き届いており、食事も三度、温かいものが提供されている。家具も質素な造りとはいえ、しっかりとした職人が作った物だ。
鉄格子さえなければ、「ここは本当に牢屋か?」と疑いたくなる程、快適に整えられているのだ。
だがつい先日まで、蝶よ花よと育てられ、見たいものしか見ていなかったフローレンスには、その事が理解出来なかった。
「例の……。重罪人の女が収監されるという修道院も、こんな感じなのかしら……。ああ、嫌!嫌だわ!!誰か……私を助けてよ……!!」
そうは口にしたものの、多分誰もここにはやって来られないだろう。そう、誰がこのバッシュ公爵領の頂点に君臨する、バッシュ公爵家に自分を救いにやって来てくれるというのだ。
だが、それでも。藁にもすがる思いで助けを口にするフローレンスの耳に、こちらへと足早に近づいて来る足音が聞こえてきた。
『だ、誰……?』
ここに入れられてから、食事が運ばれる以外で誰かが入って来た事はない。もしや、自分を修道院に連れて行こうと……!?
そう思い、逃げるように部屋の端で蹲って震えている自分に向けて、聞き慣れた声が届いた。
「フローレンス様!」
「……え?あ……なたは……!?」
鉄格子の向こうで、安堵の表情を浮かべながらこちらを見つめる男は、謹慎中である筈の騎士団長、ジャノウ・クラークだった。
いや、今は「元・騎士団長」なのだが、フローレンスはその事に気が付いてはいなかった。
「何故……ここに……?」
フローレンスは、ジャノウを睨むように見つめる。自分がこんな事になってしまう切っ掛けを作ったのは、この男だ。正直、顔も見たくない。
「ご無事でしたか!……お労しい。このような所に……すぐにお助け致します!」
だがジャノウはフローレンスの思いに気が付く事なく、施錠された錠前に手をかける。が、直後顔を顰めて手を離す。どうやら錠前には強力な防御魔法が掛けられているようだった。
「フローレンス様。その場を動かれませんように」
そう言うと、ジャノウが帯剣していた剣を鞘から抜き、剣に魔力を纏わると檻を一閃する。
すると檻は、まるで腐食したかのようにボロボロになって崩れ落ちていった。
「さあ、フローレンス様、参りましょう!」
ジャノウが手を差し伸べるが、フローレンスは動けなかった。
――逃げる……?このバッシュ公爵領のどこに……!?
例えこのまま逃げたとして、あのイーサンやオリヴァーがすぐに追手を放つだろう。
それに万が一、バッシュ公爵領から逃げられたとしても、次期宰相であるアイザック・バッシュ公爵が、その権力でもって自分を捕らえようとするに違いない。
だとすれば、捕まった時にどのような罰が追加されるのか……。下手をすれば秘密裏に始末される事もあり得る。
そんなフローレンスの葛藤に気が付いたのか、ジャノウは安心させるように、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「大丈夫、ご安心下さい。私同様、貴女様の無実を信じ、協力してくれる者達がいるのです。その証拠に、この牢を守っていた騎士達は、私がここに来た時には全員、昏倒させられておりました」
「え……!?」
フローレンスは目を見開いた。
このジャノウ・クラークは、騎士団長を拝するだけあり、とても強い。だがいくら強くても、彼一人で自分を守り切る事など出来はしないだろう。
……だが、彼に加えて協力者が多数いれば、なんとかなるかもしれない。
フローレンスの心に、希望の光が灯った。
一瞬、自分と同じように牢に入れられている母親の事が脳裏をよぎる。
けれど、二人では逃げ切れる可能性が低くなる……。そう考えたフローレンスは、敢えて母親の存在を頭の中から追いやる事に決めた。
「さあ、お早く!今頃本邸では、エレノアお嬢様のデビュタントを祝う夜会が催されており、王族が来られている事もあって、そちらに警備が集中しております。今の内に、速やかにここから脱出しましょう!」
エレノアの名を聞いた途端、フローレンスの胸に、どす黒いモノが湧き上がった。
『デビュタント……!?私が……こんな所に押し込まれ、惨めな思いをしているというのに、あの女は今、煌びやかなパーティーの中心にいるというの……!?』
しかも王族が来ているって……。ひょっとして、学友であるという第四王子までもが参加しているのだろうか?
第四王子は妖精と見まごう程に美しいと評判の方だ。その王子があの女を祝う為に、わざわざバッシュ公爵領にやって来たというの……?
『ううん、そんな筈ない!きっと次期宰相である父親の権力を使って、強引に殿下を招待したに決まっているわ!』
フローレンスの脳裏に、オリヴァーやクライヴ、そしてまだ見た事のない、麗しい王子に囲まれ、幸せそうに笑っているエレノアの姿が浮かび、こみ上げる憎しみに目の前が真っ赤に染まる。
――許せない……許せない……許せない……!絶対に……許すものか……!!
「……殺して……」
「え?」
「エレノア・バッシュ……あの女を殺して!!」
一瞬、何を言われたのか理解出来なかったジャノウは、次にフローレンスが口に出した言葉を聞き、顔面蒼白となってしまった。
「フ、フローレンス様!?」
「あの女が、私を冤罪で罪人にしたのよ!?婚約者や配下を使って、よってたかって私を貶めたの!!そんな女が幸せの絶頂にいるなんて、許せない!!お願い、クラーク団長!私の為に、あの女を殺して!!」
泣き喚きながら取り縋るフローレンスの懇願に、ジャノウは困惑する。
だが、胸の中にいるフローレンスを恐る恐るといったように抱き締めると、その表情に歓喜の色が浮かび上がった。
「……ねえ、愛する女の望みだよ。叶えてあげようと思わない……?」
突然かけられた声に、ジャノウはビクリと肩を跳ねさせ振り返る。
するとそこには、黒いローブを纏った、端正な顔立ちの少年が微笑みながら立っていたのだった。
「だ……誰だ!?」
咄嗟にフローレンスを背に庇い、一瞬の早業で剣を相手に構える。
だが剣を向けられてなお、少年は笑顔を崩す事なく、自分に向かって語りかけてくる。
「君の望みは、彼女の望みを叶える事だろう?彼女は、自分を陥れた女の死をご所望だ。それを叶えてあげないなんて、男が廃るよねぇ……?」
少年の金色の瞳が、妖しい光を放つ。
ジャノウの脳裏に危険を知らせる警報音が鳴り響いたが、何故か目を逸らす事が出来ない。
「君が騎士として終わったのも、愛しい女が罪人にされたのも、全てエレノア・バッシュ公爵令嬢……彼女の所為なんだよ……。そんな諸悪の根源を、騎士としても男としても、野放しにしてもいいのかな……?」
ワンワンと、残っていた理性が、「その声に従うな、抗え!」と警告を発する。が、それも徐々に黒い靄のようなものに覆われ聞こえなくなっていった。
――違う、お嬢様は主家の姫で、このバッシュ公爵家の騎士として守るべきお方……だが、私は騎士の任を解かれた……もはやバッシュ公爵家の騎士ではない……それはお嬢様の所為……?フローレンス様も……お嬢様が……罪人へと堕とした……?
「……え?ク、クラーク……団長……?」
ジャノウの異変に気が付き、庇われた背から距離をとったフローレンスの目の前で、ジャノウの顔つきが徐々に変わっていく。
更には全身から噴き出る魔力も、黒く禍々しいものへと変化していった。
――殺す……ころす……コロス……!エレノア・バッシュに、死の制裁を……!!
「グアァァァ!!」
「ヒッ!」
ジャノウが獣のような咆哮を上げると、その衝撃で天井や壁に亀裂が入り、ガラガタと崩れて落ちていく。
「はははっ!うん、いい仕上がりだ。アルバの男を『狂人化』させたのは初めてだけど、やはり素材が良いおかげか、思った以上に素晴らしい出来になったよ!」
「シリル様。では、私はこの男と他の者達を……」
いつの間にか、少年の傍に立っていた男に、少年は満足そうに頷いた。
「ああ、今度こそ上手くやってよ。……ふふ……。ねえ、ジャノウ・クラーク。君と同じく騎士を辞めさせられた連中、狂人化は無理だったけど、十分使える駒にしておいてあげたから。仲良く君達の生命力が燃え尽きるまで、頑張って暴れておいで」
笑いながら、高らかにそう言い放った少年は、ジャノウの豹変に腰を抜かし、震えているフローレンスへと視線を向け、優しく声をかける。
「有難う。君の持つ『欲』は、彼の『欲』の底上げに、とても貢献してくれた。お礼と言ってはなんだけど、君も我が帝国に招いてあげるよ」
「て……帝国……?」
真っ青な顔で震えるフローレンスを見つめる少年は、少しだけ失望の表情を浮かべた。
「う~ん、貴族じゃないからかな?君って、アルバの女にしては魔力量が多くなさそうだねぇ。これじゃあ王族の子は産ませられないな、残念!……まあ、でもその容姿だ。高位貴族達がこぞって欲しがるだろうから大丈夫だよ」
「ほ……欲しがる……って……?」
シリルはニッコリと微笑を浮かべた。
「勿論、
全く邪気なく言い放たれた言葉に、フローレンスの顔に絶望の色が広がった。
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元団長さん、愛する人の『欲』によって、最終形態となってしまいました。
そして養殖さんは、自分で自分の首をしっかり締めまくってしまったもよう。
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