第35話 温泉大作戦
クロス子爵邸には、貴族の館にしては珍しく、大浴場が備え付けられている。
しかもその大浴場、ただのお風呂などではなく天然かけ流しの温泉を使用していて、24時間入り放題という、まさに夢のお風呂なのである。
元日本人の私にしてみれば、まさに天国と言っても過言ではない、魅惑のお風呂だ。なんせ、温泉が全国津々浦々に存在しているとは言っても、一般人は温泉旅館に行かなければ温泉なんて中々入れないのだから。
それが自宅に居ながら、24時間入りたい放題ですよ!?…いや、自宅というには温泉旅館並みに豪華なお屋敷なんだけどさ。
ともかく、公共浴場でもないのに泳げる程広い大浴場があるのって、本当に最高!
オリヴァー兄様に聞いた所、このお風呂になったのって、グラント父様のごり押しが切っ掛けだったのだそうだ。
以前はちゃんと、自分の部屋についているお風呂を各自使用していたらしいのだが、全国各地を飛び回っていた冒険者のグラント父様は、当然というか、色々な土地に自然に湧いている温泉や、温泉を引いている宿泊施設などをちょくちょく利用していた。なのでどうやら、自分の家(メル父様の家)にもあったらいいなと、メル父様に温泉を引いた大浴場を造らないかと提案したのだそうだ。
普通だったら「有り得ねーよ、バカ!」で終わる所だけど、そこはメル父様。「へぇ~、面白そうだね!」と、ノリノリで館に大浴場を造ってしまったのだそうだ。しかも、源泉かけ流しの大自然風岩風呂式で。(温泉はグラント父様が『水』の魔力を使って、敷地内に温泉掘り当てました)
私、あの二人のこういうノリって、本当に大好きだ。だってそのお陰で、こんな中世風の世界で岩風呂温泉に入れるのだから。
そういう訳で、私はこの屋敷に来てから毎日温泉を満喫していた。
多い時には一日数回入ったし、なんと言っても訓練後のひとっ風呂は最高なんてもんじゃない快適さだ。
そんな温泉パラダイスな日々だったが、私には一つだけ不満があった。
それは、一人でお風呂を満喫出来ないって事。必ずジョゼフがお風呂に一緒についてきて、あれこれ世話を焼いてくれるのだ。
まあねぇ。初っ端に「泳ぐの楽しみ!」なんて言ってしまったが為に、一人風呂を禁止されてしまった私が悪いのは分かってるよ。だけどこんだけ広ければ、はしゃぎたくもなる!広いお風呂は泳ぐ為にあるんじゃないのか!?(違います)
我慢出来ず、父様に「温泉一人で入りたい」と強請ったんだけど、父様…私の願いを叶えようとして即行、ジョゼフに駄目出し喰らって撃沈していましたよ。
「じ、じゃあ、僕が監視役としてエレノアと一緒に入るから。それなら良いだろ?」
良い事思いついたとばかりに、父様がそう提案したのだが。
「駄目です。二人揃ってはしゃがれた結果、逆上せてお湯に浮かんでいる未来しか想像出来ません!」
と、身も蓋もなく却下されて終わり。おのれジョゼフ!お前は私達のオカンか!?
「じゃあ、僕達が一緒に入ってあげようか?」
そうオリヴァー兄様に提案され、ジョゼフも「それでしたら…」と納得したのだが、それは私が丁寧にお断りしました。(というか、納得するなよジョゼフ!)
だってさ、兄様達とお風呂って、一体どんな拷問ですか?
顔面破壊力の目潰し攻撃だけでも、鼻血噴くレベルなのに…ふ…風呂に入るって事は…つまりその…お互いマッパって事で…(いや、女性は混浴用のムームーみたいな服着るみたいだけど)兄様達の凄い裸体を目になんてしたら、一瞬で目は潰れ、鼻血どころか心臓が止まって憤死する事請け合いですよ。逆上せなくても、湯に私の死体が浮かぶ事になります。ええ、断言できますとも!
で、結局ジョゼフの介助を受けながら温泉ライフを送っている訳なのだが、ここでの滞在もあと少し。出来れば一回でもいいから、一人で温泉に入りたい。そして泳ぎたい。
私は必死に考え、作戦を練った。その名も『温泉大作戦』
なんか、二時間サスペンスにそんなシリーズがあった気がするのだが(しかも母と共に大好きでよく見ていた)ともかく、その作戦を私は本日、協力者と共に決行する事にしたのだった。
時刻は午後の1時。
「…クライヴ兄様。お風呂のお掃除、終わったみたいですね」
「ああ、そうだな」
大浴場から死角になる位置から、私は協力者であるクライヴ兄様と共に、清掃係の使用人達が大浴場から出ていくのを確認していた。
「…なあ。お前、本当に入るの?」
「はい!ここ数日確認したのですが、お掃除が終わって2時間程は、ほぼ誰も入浴に来ないという事が判明しました。だから今がチャンスなんです!」
そう、この時間、メル父様やオリヴァー兄様は、お昼休憩としてのんびりしているか、執務を開始したりするかしているし、騎士達やクライヴ兄様、グラント父様なんかは、午後の訓練を開始している。他の使用人達は基本、入浴するのは家長や私達が就寝してからと決まっているし…。つまりはこの時間が一番、誰も入浴に来ない穴場時間なのだ。
なので、この時間に一人で入浴する事を決意した訳なのだが、問題はジョゼフである。
なので私はクライヴ兄様に協力を仰ぎ、朝食の席でさり気なく、ジョゼフを訓練に参加させてくれるようにお願いしたのだった。
実はジョゼフ、若い頃は私の父様の父様…つまりはお祖父様だが、その警護役をしていた事があり、その腕っぷしは並みの騎士が数人束でかかって来ても、軽く瞬殺してしまう程だったそうなのだ。
今でも密かに、一通りの訓練は続けているってウィルから聞いていたから、クライヴ兄様にそこを突いてもらったんだよね。
「ジョゼフ。お前も一度、騎士達の訓練に参加してみないか?たまには全く別の癖を持つ奴に揉まれた方が、あいつらも勉強になるだろうからな」
「いえ、私ごとき老体が、そのような所でお目汚しの技を披露する訳には…」
「えっ!?ジョゼフ、剣使えるの!?しかも凄く強かったんだ!カッコいい!」
私に対して激甘な父をフォローするように、締めるところは締め、時には厳しく私に接するジョゼフだが、なんだかんだ言って最終的には私に甘い。
なので、溺愛する孫娘的位置付けの私に尊敬の眼差しを向けられ、ジョゼフはあっさり訓練に参加することを決めた。フッ…。ちょろいな、ジョゼフ。
ちなみにクライヴ兄様には、何でも言うこと一つ聞く事を交換条件に、私がお風呂に入っている間、ジョゼフや他の騎士達、ついでにグラント父様を監視して貰う事になっているのだ。
「お前のその、温泉に対する情熱って一体何なんだ?」
そんなもん、魂に刻み込まれた温泉愛に決まっている。…が、この呆れ顔の兄を更に呆れさせるのもなんなので、黙っておく事にした。
「じゃあクライヴ兄様、よろしくお願いいたします!」
タオルと着替えの詰まった袋を手に、そのままウキウキとお風呂に突撃しそうな私に対し、残念な子を見るような眼差しを向けながら、クライヴ兄様は溜息を一つついた。
「はぁ…ったく。いいか、逆上せる前に上がるんだぞ?それと、報酬忘れんなよ」
「はーい!」
そうして期待を胸に、私は一人で大浴場への潜入を果たしたのであった。
◇◇◇◇
「はぁ…。やっぱ、温泉サイコー!」
たっぷりのお湯にゆったりと浸かりながら、溜息交じりにそう呟く。当然、今の私はマッパだ。一人だって分かっているのに、服着て風呂になんて入ってられるか!
「少し熱めのお湯ってのが、また良いんだよね。効能も筋肉疲労と外傷だから、騎士達の湯治も出来て、まさにうってつけだわ!」
そう、メル父様は自領の騎士達がこの大浴場を使用する事を許可しているので、騎士達は訓練の後、この温泉に入ってひと汗流す事が日課となっているのだ。
そういえば以前、その時間にのこのこお風呂に入りにやって来て、脱衣所のほぼ全裸状態の騎士達とバッチリ遭遇してしまった時は、互いに阿鼻叫喚になってしまって大変だったなぁ…。
え?お前、鼻血噴いたろって?はい。そりゃもう盛大に噴かせて頂きましたとも。
「…さて。それでは本日のメインイベントに移ろうかな…」
目標はあちらの端にある岩場までだ。そう気合を入れて、平泳ぎの体勢に入ったその時だった。
「ああ、昼間のお風呂も久し振りだね。前はよく、一緒に入っていたから」
「はい。ここで色々な事をよく教えて頂きました」
私は平泳ぎの体勢のまま、固まった。…この声…まさか…!?
「それにしても、オリヴァー兄上。何でここに移動したのですか?」
「ここならお互い、腹を割って話し合えるだろう?それに、家族間の重要な話は
――クロス子爵家ー!!貴族のくせして、何で重要な話し合いが風呂場で行われるんだよ!?どう考えたっておかしいし、フリーダム過ぎだろ!!
「そ、そうじゃなくて、文句言ってる場合じゃない。ヤバイ。どうしよう!」
私は水音がこちらに近付いてくるのを感じ、「こっち来んな!」と祈りつつ、気配を殺して岩場の陰で息を潜めていた。
幸いにも…というか不幸にも、オリヴァー兄様とセドリックは、私のいる場所からさほど離れていない場所に落ち着いたようだ。
『ど、どうしよう…!』
既に十分お湯に浸かり、後はひと泳ぎしたら上がろうと思っていたのに、この状態では身動き一つ出来ないではないか。
クライヴ兄様より劣るとは言っても、二人ともしっかり鍛えている。きっと、僅かな水音一つでも、誰かが近くにいる事を察してしまうだろう。
これがセドリックだけだったら「ごめん!上がるまで目をつぶってて!」と言って、急いでお風呂から出ていけば済むのだが、不味い事に、ここにはオリヴァー兄様もいる。
私が一人で入浴していた事を知ったが最後、にっこり笑顔で「あれ?エレノア。なんでここにいるのかな?…しかも一人で」と言われた挙句、そのままお説教コースまっしぐらとなるだろう。
しかもその事をジョゼフにしっかりチクられ、ダブルでのお説教になるに決まっている。ついでに私に協力したと、クライヴ兄様にもお叱りが行ってしまうだろう。温泉大作戦はこれ以上ない大失敗に終わってしまうのだ。
いや…それはいい。それはいいのだ。(本当は良くないけど)問題なのは…互いにマッパでご対面という、とんでもシチュエーションだ!
オリヴァー兄様は全く動じないと思うけど、セドリックは真っ赤になるだろうな…。美少年が盛大に照れているシーンなんて、垂涎ものだろうけど…って、そうじゃない!オリヴァー兄様の裸体を見てしまう事が問題なのだ!
以前、兄様が15歳だった頃。一緒にお風呂に入った時だって、私は鼻血を盛大に噴いてしまっていたんだぞ?しかも上半身見ただけで!
既に青年期に入った兄様の、大人の色気満載なわがままボディを目にしてみろ!鼻血どころか、脳の血管ブチ切れるから!
しかもここのお湯は無色透明。つまりはバッチリ、互いの裸体が拝めてしまうんだよ。あああ…。せめて…せめて、濁り湯だったら!
とにかく、今は大人しく兄様達の話しが終わるのを待つしかない。兄様達だって、熱くなったら上がるだろ。…問題は、それまで私が保つかどうかだが。だって私、もう既に逆上せ気味だし…。
――いや、私は耐えてみせる!
死亡原因が兄の裸体を見た事による脳出血なんて、洒落にもならない。一生語り継がれる程の大恥だ。バッシュ侯爵家の名誉の為にも、それだけは絶対に避けなくてはならない!
「それでセドリック、話と言うのは?」
「…兄上。エレノアの筆頭婚約者である貴方にお願いがあります。僕を…エレノアの婚約者と認めて頂けないでしょうか」
――は!?セドリック、あんた今、なんて言った…?
うっかり声が出そうになって、慌てて口を手で覆う。
「セドリック。お前はエレノアの婚約者に加わりたいと、そう願うんだね?」
――そ、そう。婚約者だよ!え?私と婚約…?ど、どうしたセドリック!?いきなり何でそんな事を?!
「はい。僕は…まだまだ力不足で、兄上達の足元にも及ばない程の未熟者です。エレノアの婚約者として相応しいとは到底言えないでしょう。ですが、僕はエレノアの事が好きです。出来れば傍でずっと、友達としてではなく…愛する者として、エレノアを守っていきたい!」
ずっと一線を引いていた兄に対して、臆する事無く言い切ったセドリック。表情は分からない。でもその口調には迷いも卑屈さも無く、ただ真剣な響きだけがあった。
――セドリックが…私の事を…好き?
ただでさえ逆上せて真っ赤になっていた顔が、更に熱くなっていく。一体全体、何が彼の琴線に触れたのか分からないが、その一途な想いが声越しに伝わって来て、胸がドキドキする。頭もボーっとしてきて…あれ…?
「…ふふ。セドリックがエレノアの事を好きな事は前から気が付いていたけど、僕に直接申し入れて来るとは思わなかった。…変わったね、セドリック。いや、
「兄上…」
「いいだろう。僕はお前の事を、婚約者候補として認めよう。「候補」なのは…分かっているね?」
「はい。エレノアに婚約の申し入れをする許可を頂き、有難う御座いました」
「それで?あの子にどうやって「喜んで」と言わせるつもりかな?言っておくけど、あの子は普通のご令嬢方と違って、正攻法での攻略は難しいと思うよ」
「はい。短い間ですが、エレノアと接して、そこら辺は心得ております。…僕は『僕にしか出来ない事』で、エレノアに承諾を頂こうと思っております」
「そうか、それは楽しみだ」
楽しそうなオリヴァー兄様の声が聞こえてくる。が、もはや私の耳には断片的にしか、彼らの会話は聞こえなくなっていた。
――…えっと、何が愉しみなのかな~?何か頭がふわふわして、さっきからの二人の会話がよく聞こえない…。…え~っと、こんやしゃが、まだこうほで~…ぼくにしかできないこと…。
ここで、私の意識はプッツリ途絶えた。
「…あれ?何か水音が聞こえたような…?」
「はい。あっちの方向ですよね。ひょっとして、誰かいるんでしょうか?」
オリヴァーとセドリックが不思議そうに水音のした方向に目をやると、湯気にまぎれてぼんやりと白い塊が浮いている…ような気がした。
「?」
ひょっとしたら、掃除の時に使用人が落としていったタオルかもしれない…と、二人揃ってその白い塊に近付いていく。――が、その白い塊の正体を目にした瞬間、一方は青くなり、一方は真っ赤になった。
「エ、エレノア!?ち、ちょっ!なんで…ここに!?」
オリヴァーが慌ててお湯の中からエレノアを引き上げるが、全身茹でタコのように真っ赤になったエレノアは、ぐったりと意識を失っていた。
「あ、あ、あにうえっ!どどど…どうしたら…!?」
好きな相手の裸体を見てしまった羞恥と、その子が意識不明になっている事へのパニックでオロオロしているセドリックに対し、オリヴァーがすかさず指示を下す。
「セドリック!お前は今すぐ鍛錬場に向かって、クライヴとジョゼフを呼んで来い!エレノアが湯当たりを起こして倒れた事を伝えて…。それと、使用人の誰でもいいから、冷たいレモン水を用意させろ!冷えたタオルも忘れるな!」
「は、はいっ!」
セドリックが慌てて浴場から出て行った後、オリヴァーは浴場内に常に用意されているバスタオルでエレノアを素早く包み、抱き上げると溜息をついた。その顔は、ほんのりと赤く染まっている。
「全く…エレノア。君って子は…」
何かに耐えるように、もう一つ溜息をついた後、オリヴァーは自身も着替えるべく、エレノアと共に脱衣場へと向かったのだった。
その後、自分のベッドで目を覚ましたエレノアは、青筋を浮かべながら微笑むオリヴァーとジョゼフによって、こっぴどく雷を落とされた挙句、クロス子爵邸を発つ迄の間、大浴場の使用禁止を言い渡されてしまったのだった。
「ううう…。せめて…。せめて、ひと泳ぎしてから倒れたかった…!」
そう言いながら、枕を涙で濡らすエレノアの姿を、介抱していたウィルが目にしたとかなんとか。
ついでに、エレノアの作戦に加担したクライヴにも、オリヴァーによって厳しい制裁が下された。
その内容はと言うと、グラントとのガチバトル&メルヴィルによるお説教という名の精神攻撃という、血も涙も無いものであったという。
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パニックになったエレノアは、自分の裸体がオリヴァー達に晒されるという危険性には、全く思い至っておりません。羞恥とは、命の危険が去ってから湧くものなのです。
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