第33話 兄達の婚約者①(セドリック視点)
僕の名前はセドリック・クロス。メルヴィル・クロス子爵の第二子として、この世に生を受けた。
母は地方領主の娘で、その領主が預かっている領土がクロス子爵領の一つだった。なので母は幼い頃、たまたま目にした父をずっと恋い慕っていたのだそうだ。
女性が尊重されるこの世の中であっても、父と母では流石に身分差があり過ぎると、地方領主だった祖父が止めるのも聞かず、母はなりふり構わず父に求愛し、父も女性に対する礼儀としてその想いに応えた。
やがて母は身籠り、僕を産んだ。
僕を産んだ事で、母は自分が父に最も愛されている恋人だと思い込んでいたようだけれども、実際は僕の他にもバッシュ侯爵夫人のマリア様が、僕の兄であるオリヴァー様を産んでいた。
だが父以外に夫も恋人も作らず、ただ一途に父を愛していた母にとって、他の男の妻であり、父を含めて何人もの恋人を持っているマリア様は父の単なる火遊びの相手に過ぎず、自分よりも立場が下だと、勝手に見下していた。当然オリヴァー兄上の事も、火遊びのついでに生まれた子供だと馬鹿にしていた。
そして、いずれは自分が妻の座に収まれる。そう信じ切っていた。
けれども母の思惑とは裏腹に、父は自分に求愛してくる女性全てを平等に扱い、オリヴァー兄上を産んだマリア様を含め、誰とも婚姻関係を結ぼうとはしなかった。当然、母も同様に扱われた。
その事を母は、僕の所為にした。
――産んだ息子が、あの方の容姿も資質も何もかも受け継がなかったから、その母親である自分はあの方の妻になれなかったのだ。
そう信じ込み、事あるごとに僕を罵った。
「他のどの女達より、私の方がずっとあの方に相応しいのに!なのに、お前が出来損ないなばかりに、旦那様は私を娶られなかったのよ!」
父には既に、父の全てをそのまま受け継いだと言われている優秀なオリヴァー兄上がいたから、その事が更に母の苛立ちを募らせていたのだろう。
僕は少しでも母が心安らかになれるよう、勉強も剣術も必死に頑張ったが、母の苛立ちは募る一方で、僕が母の為にと作ったお菓子も食べられる事なく、捨てられたり踏みつけられたりした。
本来、女性が産んだ子供は、父親に引き取られるのが普通だ。だが、母は僕をどれだけ罵り罵倒しようとも、決して自分の手元から放そうとはしなかった。
それは愛情からではなく、打算からだった。
だって僕がいれば、父は必ず自分の元に訪ねて来てくれるから…。
父はとても優しい方だ。
僕を訪ねて来てくれる時は、いつも笑顔で愛情深く接してくれた。僕はその時だけ、この世に存在してもいいのだと心から思う事が出来た。
だが母に対しては…。
父は形式通りにしか母に接しないばかりか、恋人としてその肌に触れる事すらせず、あくまで『
次第に母は僕に対し、歪んだ嫉妬心をぶつけるようになっていった。
罵詈雑言は言うに及ばず、時には棒で叩いたり水をかけたまま放置されたりもした。
「出来損ないの癖に!私から旦那様を奪うなんて、なんて憎らしい子なの!?」
そんな言葉を何回も投げつけられて…。
次第に僕は、僕自身の存在意義が分からなくなってきてしまった。
思考は停止し、何をされても何を言われても、悲しいとも辛いとも感じなくなっていた。
そうして僕が5歳になったある日、僕はまた母に酷く殴られていた。
悲鳴を上げる事無く、ただ蹲って殴られるがまま暴力が過ぎ去るのを待っていた僕だったが、どうやら途中で気を失ってしまったようだった。
目を覚ますと、僕は知らない部屋のベッドに寝かされていて、傍らには父そっくりの顔をした少年が心配そうな顔で僕を覗き込んでいた。
「ああ、良かった。気が付いたんだね!」
そう言って僕の頭をそっと撫でながら、少年は嬉しそうに笑ったが、その笑顔はすぐに困惑したものへと変わる。
「どうしたの?まだどこか痛い?」
そう言われ、僕は自分が泣いている事に気が付いた。
その時、何故か凄くホッとして「ああ、もう大丈夫だ」と、自然と思えたのを覚えている。
あの時の気持ちを、僕はきっと一生忘れないだろう。
僕の意識が戻った事を知り、父も僕の傍へと駆け付けて来てくれた。
そして、僕をずっと看病してくれた少年が、僕の母親違いの兄であるオリヴァーである事、僕をクロス子爵家に引き取った事、母は精神を病んでしまい、静養所に行った事などを説明してくれたのだった。
後にオリヴァー兄上から聞いた話によれば、父は僕が母から虐待を受けている事を薄々察し、何度も僕を引き取ろうと手を尽くしてくれていたのだそうだ。
けれど母が頑なにそれを拒み、また女性である母の望みを無視する事も出来ず、実現する事が叶わなかったのだという。
なので母の屋敷に手の者を紛れ込ませ、動向を探っていたところ、あの日の酷い虐待が起こり、父は自分の血を分けた息子を殺されかけたとして、母から僕を取り上げ、母を厳重な監視付きの療養施設に隔離したのだそうだ。
そして母を諫めようともせず、僕の虐待を半ば黙認していた祖父は地方領主の地位を剥奪され、クロス子爵領から追放されたとの事だった。
それを聞いた時の僕の内心はと言えば、母への慕わしさや、もう会う事がないだろう悲しみはあれど…もう傷付けられずに済むのだという安堵感に溢れていて、己の薄情さに自己嫌悪を覚えた。
「お前はこれからこの屋敷で、私やオリヴァー、そしてクライヴと一緒に暮らすんだよ。それにね、いずれお前には、このクロス子爵家を継いでもらいたいと思っているんだ」
そう言われ、いきなりの展開に頭が追い付いていかず、暫くの間呆然としてしまった。
何故、僕が子爵家を継ぐ予定なのか。それは、後で分かってくるのだけれど。
ちなみにクライヴ様とは、オリヴァー兄上と父親違いの兄弟で、国の英雄と謳われているオルセン男爵の一人息子なのだという。
なんでもオルセン男爵が冒険者な関係で、オリヴァー兄上とはこの屋敷でずっと実の兄弟のように過ごしてきたのだそうだ。
「お前がセドリックか?俺はクライヴってんだ。これから宜しくな!オリヴァーの弟なら、俺にとっても弟同然だから、俺の事は兄さんって呼んでくれ」
そう言って優しく笑ってくれたクライヴ…兄上は、オリヴァー兄上同様、とても優しい方だった。
銀髪碧眼で、強力な『水』の魔力持ち。オリヴァー兄上と並んでも遜色ない程の美しい容姿。そして剣技も魔力量もずば抜けて高く、クロス家の騎士達から絶大な信頼を寄せられていて…。父上と見た目も才能も生き写しなオリヴァー兄上共々、自分なんかが並び立つには気後れしてしまう程、眩しい存在だった。
優秀な兄達、そして偉大な父と共に暮らすうち、母から植え付けられていた虚無感と劣等感が心の中で徐々に育っていき、こびりついていった。
父も兄達も、僕の事をとても可愛がってくれたし、騎士達も使用人達も皆、僕の事を大切にしてくれた。僕も皆の事をとても大切な家族だと思っている。
それでも「ソレ」は、どんどん僕の心を覆う殻となっていって。「このままではいけない」と分かってはいても、自分ではそれを壊す事が出来なくて。ただ焦りと諦めが交互に押し寄せる、やるせない日々が続いていった。
やがて、オリヴァー兄上とクライヴ兄上は王立学園に通う為、王都へと旅立って行った。
兄上達は休みの度、こちらに帰って来てくれていたが、僕は己の劣等感から兄上達と上手く接する事が出来ずにいた。
そんな折、オリヴァー兄上がバッシュ侯爵家の一人娘であり、妹であるエレノア嬢の筆頭婚約者となる事が決まり、正式にバッシュ侯爵家に婿入りする事となった。
それに伴い、クライヴ兄上もオリヴァー兄上を支える為、兄上の執事としてバッシュ侯爵家に入る事となり、僕は正式にクロス子爵家の跡取りとなったのだった。
正直、僕なんかが偉大な父の後継者なんて相応しくないと思うのだが、オリヴァー兄上がいない以上、僕が継ぐより他無い。
だから、兄達には追い付けないのは百も承知で、僕は僕なりに努力した。たまに帰省する兄上達が指南役を申し出てくれるのは、流石に気後れして遠慮してしまっているのだけど…。
そんな中、僕はオリヴァー兄上と婚約者のエレノア嬢との仲が、あまり上手くいっていないという噂を聞いた。
なんでも、エレノア嬢がオリヴァー兄上の事を嫌い、邪険に接しているとの事だった。しかも、実際に血の繋がっているクライヴ兄上の事も、平民と馬鹿にして兄とも認めていないというのだ。
クロス子爵領の者達は皆、優しく完璧なオリヴァー兄上とクライヴ兄上を誇りに思っている。勿論、僕も同様だ。
だから、その兄上達を冷遇しているというエレノア嬢の事は、皆口には出さないものの、あまり快く思ってはいなかった。
「まあ、女性とは、得てしてそういうものだからね」
そう言って静観していた父上が一年前、エレノア嬢の誕生日を機に、クライヴ兄上の父上であるグラント様共々、王都住まいを始めたのも、兄上達を心配しての事だと思っていた。
だって何故か、クライヴ兄上までもが、エレノア嬢と婚約したというのだから。
あれ程嫌われていて、兄上自身も嫌っていた筈なのに婚約したなんて。一体どういう事なのだろうか。
ルーベン達は、エレノア嬢が美しいアクセサリーを欲しがるように、クライヴ兄上を欲しがったのではないかと言っていたが…。果たしてあの兄上が、そんな動機での婚約を黙って了承するものだろうか。
心配してクライヴ兄上に送った手紙。それに対する返事はと言えば、『心配するな。今、ちょっと忙しくてそちらに中々帰れないが、いずれエレノアを連れて帰って、ちゃんとお前に説明するから』だった。
なぜクライヴ兄上に手紙を送ったのかと言うと、オリヴァー兄上は、エレノア嬢と出逢ってからは一貫して『エレノアの可愛らしさと素晴らしさについて』という、ほぼのろけに近い手紙しか寄越さなくなったので、状況を知る参考にならなかったからだ。
「…う~ん…。みんなはエレノア嬢の事、悪く言うけど…。あのオリヴァー兄上がそこまで愛している子なんだから、そんなに酷い子ではないと思うんだよね…」
クライヴ兄上の手紙にも、悪感情はどこにも見受けられない。むしろ、そこかしこに隠し切れない好意が見え隠れしているように感じる。
「どんな子なんだろう…エレノア様…」
いつしか僕は、まだ見ぬ兄達の婚約者に対し、強い興味を抱くようになっていった。
◇◇◇◇
やがて兄上達が通う王立学院が長期休暇になったのに合わせ、兄上達がクロス子爵領に帰省する事になった。しかも驚いた事に、エレノア嬢を連れて来るというのだ。
だけどその前に、エレノア嬢の希望で、出来たばかりのダンジョンの視察に行くのだという。…って、ご令嬢がダンジョン視察!?普通に考えて有り得ない。
『本当に…。どんなご令嬢なんだろう?』
そう思っていた僕の元に、ダンジョンに同行した騎士団長のルーベンから、火急の魔道通信がもたらされた。
なんでもエレノア嬢が魔力切れを起こし、瀕死の状態になっているので、なるべく目立たぬよう、急いでこちらに向かって欲しいとの事だった。エレノア嬢の魔力は僕と同じ『土』だから、魔力供給に協力して欲しいと。
僕は急いで、指示された場所へと向かった。
「オリヴァー兄上!クライヴ兄上!」
「ああ、セドリック!よく来てくれた!」
そう言って僕を迎えてくれたオリヴァー兄上は満身創痍といった状態で、思わず息を飲んでしまった。確かベビーダンジョンを視察すると言っていたのに、何故兄上がこんな怪我を負っているのだろうか。
「セドリック!こっちだ!」
そう言って、エレノア嬢の元に僕を連れて行ったクライヴ兄上も、オリヴァー兄上同様、酷い有様だった。だが二人とも自分の事には一切構わず、部屋のベッドに眠る少女を心配そうな顏で見つめている。僕も急いで少女の状態を確認した。
『土』の魔力持ちだという少女の身体からは、殆ど魔力を感じる事が出来ない。明らかに魔力が枯渇している状態だった。
急いで少女の手を握りしめ、僕の魔力を流し入れるが、少女の魔力量は中々増えない。あまりにも魔力が足りず、衰弱してしまっている為、上手く魔力を受け入れる事が出来ないでいるのだ。
「兄上!手からではなく、口から直接魔力を流し入れます!宜しいでしょうか!?」
一瞬、兄上達の顔が微妙なものになったが、すぐに承諾してくれた。…が、何故か二人とも「部屋の外で待っている」と言って、部屋から出ていってしまった。
今思えば心中察して余りある兄上達の行動であったが、その時の僕はとにかく、目の前の少女を救うのに必死で、躊躇する事無くエレノア嬢に口付けると魔力を注いだ。
やがて、氷のようだった少女の身体が徐々に熱を持ち、触れている唇からも微かに吐息が漏れてくる。
良かった…。これで取り敢えず、命の危険は脱した筈だ。
「…ん…」
小さな声が漏れたのを切っ掛けに唇を離してみると、エレノア嬢が目を開け、ぱちぱちと瞬きしながら、僕を見ていた。
まるで、宝石のようにキラキラ煌めく、黄褐色の大きな瞳。少し乱れて埃を被っていてもなお、艶やかな輝きを放つヘーゼルブロンドの髪。そして、とてもあどけないその表情。
『可愛いな…』
そう、素直に思った。
「ああ、良かった。気が付かれたのですね?」
そう言ってニッコリ笑いかけた僕の顔を、何故か凝視していた少女だったが、突然「ひゃああああぁっ!」と、叫び声を上げた。
ビックリして、思わず椅子から飛びあがるのと同時に、兄上達が部屋の中に雪崩れ込むように入って来て、エレノア嬢を抱き締める。
「に…っ…にい…さま…。よかった…!生きてたぁ…!」
そう言って互いの無事を喜び会い、涙を流しているエレノア嬢は、噂と全く違い、とても愛情深い方のように見えた。そして、そんな彼らを見ながら、エレノア嬢を救う事が出来て本当に良かったと、心の底からそう思ったのだった。
――…エレノア嬢が、兄達のどちらともまだ口付けを交わした事がなく、自分が彼女の最初の口付けを奪った形になってしまった…という事実を知るまで、あともう少し…。
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メルヴィル父さんが「あの子の手紙は参考にならない」と言っていたのろけた手紙ですが、セドリックもしっかり「参考にならない」と思っていたようです。
何故、クライヴがエレノアの事をあまり話さなかったと言えば、余計な情報が漏れるのを防止する為でした。
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