第319話 慈悲が尽きる時

ゾラ男爵の憤りに満ちた表情に、私は少し口ごもった後、遠慮がちに唇を開いた。


「あ、あの……。本当に、感謝しているのですよ?それに、奥様とフローレンス様の件に関しては……少々事情が……」


「ではやはり、お嬢様が追い出したという事で間違いはないのですね!?」


――いえ。追い出したのはイーサンです。


でも、イーサンの主人代行は私だし、イーサンが追い出したって事はすなわち、私の指示だと思われても仕方が無いのかもしれない。


ああ……。それにしてもやっぱりゾラ男爵、娘が追い出された事を怒っていたのか。まあ、アルバ王国において、娘を溺愛する傾向にある父親の反応としては当然なんだろうけどね。


『う~ん……。どうしたらいいのかなぁ……』


私が心の中でそう思いながら眉を下げたタイミングで、静かな声が響いた。


「追い出した……とは、聞き捨てならないな」


突然割って入った声に、私を睨み付けていたゾラ男爵の視線が外れ、発した人物の方へと顔が向けられた。


だが私の右横に控えていたオリヴァー兄様を見るなり息を呑み、固まってしまう。


それもその筈。ゾラ男爵に対し、オリヴァー兄様は虫も殺さぬ……というより、一瞬で殺しそうな程に壮絶な笑顔を向けていたからだ。

その圧たるや、顔面凶器の名に恥じぬ凄さである。というより、目が……目が、薄っすら紅くなってますがな!!


「バッシュ公爵様が重用していた……というから、どれ程の男かと思っていたが……。期待外れもいい所だね」


表情も物腰も、一見すると穏やかそのものに見えるオリヴァー兄様の、隠そうともしない侮蔑に満ちた言葉を受け、ゾラ男爵の顔に朱が散る。


「ど、どういう意味……でしょうか!?」


「言葉の通りだけど?ねえ君、なんでエレノアが細君と御息女を追い出したって思ったの?まさか、家族がそう訴えたのを真に受けて、裏付けも無しにこちらに来た……なんて言わないよね?」


「そ……っ、それは……!」


ゾラ男爵が言い淀んだのを答えと受け取ったオリヴァー兄様が、心底呆れたような表情を浮かべた。


「……そうなんだね。やれやれ。名うての大商人が聞いて呆れる」


兄様のお言葉に、ゾラ男爵の顔に更に朱が散った。握り締めた両手も屈辱からか、小刻みに震えている。


だがそんなゾラ男爵に対し、オリヴァー兄様はなおも言葉を続けた。


「問題が起こったら独自の判断に頼らず、まずは徹底的に情報収集を図り、総合的に判断を下すのは、商人の常識ではないのかな?陞爵され、驕った挙句にその鉄則を忘れたのか……それとも、愛する者の讒言ざんげんを、愚かにも盲目的に信じたのか……」


「お、お言葉ですが!妻も娘も私の誇るべき宝です!特にフローレンスは、これまでずっと私と共に、このバッシュ公爵領の為に尽くしてきてくれた心優しい自慢の娘です!讒言だの愚かだの……そのような非道なお言葉、すぐに撤回して頂きたい!!」


フローレンス様を侮辱されたと思ったのだろう。オリヴァー兄様の容赦のない言葉に対し、ゾラ男爵が思わずといったように声を荒げながら反論する。


するとオリヴァー兄様がクスリと笑った。


「……優しい自慢の娘……か。自分の信じたいものだけを信じる……。流石は主家の姫の主寝室を強請る娘の父親だけはあるな」


「……は……?」


オリヴァー兄様のお言葉に、ゾラ男爵の口から間の抜けたような声が発せられた。


その表情を見るに、言われた事が理解出来ない……といった感じだ。というか、実は私もオリヴァー兄様の仰った言葉がいまいち理解出来ないでいる。主家の姫の主寝室を強請るって、何の事なのだろうか?


その時、今まで黙って私達のやり取りを見守っていたイーサンが、おもむろに口を開いた。


「……エルモア。貴方のその自慢の娘は、バッシュ公爵家にやって来て……そうですね、貴方が出向して一ヶ月ほど経ってからでしょうか?私に向かって「主家の姫の主寝室を使わせろ」と強請ったのですよ」


イーサンの言葉に、ゾラ男爵の目が驚愕に大きく見開かれた。というか私の両目もめっちゃ見開いた。


ええっ!?私の主寝室を、フローレンス様がイーサンに!?


驚愕の事実に呆然としていた私だったが、ゾラ男爵は動揺しているものの、オリヴァー兄様とイーサンの言葉を信じ切れていないようだ。


「……ッ……あ……有り得ない……そんな……こと……!」


ゾラ男爵が呻くように、そう呟く。


……確かに、ここには私を盲目的に溺愛している面子しかいないから、私の為に嘘を言っていると思われても仕方が無いか。


イーサンは、そんなゾラ男爵の態度を見て目を細めた。


「ああ、そうそう。エルモア・ゾラ。貴方のご自慢の娘のやらかしは、これだけではありませんよ。そうですよね、クライヴ様?」


イーサンがクライヴ兄様に話を振ると、クライヴ兄様は無表情のまま肩を竦めた。


「……そうだな。アレ・・にはかなり頭にきたが……。まあ、エレノアが気にしないのなら、俺がとやかく言うべき事ではないから放置したがな」


「い、一体、何を仰っているのですか!?」


たまらず、悲鳴のような声がゾラ男爵の口から迸った。だがそれに対し、イーサンは冷ややかな眼差しを向けながら、口角を上げる。


「それを知りたいのならば、商人の基礎に立ち返り、しっかりと情報収集をする事をお勧め致します。……尤もそれをせずに、ここにやって来た時点で手遅れでしょうがね」


憤り、不安、……そして恐怖がない交ぜになった表情のゾラ男爵にそう告げると、イーサンは冷たい表情から一転、慈愛のこもった眼差しを私に向けた。


「さてお嬢様。お疲れの所、ご足労頂きまして大変申し訳ありませんでした。迎賓館にて、ご婚約者様と、高貴な方々がお待ちです。美味しいお茶とお菓子の用意もさせておりますゆえ、どうぞご婚約者様方共々、そちらへお移り下さいませ。……この者も急遽、自宅に帰らねばならない用事が出来たようですしね」


え?つ、つまり、ゾラ男爵との話し合い、これで終わり!?私、殆ど喋っていないんですけど、いいんですかね?


オリヴァー兄様をチラリと見てみると、私の視線に気が付いた兄様が、極上の笑顔を浮かべた。


「さあ、エレノア。行こうか」


そう言って私の手を取り、立ち上がらせると、そのままドアの方へと真っすぐに進んでいく。


「え?あ、あの……オリヴァー兄様?」


私、まだゾラ男爵に挨拶していないんですけど!?こ、このまま行ってしまって大丈夫なんですかね!?


思わずゾラ男爵の方へと顔を向けようとするが、そのタイミングでオリヴァー兄様と反対の方向からクライヴ兄様がやんわりと私の腰を抱くと、そのまま進むようにと無言で促す。


おかげで、ゾラ男爵の顔を見る事も出来ず、私は半強制的に応接室から退室する事となってしまったのだった。


パタン……。とドアの閉まる音と共に、いつの間にか人払いをされていた応接室にはイーサンとエルモア・ゾラ。両名のみが残る事となった。


「……エルモア。貴方には本邸の管理者だけではなく、地方領主の任も解除させて頂きます」


「――ッ!?イーサン様!?」


「主家の姫に対し、あのような態度を取った。しかも自分の思い込みで一方的に。……そのような者に、バッシュ公爵領を支える者としての資格があるとでも?」


エルモア・ゾラの身体が小刻みに震えだす。


確かに、どのような理由があれど、主家の姫に対し、末席とはいえバッシュ公爵家と縁を持った者がしていい態度ではなかった。


今更ながらに気付いた様子の彼を見ながら、イーサンは小さく溜息をついた。


「……アルバの男の性とはいえ、正直貴方がここまで盲目的になるとは思ってもみませんでした。オリヴァー様のお言葉ではありませんが、期待外れだったようです」


「イ、イーサンさま……」


「残念ですよ。エルモア・ゾラ」


冷たくそう告げると、イーサンは静かに部屋から出て行った。



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『何をしに』バッシュ公爵家本邸にやって来るのか……が、最終判断だったもよう。

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