第322話 違和感【エルモア・ゾラ視点】

バッシュ公爵家本邸に到着した馬車の中で、私は若干の冷静さを取り戻していた。


いくら許されざる暴挙に出られたとしても、相手は自分がお仕えすべき将来の主君であり、このバッシュ公爵領を統べる主家の姫。


執事が諫めてくれた通り、先ぶれだけでも出さなくてはならなかったのに、不躾にも直接乗り込んでしまった。これは臣下として、決してやってはいけない非礼だ。


――どうする?このまま引き返し、後日段取りを踏んでから出直すか……?


だが、泣き腫らしたフローレンスの顔を思い出し、かぶりを振った。


そうだ。たとえ臣下であろうとも……いや、臣下だからこそ、主君が道を踏み誤っているのであれば、それを正さずしてどうする。


それで主家の不興を買い、最悪このバッシュ公爵領から追放されようとも、それが後々のバッシュ公爵家の為になるのであれば、私が破滅しようとも本望だ。

マディナとフローレンスも、私のこの気持ちをきっと理解してくれるに違いない。


私は大きく息を吐くと、気を引き締め、タラップから下り立った。





「生憎ですが、イーサン様は所用があり、お会いになるのが遅れるとの事です。……どうか今暫くこちらでお待ち下さいませ」


そう言って通されたのは、広々とした日当たりのよい応接室だった。


そして私をそこに案内した召使の顔には見覚えがあった。以前、妻と娘と談笑していたのを何度か見かけたことがある。


『この男も、エレノアお嬢様に追従し、マディナとフローレンスを見捨てたのか……』


ついつい、目の前の召使を見る目がきつくなってしまう。

だがそんな私の視線を受け、彼は何故か戸惑うような、複雑そうな表情を浮かべた。


そういえばこの屋敷に入り、擦れ違う者達は全て、そんな表情で私を見ていたような気がする。


後ろめたさからくる同情の眼差し……とは違う。ましてや敵視されている訳でも無い。何故皆が皆、そのような目で私を見るのだろうか。


訳も分からず、落ち着かない気持ちで待つ事一時間。ようやく現れたイーサン様に、私は座っていたソファーから立ち上がると、臣下の礼をとった。


「エルモア、久し振りですね。頼んでいた件は難航していると聞きます……が、今日は何故こちらに来たのですか?」


サラリと告げられたイーサン様の言葉に、頭を垂れながら、私の胸に怒りが湧き上がった。


「……探索が一段落つきましたので。先延ばしにしておりましたお嬢様へのご挨拶に伺いました」


感情を押し殺した声は、我知らず低くなっていた。


暫くの静寂の後、小さく溜息をついた音が聞こえ、思わず顔を上げると、イーサン様がこちらを眉を顰めながらジッと見つめられていた。


ただ見つめられただけで、心の奥底を覗き込まれそうになるその瞳には、いつもの鋭さ……とは違う。別の何かが浮かんでいるような気がしたのだが、それは一瞬の事で、すぐにまたいつもの冷徹な光がその目に宿る。


「……そうですか。丁度いい。お嬢様は本日一日外出の予定でしたが、あと三十分ほどで戻られるとの事です。それまで私も少々席を外しますので、貴方はこのままここで待っていなさい」


そう告げ、イーサン様は退室された。


再び頭を下げると、ポタリ……と、床に何かが落ちる。

慌てて顔に手をあてると、いつの間にか私の顔には幾筋もの汗が伝い落ちていたのだった。


「……ッ……何故……?」


決して叱責された訳でも、怒りを向けられた訳でも無い。

なのに、この胸に去来する焦燥感と、寄る辺なき心細さは、一体どういう事なのだろうか。





◇◇◇◇





あれから更に一時間程が経過した。


再び応接室に現れたイーサン様から、更に遅れて十分ほど後。エレノアお嬢様が応接室へとやってこられた。


「お待たせいたしました。アイザック・バッシュの娘のエレノアです。ゾラ男爵様。どうぞお顔をお上げ下さい」


てっきり、甲高い嘲りか罵倒の声が浴びせられるかと覚悟していた私だったが、かけられたのは温かみを帯びた柔らかく優しい声だった。


心の中で僅かに動揺しつつ、ゆっくりと顔を上げ、初めて目にしたお嬢様は……。

極悪非道で冷酷……という私の思い描いていた人物像とはまるで違うお方だった。


年齢よりも幼く見える、小柄な体躯。波打つヘーゼルブロンド。キラキラと輝く黄褐色の瞳。薔薇色の頬と艶やかな薄桃色の唇。お母上のマリア様とよく似た面差し。


……だが、それでいて決定的に違うのは、見る者をホッと安心させるような柔らかく温かい雰囲気と、慈愛に満ち溢れた優しい笑顔だった。


その宝石のように澄んだ美しい瞳に負の感情は一切見受けられず、とてもではないが、娘への嫉妬から情け容赦なく追い出した人物とは思えない。


『何故……こんなお方が、私の妻と娘を……!?』


胸の中の激しい動揺を抑えながら、ご挨拶が遅れた事をお詫びする。


今度こそ叱責されるかと思ったが、私にかけられたのは労いの言葉だった。……一体この方は、何を考えておられるのだろうか。


「初めまして。ゾラ男爵。私はクロス伯爵の嫡男、オリヴァー・クロスです。エレノア・バッシュ公爵令嬢の筆頭婚約者を拝命しております。そしてこちらは、私とエレノアの兄である、クライヴ・オルセン。オルセン子爵の嫡男です」


「初めまして。ゾラ男爵」


次いで紹介されたご婚約者様方を目にした瞬間、私は一瞬息をするのを忘れた。


壮絶としか言いようのない美貌に気圧された訳ではない。


一瞬、彼等から私へと放たれた鋭い威圧に、まるで刃を向けられたような恐怖を感じたからだった。


この目の前の黒髪の青年。


エレノアお嬢様の筆頭婚約者であられるオリヴァー・クロス伯爵令息は、エレノアお嬢様を溺愛していると評判のお方だから、私に対して敵愾心を向けるのは分かる。


だがその少し後方に控えている銀髪の青年。クライヴ・オルセン子爵令息は、確かエレノアお嬢様に無理矢理婚約者にされ、エレノアお嬢様とは不仲だった筈。


しかも、弟君のオリヴァー様同様、文武両道なうえに清廉潔白な事で評判のお方だ。


そのような方ならば、フローレンスに対するエレノアお嬢様の仕打ちに憤りを感じ、同情を持って何かしらの行動を起こして下さってもおかしくはない。


しかもオリヴァー様と違い、クライヴ様はフローレンスと直接出会っているのだから、娘がどれ程素晴らしく、この領地を思う優しい子であるか理解されている筈だ。


なのに私に向ける視線はオリヴァー様よりも辛辣で鋭く、容赦のないものであった。


しかも時折お嬢様に向けられる視線には、愛しいものに向ける愛情に満ちた柔らかいもので……。私は今、目の前で見ている光景と今までのお嬢様に関しての認識の相違に激しく混乱してしまった。


その後、席を進められ、お嬢様と当たり障りのない会話を始める。


お嬢様は緊張している私に気を使い、ご自分から色々と会話を振って下さる。


――私の中で益々、お嬢様に対する違和感と疑念が湧き上がってくる。


『我儘』『冷酷』『美しい男性に目がない』『自領の事には無関心』


妻と娘にした非道を問いたださなくてはと心では思っていても、今まで私が聞き及んでいた噂とはまるでそぐわないそのお姿に、戸惑うしか出来ない自分がいる。


『今目の前にいるこの方は、本当に自分の私利私欲の為に妻と娘を冷遇し、追い出したのだろうか……?だが、私のマディナとフローレンスが、あのような嘘などつく筈がない』


「ではエレノアお嬢様は昨日、集積市場に行かれたのですか」


「ええ。流石はアルバ王国が誇る一大穀物産地と感心してしまう程、野菜も果物もみな、素晴らしい出来栄えでした」


楽しそうに集積市場での視察を口にするお嬢様に、その場に自分がいなかった事をお詫びした。その時だった。


「ゾラ男爵様、どうかお顔をお上げ下さいませ。バッシュ公爵領の為に働いておられ、その所為で戻られなかったのでしょう?それなのに、どうして責める事ができましょうか。それになにより、私や父の代わりにバッシュ公爵領と本邸の管理までして頂いているのですもの。本当に、有難う御座います。心から感謝しております」


お嬢様が発したその言葉に、私の中で激しい怒りが再燃した。



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ここに至る迄、何度も思い直す&引き返す事の出来るポイントがあったのですが……。

イーサンではありませんが、非常に残念ですね。

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