第十二章 ボスワース辺境伯編
第195話 貴方が…!?
人の血が…あんなに赤いものなのだと、初めて知った。
――メル父様!!
鮮血にまみれ、膝を着く父様の姿に目の前が真っ暗になった。不甲斐なく泣くだけしか出来ない自分が情けなくて辛くて…。そしたらいきなり身体が重くなって…それから…。
「………」
ぼんやりと、霞がかったような視界が晴れていくような感覚…。薄暗…。今、夜?…ん?目の前に何かが…。目と…鼻と…口…ああ、顔だ…。…え?顔…?
「あ、気が付いたっぽい。良かったぁ!…おーい?」
誰かの顔面が目の前にある!…と知って硬直したエレノアを覗き込むように、顔面が更に至近距離に迫ってくる。
「きゃああっ!!」
バッチーン!と、乾いた音が響き渡った。
「――ッ!?」
まさかいきなりビンタが来るとはおもっていなかったであろう彼(多分!)は、叩かれた頬に手を充て、唖然とした表情をしてこちらを見ている。
「あ…っ、わっ!す、すみま…」
慌てて身体を起こし、謝ろうとしてふと我に返った。…身体を起こす…って、私、寝ていたって事!?…ってか何ここ!ベッドの上じゃあないですか!?何で!?
思わず周囲を見回すと、暗かったのは平手をかましてしまった目の前の少年(だよね?)が覆い被さっていただけで、周囲はまだ明るかった事が分かる。…というか、私が今いるのは、普通に凄く豪華な部屋の中だった。そして当然と言うか、バッシュ公爵家ではない。
「…ビックリしたぁ…。女に平手喰らったのって初めての経験だよ。流石はバッシュ公爵令嬢。しかも、地味に痛い…」
「ごっ、ごめんなさい!目の前にいきなり顔があったもので、つい…!」
「あー、いーよいーよ!僕も君を連れ去っちゃったし、お互いさまってことで」
「…は…?」
ひらひらと手を振る、よく見たらめっちゃ顔の整った美少年が、サラッと発した言葉を直ぐに理解出来ず、呆けてしまう。
そんな私の顔を、美少年はマジマジと覗き込んだ。
「ふふ…。可愛い。本当、食べちゃいたくなるって、君みたいな子の事を言うのかな?ブランシュがいなかったら、僕が思いっきり可愛がってあげたんだけどね」
顔にかかっていた、サラサラな緑色の髪をかき上げ、同じく緑色の瞳を楽しそうに細めながら言い放たれた不穏な台詞とその口調に、とある光景が脳裏にフラッシュバックする。
メル父様に深々と突き立てられた短剣。それを手にしていたのは…!
「あ、貴方…!メル父様を刺した…人!?」
「そうだよ?」
思わず咄嗟に距離を取ろうとして、背中にベッドヘッドがぶつかる。
何で私、メル父様を刺した人と、こんな所にいるの!?それにこの人、確かクライヴ兄様と打ち合いしていた筈。クライヴ兄様は!?それに、オリヴァー兄様はどこ!?
「混乱しているねぇ。それに物凄い警戒感。まるで背中の毛を逆立てた子猫のようだ。可愛いね」
「可愛い」を連呼しながらベッドの上で胡坐をかき、頬杖をつきながら楽しそうにこちらの様子を伺っている少年の真意が見えない。メル父様を襲い、私をこんな見も知らぬ場所へと連れてきた意図は、一体何なのだろうか。
「少しだけ説明してあげる。僕の名はケイレブ・ミラー。さっき言った通り、僕が…というか、僕達は君を攫った。クロス魔法師団長を襲ったのは、単純にあの男が邪魔だったからさ。なにせ、この国一番の大魔導師だからね」
再び、血塗れのメル父様の姿が浮かび、怒りの感情が湧き上がってくる。
「そんな恐い顔しないでよ。大丈夫、残念なことに、あの男は死んではいないよ。尤もその所為で邪魔されて、こんな所に退避するしかなくなっちゃったんだけどね。…はぁ…。魔力阻害さえかけていなければ、一瞬で始末出来たものを…。ああ、凄い顔だね。僕が憎い?」
言葉が終わると同時に、ポンと、目の前に短剣が放られる。
「仇を取りたいんだったら、命は無理だけど、腕の一本ぐらいだったら、これで何とかなるんじゃない?君、かなり出来るしね」
エレノアは、目の前に放られた短剣をジッと見た後、キッとケイレブを睨み付けた。
「冗談は止めて下さい!!そんな事、出来るわけないじゃないですか!!」
「何で?大切な人を傷付けられたんだよ?僕の事憎くて仕方がないでしょう?復讐したいって、思わないわけ?ああ、仕返しされるのが恐い?だいじょーぶ!そんな事しないから!女の柔い攻撃なんて、どんだけ受けても大してダメージ無いし。安心しなよ!」
明らかに揶揄われている。いや、それとも本心なのだろうか?どちらにしてもまともじゃない。
「…ふざけないで!確かに私は、メル父様を傷付けた貴方が憎いし嫌いだわ!…でも、だからと言って、同じ事して気が晴れる訳無いでしょう!?」
「…そんなお奇麗事が言えるのは、本当に憎い相手がいないからだよ」
途端、先程まで笑っていたケイレブの表情が、スッと無表情へと変わる。その瞳に宿った冷たい光に、思わず背筋が凍り付いた。
「ねぇ、もし僕がクロス魔法師団長を殺していたとしても、その台詞が言える?君の大切な父親や、君を溺愛している婚約者達が目の前で嬲り殺されても?それでも復讐したいと本当に思わない?その自信はある?」
研ぎ澄まされたナイフの様な、静かだけれども鋭い口調。その瞳には侮蔑の色すら浮かんでいる。…ああ、そうか。この人には、そういう相手がいるのか…。もしくは、いたのかもしれない。
私は腹にグッと力を込めた。
「…分かり…ません。私には…そういう状況に陥った事が無いから…。でも、少なくとも貴方は、メル父様を傷付けたけど殺してはいない。だから私は貴方を傷付けようとは思わない。…いえ、心の底からボコりたい気持ちは滅茶苦茶あるし、自首はして欲しいけど…」
「――…は?自首?」
「そうです!殺人未遂に加えて未成年誘拐なんて、物凄く重罪だと思うけど、でも人を殺していないのなら、まだやり直せる…かも!?極刑にはならない…かな?」
「…ねぇ、何でそこ、疑問形?」
「ほ、法律で命が助かっても、私の身内がやらかしそうで…」
そう、特にオリヴァー兄様とかクライヴ兄様とか、アイザック父様とか…。セドリックは大丈夫…?…いやでも彼最近、オリヴァー兄様に似てきているからなぁ。
途端、ケイレブが派手に噴き出したと思うと、盛大に笑い転げる。
「あっはっははは!!そ、そうだね!君の周りにいる男達だったらやらかしそう!!ってか絶対やるでしょ!?はははっ!そ、それにしても自首って…!僕に平手かましたり、自首しろって言ったり、君って本当、規格外だよね!…うん、真面目に気に入った!君なら最高の辺境伯夫人になれそうだ!」
「は?辺境伯夫人?!」
なんだそれは?!辺境伯夫人…って、一体?
「…起きたのか」
突然、別方向から声が掛かり、ビクリと身体が跳ねてしまう。
「ああ、ブランシュ。お帰りー!ちゃんと制圧出来た?」
「私が出張るまでもない。主不在な為か、腕に覚えのある者は誰一人いなかったからな。部下達が軽く昏倒させて終わりだ」
美少年…ケイレブが「ブランシュ」と呼んだ相手は…。セドリックの誕生日の時に会った、ボスワース辺境伯様だった。
え?何故?どうして、母様の恋人である筈のこの人が、メル父様を刺した人と一緒にいるの?
戸惑いながら見つめていた私の視線に気が付いたボスワース辺境伯様は、あの時と同じような、優しい目を私に向けた。
「なるべく…女性には負担の無いように調整した筈だったのだが、上手くいかなかったようだ。苦しい思いをさせてしまって、済まなかった」
そう言って、私の頬に触れようと伸ばされた手を反射的に避ける様に、身を竦ませる。そんな私を見ていた彼の表情は、それでも穏やかで嬉しそうだった。
というか、ケイレブと親しげに話をしているという事は…まさか。
「…ッ…あ…貴方も…この人と仲間…なんですか?!」
「仲間…。ああ、そうだな。大切な腹心だ」
「腹心…って…。じゃあ、貴方が彼にメル父様を攻撃させて、私を攫えと命じたのですか!?一体何故!?」
「そりゃあ、君をブランシュの嫁にする為さ」
ボスワース辺境伯様ではなく、ケイレブが爆弾発言をぶちかました。…嫁…?い、今…嫁…って言ったよね、この人。
何ですか!?その冗談!そもそも辺境伯様は、私の母様の恋人でしょう!?
「…そんな…冗談…」
「冗談ではない。エレノア・バッシュ公爵令嬢。君には私の妻になってもらいたい」
震えながら何とか発した言葉は、ボスワース辺境伯によって無情にも否定された。
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所変わってエレノアです。
しっかりエレノアはエレノアなりに頑張っております!…が、衝撃の真実の数々に動揺中です。
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