第199話 頑張るから!

「はぁ…。はぁ…!」


荒い息を吐きながら、エレノアは今自分が持てる力全てを振り絞り、広い屋敷の中をひたすら走っていた。


部屋を出た時、ボスワース辺境伯の部下であろう男達が何人も立っていた時は心臓が止まりそうになったが、何故か彼らは自分を見ても微動だにせず、まるで彫刻の様に直立不動のままだったのだ。


つまり先程のボスワース辺境伯にしたように、パトリック兄様が何かをしたのかもしれない。


『パトリック兄様…。ボスワース辺境伯の元に置き去りにしてしまった。…しかも、私を助けに来てくれたのに…!』


彼の姿を思い出す度、ジワリと目に涙が溜まるが、その度目元を拭いながらひたすら走り続ける。


――罪悪感に押しつぶされている場合ではない。今はただ、逃げるんだ!


まだ追手が現れないという事は、兄が頑張ってくれている証であり、生存してくれている何よりの証明でもある。ここで自分が凹んでしまってどうするんだ。パトリック兄様を助け出す為にも、私が頑張るしかないんだから!


彼が作ってくれたこの機会をフイにする事こそ、命懸けで助けに来てくれた彼の厚意を無にしてしまう最低の行為なのだ…と、エレノアは自分自身に必死に言い聞かせながら、ひたすら走り続ける。


今自分が出来る最善は無事に逃げ延びて、パトリック兄様を助ける事の出来る人を連れてここに戻る事。それしかないのだから。


「ま、また階段…。ここ、一体何階建て?!」


確か2回、階段を駆け下りた筈だと、思わず窓の外を見てみると、まだ地面がかなり遠い。ビルの3階…といったところか。というか、何故階段の位置が階によって違うんだ。トリックハウスなのか!?


「はぁ…。しかもここの階段、螺旋式で降りるのめんどい…!…こうなったら…やるか!」


エレノアは手近な窓を開け、下を覗き込む。…うん、下は芝生で、生垣とか生い茂った木とかも無い。これなら…いける!


「――と、その前に…」


気が付いたとばかりに、ヒラヒラしたドレス部分を手にすると、力一杯引っ張り、破り始めた。


もし整容班やジョナネェが見ていたら、悲鳴ものの愚行であろうが、背に腹は代えられない。そして彼らはここにはいない。


「…よしっ!これで身軽になった!」


ドレス部分が無くなると、一気にパンツスタイルの騎士服風になったような気がする。そういえばジョナネェが「戦うドレス」とか何とか言っていたような…?


…ひょっとしたらこのドレス、最初からいざという時はこうしてスカート部分を破り取って、戦闘服になる仕様だったのかもしれない。だって、なんかドレス部分が妙に綺麗に破り取れたし、何故か太腿に付けたベルトに隠しナイフが装着されているし…。


ドレスを装着する際、この装備に思わず「え?姫騎士風の見えないお洒落?ってか必要か?コレ?」って思ったけど、今はただただ、ジョナネェに感謝である。無事に戻れたら、思いっきり感謝しよう。


「それっ!!」


勢いをつけ、一気に窓から飛び降りる。何回か回転し、空気抵抗を利用して落下速度を落とし、ついでに着地の際にかかる衝撃を緩和させる。…着地の体勢がよろしくなく、思わず受け身を取り、コロコロ転がってしまったのはご愛敬である。


体勢を取り直し、再び今度は芝生の上を駆ける。


『兄様は森の中に逃げろと言った。…ならばきっとそこに行けば、誰かがいるんだ…!』


いくらパトリック兄様が強くても、たった一人でここまで来るのは多勢に無勢だ。それにボスワース辺境伯のあの瞳…。グロリス邸でいきなり謎の圧力がかかったのも、ひょっとしたら彼がやったのかもしれない。


パトリック兄様が辺境伯の仲間だったとしたら、あの力の事も熟知しているに違いない。だとしたら、絶対に腕の立つ誰かを連れて来ている筈。出来れば、自分の身内か知っている人だと有難いんだけど…。


「オリヴァー兄様…」


こんな時、真っ先に思い描くのは、大切で大好きな彼の事。あの兄が、自分を救出する為にここに来ない筈がない。…うん、絶対来ている!そしてクライヴ兄様もセドリックも…。


「待っていてね、皆!私、頑張るから!」


兄達の事を思い、僅かに湧き上がった希望を胸に、もうじき森の入り口に差し掛かろうという時だった。

いきなり空気が重くなり、凄まじいまでの圧迫感が襲い掛かって、思わずグラリと身体が傾いでしまう。


「――ッ…!」


あの圧が戻った。…という事は…まさか…!?


――パトリック兄様…!!


途端、震え出した身体を叱咤し、震える足を無理矢理前へと踏み出すと、エレノアは再び必死に走り出したのだった。






「ブランシュ!!」


「お館様!!」


身体の硬直が溶けたケイレブとその部下達が、慌てて部屋の中へと入ってくる。するとそこには、死人の様な真っ白い顔色で床に倒れているパトリックを無表情に見下ろしながら、自分達の絶対君主が立っていたのだった。


「…チッ!くそっ!やはりこいつか!さっさと始末しておくべきだった!」


ケイレブが舌打ちしながら、床に倒れているパトリックを憎々し気に睨み付ける。


――交わす言葉の端々や、時たま見せる表情に僅かな違和感を感じ…警戒していた男。


いきなり身体の自由が奪われ、構築していた術式が不自然に固まった事で、『時』の魔力が使われたのだと分かった。


『時』の属性は、『魔眼』程ではないにせよ、激レアな魔力属性で、滅多に世に顕れる事が無い。


自分達のような戦闘部隊や暗殺集団など、殺戮を生業とする者達からすれば、垂涎ものの属性だ。それをまさか、この男が隠し持っていたとは…。


「…残念だよ。最初からそれが分かっていれば、ブランシュの『魔眼』を使って、深層部まで徹底的に支配し、貴重な駒として有効的に利用出来たというのに…」


そう言いながら短剣を取り出し、止めを刺そうとしたケイレブを、ブランシュが止める。


「お前が手を下す必要は無い。この男は魔力切れを起こしている…放っておいてもじきに死ぬだろう。それよりもエレノア嬢だ。すぐに…連れ戻さなくては…」


そこでケイレブは、ハッとした様子でブランシュの顔を見る。


『瞳の色が…!魔眼を連続使用し過ぎたか…!?』


紫紺の瞳が、完全に金色へと染まっている。そして瞳孔の色が紅蓮に…。しかも、今こうして話しているだけなのに、魔力が溢れ出て止まる気配すら無い。


自分や部下達には、魔力汚染が及ばぬ術式が身体に刻み込まれているお陰で影響は無いが、もしエレノアを再び捕えたとして、この状態のブランシュに接触させるのは危険だ。下手をすれば彼女の身体に悪影響を及ぼしてしまう。…いや、離れているこの状況でも、魔力の余波が彼女を痛めつけてしまうに違いない。


――…愛する者が、自分の元から逃げた事による感情の揺らぎ。それが、魔力暴走に近い症状を起こしているのか…?


「分かった!おい、お前達!今すぐエレノア嬢の元に向かえ!なるべく怪我をさせないようにしたいが…。非常事態だ!暴れて抵抗するようなら、手足の一・二本折っても構わない!いいか、一刻も早く捕まえろ!…僕も術式を組み終えたら、すぐに向かう!!」


ならば、多少手荒な真似をしても彼女を捕らえ、ブランシュを落ち着かせなくてはならない。それに、パトリック・グロリス…。周到なあの男が、たった一人でここに乗り込んで来る筈が無い。だとすれば、ネズミが何匹潜んでいるのか…。


ケイレブの言葉を受け、その場にいた者達が次々と駆け出していった。


「ブランシュ!少しの間だけでもいいから魔眼を使うな!このままでは戻れなくなるぞ!?」


『魔眼』の力は確かに強大だ。だがその力を乱用したりすれば、『魔人』の血が暴走し、知性を無くして魔物化してしまうリスクを伴うのだ。それだけは、絶対に避けなくてはならない。


ケイレブの言葉に、だがブランシュは表情を変える事無く、そのまま歩き出した。


「ブランシュ!…くそっ!一刻も早く、術式を完成させなくては…!!」


焦る心を何とか抑え、ケイレブは領地への転移門を構築すべく、再び元居た場所へと戻り、瞳を閉じた。




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エレノア、頑張って逃亡中です。

そして魔眼。当然ですが、万能ではなかったようです。

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