第52話 思いがけない邂逅

「アシュル王太子殿下」


マテオの口から出た名前に「誰だろう、この人」と男性を凝視していたエレノアは、慌てて最上の相手に対して行うカーテシーをする。


…最も、今自分が着用しているのは体操着である。なので、緩いスパッツに、お飾り程度に付けられていた短いスカートをチマッと摘まむ、かなり情けないカーテシーとなってしまったが。


それにしてもこの眼鏡、美形であれば女性以外、誰でもかれでも顔がボケてしまうので、緊張したり鼻血を出したりしない代わりに、人の顏が覚えられないという欠点があるのが難点だ。もしマテオがいなかったら相手が名乗る迄、ボーッと凝視し続けるという、王族に対して有り得ない不敬をしでかしてしまう所だった。


「ああ、固くならずとも良い。ここは身分の貴賤なしと中立を謳う王立学院なのだから。それに便宜上王太子と言われているだけで、僕はただの第一王子だよ」


そう言われましても…。いくら中立がモットーの王立学院でも、いきなりロイヤルファミリーに砕けた態度なんて取れないよ!…あ、私、リアムに砕けた態度取ってたな。


「それにしても、こんな所でバッシュ公爵令嬢に会えるとは、思ってもいなかった。…いい機会だ。バッシュ公爵令嬢、少し僕と話しをして頂けないだろうか?」


「は?え?い、いえっ!あのっ、私、せ、先生から頼まれた用事が…」


「おい、鍵を貸せ」


「へ?」


「マロウ先生の部屋の鍵だよ。私がお前の代わりに魔石を届けるから、お前はアシュル殿下のお話を聞いとけ。いいか、くれぐれも無礼を働くなよ!?」


そう言うと、マテオは私から鍵を奪う様に受け取ると、アシュル殿下に一礼した後、その場から立ち去って行ってしまった。


その後姿を呆然と見つめていた私に、アシュル殿下が声をかける。


「バッシュ公爵令嬢」


「はいっ!?」


「立ち話もなんだから、あちらにあるベンチに行こうか」


「え?は、はぁ…」


見れば、今私達の居る回廊の横は、小ぢんまりとした中庭風になっていて、手入れされた花壇と、多分それを眺められる様に設置されたのだろうベンチが置かれていた。

戸惑う私に、アシュル殿下は安心させるように優しく笑いかけると、私の背中に手を当て、そっとベンチの方へと促す。


その流れるような動作はとてもスマートで、ともすれば強引に思えるような行動なのに、ちっとも不快な気分にならない。流石はロイヤルファミリーと、心の中でサムズアップしてしまった。


そうして私達は、気持ちの良い青空の下、共にベンチに腰掛けた。しかし、私に話しって何?何を話すつもりなんだろう。弟と仲良くしてくれて有難う?あんまり気安くしないでね?それとも、お茶会の席での演技の事をからかわれる…とか?う~ん、それはちょっと嫌だなぁ…。


「…あの、リアムの誕生会での事ですが…」


――ビンゴ―!お茶会の事だったー!!


「すっ、済みませんでした!!」


突然の私の謝罪に、アシュル殿下がビックリした様子で私の方を振り向く。私はここぞとばかりにペコペコと頭を下げながら謝罪した。


「あのっ!わ、悪気はなかったんです!ご覧になっていた殿下方が御不快になるような演技をしてしまって、本当に申し訳ありません!」


だって、もう二度と会う事は無いと思っていたから、全力で痛い演技してしまったんだよ。あの時はさぞかし、目にも耳にも不快だった事だろう。


「い…いや…あの…。謝るのはこっちの方で…」


なんか、呆気にとられた様子で私を見つめているアシュル殿下に、私は「え?」と首を傾げた。


「謝る?何をですか?」


不思議そうにそう尋ねると、今度こそアシュル殿下は絶句してしまった。


「…僕は…貴女を衆人観衆の元、侮辱したのですよ?」


侮辱?それってひょっとして、あのお菓子の件かな?


「男性が女性に対して、あのような事を…。まして、僕は王族です。その王族が直々に、ご令嬢に対して、あのように侮辱以外のなにものでもない行為を行うなど、許される事ではありません」


そう言うと、アシュル殿下はベンチから立ち上がり、私の目の前で片膝を地面に着き、深々と頭を下げた。


「お詫びして済むような事ではありませんが、どうしても一度、直接貴女に会って謝罪をしたかった。本当に…貴女には、申し訳ない事をしました」


「……あ…」


――…何か言わなくては…!


だが私はこの想定外の出来事に、不甲斐なく固まってしまって、声も出せない状態だった。


だって…だって!ロイヤルファミリーが…!王子様が、私の目の前で膝ついて頭下げてるんだよ!?この異常事態を私にどうしろって言うんだー!!?


「ア、アシュル…殿下!私なんかにそのように膝をつくなど、やめて下さい!服も汚れてしまいます!」


何とかそう声を振り絞って声をかけるが、アシュル殿下は伏せた顔を上げない。ひょっとして、私が謝罪を受けるまで、顔を上げないつもりなのかな?


でもそれって、どちらかと言えば悪いのはこちらの方なんだから、許しますも何もないでしょう?!しかもここ、学院内だよ!?誰かが来てこの光景を見たら、間違いなく卒倒しちゃうよ!王子様が、こんな悪評高い女に対して頭下げてんだよ?!一体全体、また何やらかしたんだって思っちゃうでしょ!またいらん悪評が立ちかねないし、兄様達にだって絶対怒られる。


ええい!こうなったら!


「アシュル殿下!ベンチに座って下さい!そうしないと私、貴方のした事、絶対許しませんからね!」


途端、アシュル殿下が顔を上げた。そしてなんか、私の方を凝視している。あ、また俯いた。え?肩が震えている。お…怒った…のかな?


「そ…それは困るな…。それじゃあ、貴女の指示に従うとしますか…」


再び顔を上げたアシュル殿下は、怒ってはおらず…笑ってました。


まあ、そうだよね。我ながら、バカ言っているなと思いますよ。っていうかさっきの言葉、思いっきり脅しだったよね。本当、私って不敬の塊なんじゃないかな…。誰かに聞かれていたら、こっそり始末されてしまうんじゃないかな。


再び私の横に腰を降ろしたアシュル殿下に、私は躊躇いがちに声をかけた。


「あの…。本当に、気にしないで下さい。私自身は侮辱だなんてちっとも思っていませんから。寧ろアシュル殿下は、クライヴ兄様の為に怒ってくれました。…王族なのに偉ぶらないで、ちゃんと友達を守ろうとしてくれるなんて、クライヴ兄様には、こんなに優しい友人がいるんだって、私、凄く嬉しかったんですよ?」


「…それは…買いかぶりですよ。僕はそんなに、優しい人間なんかじゃない」


アシュル殿下は私から視線を逸らし、少しだけ俯く。表情は全く分からないけど、声色から本気でそう言っているのが分かった。、


「優しい人は、自分の事を優しいなんて言いません。それに殿下ご自身が否定しても、私は殿下の事、優しい人だって思ってます」


のろのろと、緩慢にアシュル殿下が顔を上げ私を見つめた。


「…先程、貴女を見つけた時、貴女は僕がした事をネタにされ、ご令嬢方に揶揄されていました。多分ああいった事は、これから何度でも起こるでしょう。貴女を直接知らない男達の中にも…。王族に袖にされた女だと、貴女を忌避する者が出る筈だ。なのに貴女は、それでも僕を責めないんですか?」


「う~ん…。そりゃあ、嫌味言われるのは正直うんざりしますけど、多分殿下の事が無くても、何かしら嫌がらせされてましたよ。なんせ私、元々評判悪かったですから。それに、他の殿方に敬遠されたって、どうって事ないです。私には既に、私なんかには勿体ないぐらい素敵な婚約者達がいますからね!」


「――…ッ…!」


言葉を詰まらせたアシュル殿下。あんな事を、ずっと気に病んで下さっていたのか。


目の前の優しい人に対し、私は安心させるように精一杯の笑顔を浮かべた。





――僕に対し、ニコニコと笑っているエレノア嬢を見て、僕は言葉を発する事が出来なかった。


僕が優しい…?馬鹿馬鹿しい。優しくなどあるものか。君は何も知らないから、そんな事が言えるんだ。


僕は王族の直系として…そして長男として、次代に繋げる子を成すに相応しい女性を探し続けて来た。


そうして理想の女性にいつまで経っても廻り会えない虚しさや苛立ちを募らせ、あのお茶会で目にした君に、その苛立ちをぶつけたんだ。その結果、君がどうなるかを知った上で。しかも、そうなって当然だとさえ思っていた。


それなのに、君は僕の大切な弟を守ってくれた。


君が、僕の思っていたような我儘なご令嬢ではないと知って…。直接会って謝りたいと、何度も手紙を出した。


でも当然の事ながら、オリヴァーを筆頭に、バッシュ公爵家は僕のやった事をたてにして、王家がエレノア嬢と接触する事を一切認めなかった。

でもそれは当然の事だ。それにエレノア嬢本人も、僕の事を恨んでいると、そう思っていたから…。王家の力で強引に事を進められなかった。


それでも僕の失態のせいで、エレノア嬢と会う事も叶わないリアムが可哀想で、母を利用してエレノア嬢を強引に王立学院へと引っ張り出した。当然、クライヴとオリヴァーには酷く恨まれたし、エレノア嬢にも今まで以上に嫌われただろう。


リアムは毎日、君の事を楽しそうに僕達に話して聞かせてくれる。


その規格外なご令嬢っぷりが新鮮で、楽しくて、いつしかエレノア嬢の話しを聞くのが、毎日の楽しみになっていった。


でも、それと比例するように、僕のエレノア嬢に対する罪悪感は日増しに強く、大きくなっていく。


人の真意を見抜く事こそ、王家に生まれた者の義務だというのに。何で僕はあの時、上っ面だけの彼女を見て、それが彼女なのだと安易に信じてしまったのだろう。


いっそ、時を遡らせる事が出来たらと、何度そう思ったかしれない。でも、どんなに魔力に長けた者でも、時間を遡らせる事など出来はしないのだ。


ならばと意を決し、僕は罵倒されるのを覚悟で、王立学院へとやって来た。

そして偶然を装い、彼女とこうして話す事が出来た…のだが、驚くべき事に、彼女は僕の事を恨んでも嫌ってもいなかった。


彼女を王立学院に通わせる事に成功した時、クライヴから彼女が話したという台詞を聞いてはいたが…。まさか本当に、あの時の事を何とも思っていなかったなんて。


でも、エレノア嬢らしいなと妙に納得してしまい、思わず苦笑が漏れた。


ソバカスの浮かんだ顔に、瞳が全く見えない程分厚い眼鏡。くすんだ色の髪。奇天烈な髪形。お世辞にも美しいとは言えない容姿。


なのに、僕の目はおかしくなってしまったのかな?何故だかそんな彼女が、とても可愛らしく思えてくるのだから。


その、ホッとするような温かい言葉を、声を、もっと傍で聞いていたくなってしまう。


「…果報者だな」


ポツリと漏らした僕の言葉に、エレノア嬢は大きく頷いた。


「はい!本当に私は果報者だと思います!」


あ、誤解している。

どうも彼女は自己評価が低い。というか、非常に客観的に自分を見ている。そんな所も非常に好ましい所ではあるが。


「いや、そうじゃなくてね」


「はい?」


「クライヴやオリヴァー達の事を言ったんだけど…」


「ええ、ですから私は果報者だと…」


「違う!君は…!」


思わず声を荒げ、エレノア嬢の手を両手で強く握った。


「君はもっと、自分に対して自信を持つべきだ!」


「へ?ア、アシュル殿下…?」


きょとんとした顔が、薄っすらと赤く染まっていく。ああ、やっぱり可愛い。成程、オリヴァーやクライヴが彼女に夢中になる訳だ。なんか…今凄く、彼らが妬ましくて仕方がない。やっぱり僕は、ちょっとおかしくなってしまったのかな?




『…え~と…?』


物凄く真剣なアシュル殿下の様子に、二の句が告げず、私達はただ黙って見つめ合う格好になってしまった。至近距離から見つめられ、思わず顔が赤くなる。もしこれで顔が見えてたら、間違いなく鼻血を噴いていただろう。


『…あれ?』


何かいきなり貧血になった時のようにクラリと眩暈がして、慌てて目を瞬かせる。


そういえば、ちょっと前からなんか身体に違和感があったのだが、なにやら下半身…特に腰からお腹にかけて、重怠くなってきた。ひょっとして、極度の緊張が原因の体調不良だろうか。


「エレノア嬢?」


アシュル殿下がそんな私の様子に気が付き、心配そうに私の様子を伺ってくる。――と、何故か突然、霧が晴れていくように、ぼやけていたアシュル殿下の顏がクリアになった。


「――ッ!!」


アクアマリンのように、どこまでも透明な水色の瞳。緩くウェーブのかかった黄金色の髪。整いまくった、優美極まる甘やかな美貌は、心配そうな表情を浮かべ、私を至近距離から見つめている。


――な…何という、顔面破壊力…!!


「え?うわぁっ!ど、どうしたんだエレノア嬢!?」


久々に見る、兄様達ばりの美貌にやられ、私の鼻腔内血管は脆くも崩壊した。


「ふ、ふみまひぇん!おみぐるひぃさまを…」


顔を真っ赤にし、慌てて鼻を両手で押さえて立ち上がった拍子に、再び先程よりも酷い眩暈が襲って来た。


「エレノア嬢!」


フラリと傾いだ身体を、アシュル殿下が支えてくれる。お礼を言おうとしたその瞬間、腹部に強烈な痛みを感じ、足に力が入らなくなった。


「エレノア嬢!一体どうしたんだ?!どこか身体の調子が…」


そこまで言って、突然口をつぐんだアシュル殿下は、ぐったりとした私をそっとベンチに横にさせると、急いで自分の上着を脱ぎ、私の身体を包んで横抱きにした。


「アシュル殿下!!」


「エレノアお嬢様!!」


突然、フードを被った複数の男性達が、私達の前に現れる。


『え!?誰!?』


って言うか、一体全体どこから湧いて出たのだこの人達?!


頭痛と腹痛が酷くなって、まともに声が出せずにいる私に駆け寄ろうとする一群と、その動きをけん制しようとする一群とが、互いに睨み合う。よく見れば、フードの男性陣の服装は、所々が微妙に違っていた。


「お前達、やめろ!彼らを止めるな!」


アシュル殿下の言葉に、フードの男達全員の動きが止まった。


「事情が変わった。…そこの者達。急ぎ、オリヴァーとクライヴを連れて来てくれ。それまで彼女は僕が見ている。…大丈夫だ。王家と僕の名に誓って、彼女には何もしない」


私に駆け寄ろうとしたフードの男達は逡巡した後、一瞬で姿を消した。なんてこった!まさか彼らは忍者だったのか!?


「エレノア嬢。もう暫くの辛抱だ。…大丈夫、何も恐い事は無いから…」


――…イケメンは声もイケボだ…。


そんなしょうもない事を思いながら、私はアシュル殿下の腕の中で意識を失ったのだった。

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