第7話 我儘姫の豹変(クライヴ視点)

あの後、鼻血を噴いて顔面蒼白になってしまったエレノアを介抱し、何とかベッドに押し込んだが、なんか「喪女には…キツイ…」とうわ言のように呟いていた。

『もじょ』とは何の事だろうか。


「はぁ…。なんかドッと疲れたな」


「ふふ。お疲れ様、クライヴ」


バッシュ邸で自分に与えられている豪華な部屋の中。一目で高級と知れる革張りのソファーに足を投げ出して座る。


本来なら使用人に与えられるような部屋ではないのだが、オリヴァーと共にこの屋敷にやって来た俺に、バッシュ侯爵は当然のようにこう言ったのだ。


『マリアが産んだ子なら、私の子も同然だ。だからこの屋敷内だけでも、僕は君達の事は自分の息子として扱うよ』


オリヴァーや俺の父親達と違い、整ってはいるが極々一般的な容姿をしたかの侯爵はそう言いながら、ふんわり優しい笑顔を俺達に向けてくれたのだった。


そしてその言葉の通り、俺はエレノアの筆頭婚約者であるオリヴァーと変わらない厚遇を侯爵様から与えられている。普通だったら有り得ないだろうが、俺の親父もクロス子爵も「あいつなら、そう言うよな」「うん、彼らしいね」と言って笑い合っていた。


そんな侯爵様の一人娘であり、俺達の妹であるエレノアは、残念な事にバッシュ侯爵とは似ず、世の女達と同じく気位が高く我儘な娘だった。


学園で絶大な人気を誇るオリヴァーに向かって『王子様じゃない男なんて、婚約者として認めない!』と言い放ち、俺に対しては『下賤の血が入っているから兄妹なんかじゃない!』と言い放った。そして宣言通り、俺は兄妹とは認められず、会うたびオリヴァーの召使として扱われた。


無論、父親であるバッシュ侯爵にたしなめられていたが、基本娘に甘く、優しい性格な父親を舐め切っているエレノアは、彼の言う事を全く聞かなかった。そればかりか、俺達を追い出せ、婚約を取りやめにしろと癇癪を起こす有様。


だが、オリヴァーを婚約者に決めたのは、絶大なる決定権を持っている俺達の母親だ。

いくら女であるエレノアが我儘を言っても、母親の命令には逆らえない。だからその鬱憤から、増々俺達に対してヒステリックになってしまうという悪循環に陥ってしまったのだ。


それゆえ、オリヴァーはバッシュ邸でエレノアと一緒に暮らす事を諦め、今まで通り学院の寮で生活する事を選んだ。当然俺もそれに倣った。


後から聞けば、エレノア付きだった召使の一人が、こっそりエレノアに選民意識を植え付けていたらしい。


その事が発覚し、その召使は家令であるジョゼフの手により、制裁を加えられた挙句放逐されたそうだが、ほんの小さい頃から植え付けられた思想は、そう簡単には治らない。ましてエレノアは、全てにおいて甘やかされてしまう『女』なのだ。今更矯正など出来はしないだろう。


俺は元々、学院内で繰り広げられる『女』の醜態に反吐が出る思いだったから、その『女』そのものと言えるエレノアにすぐに愛想が尽きた。


だが、オリヴァーはエレノアとの関係改善を諦めはしなかった。


エレノア付きの召使が抜けた穴に、俺達と共にバッシュ邸へとやって来た、優しくて人好きのするウィルを添え、エレノアが喜びそうな事を考え、実践し、どんなに嫌がられても定期的にバッシュ邸へと通った。


正直、なんであいつがそこまでするのか理解出来なかった。


父親違いの自分に温かく接してくれたバッシュ侯爵の恩義に報いる為?…いや、あいつは思慮深くて優しい奴だが、そんな事だけで動く奴ではない。


俺達の母親であるマリア。


派手好きで奔放で、何人もの男を手玉に取り、翻弄する、まさに『女』そのものな人物。


俺の父親も、欲望に忠実に生きているような奴だったから、奔放な者同士、気が合ったのだろう。クロス子爵を差し置いて、あっさり俺という息子をもうけてしまった。


その後も親父は冒険者として各地を飛び回っているし、母親も他の男達と遊んで子を成すのに忙しく、俺は殆どクロス子爵の屋敷に預けられっぱなしだった。なので、オリヴァーとは父親違いであるのにもかかわらず、実の兄弟以上に仲良く育った。


今も昔も、あいつは俺にとって一番大切な家族だ。そして並み居る兄弟達を差し置いて、筆頭婚約者の座を掴む程に優秀な男でもある。


数ある夫達の中で一番熱愛するクロス子爵。その彼に生き写しのオリヴァーを筆頭婚約者に据えた…と、誰もが思っただろう。だが、それは大きな誤解だ。俺はあいつ程人の機微に聡く、状況を正確に読み解き、行動できる男を他に知らない。


俺達を産んだだけで、滅多に会う事も無い母親の事はあまり好きでは無いが、人を見る目だけはある女だと思っている。


多分だが、母はエレノアがどんな娘であれ、オリヴァーならきっと適切な判断をし、大切に守ってくれると確信しているからこそ、オリヴァーをエレノアの筆頭婚約者に決めたのだろう。


実際、オリヴァーはあっという間にバッシュ邸の使用人達をまとめ上げ、バッシュ侯爵の右腕と称されているジョゼフの信頼を勝ち取ってしまった。そして心から、妹であるエレノアを慈しんでいたのだ。


エレノアは確かにそこらの令嬢達と比べても可愛らしい見た目をしている。

だが、俺から言わせればそれだけだ。


バッシュ侯爵様は尊敬に値するが、大切な弟があの我儘な妹に今後も振り回されるかと思うと、いっそ婚約者なんて降りてしまえと思ってしまう。実際、何度か本人に直接進言した。が、オリヴァーはいつも困ったように笑いながら首を横に振るのだ。


――だが皮肉にも、エレノアの筆頭婚約者という立場が、オリヴァーを守ってもいたのだ。


妖艶とも言える美貌を持つオリヴァーに群がる女猿どもは、それこそ星の数ほど存在する。勿論、何が良いのか、ぶっきらぼうな態度を取る俺に対しても、同様に女達は群がってきた。


奴らは臭い香水をこれでもかと降りかけ、真っ赤に塗りたくった唇に下卑た笑みを浮かべ、欲情した色を浮かべた瞳でねっとり見つめ、しなだれかかってくる。

普通の男であれば、喜んで乗る誘いだろうが、俺やオリヴァーにとって鬱陶しい以外の何者でもない。


そういう訳でオリヴァーにとって、エレノアという婚約者免罪符が出来た事は喜ばしかったと言えるだろう。エレノアに苦労させられているが、数多の女どもからの誘惑は免れる事が出来たのだから。






◇◇◇◇






昨夜、オリヴァーから突然バッシュ邸に移り住むと言われた。

ついでに、エレノアが記憶喪失になってしまったという事実も知らされ、俺は愕然とした。


しかもオリヴァーの口から語られるエレノアの姿は、今迄俺の知っているエレノアとは似ても似つかず、オリヴァーがいくら事実だと言っても、到底信じる事が出来なかった。


ひょっとしたらエレノアが自作自演の演技をして、オリヴァーをからかっているのかとさえ思ってしまったのだ。


だが…。


「クライヴだ。お前とは既に数回会っているが、記憶を失くしているんだろう?じゃあ『初めまして』でいいな。エレノア?」


わざとぞんざいに挨拶をする俺を、エレノアは怒るでもなく戸惑った様子で見つめていて、俺は『おや?』と思った。


そういえばオリヴァーがエレノアに挨拶をした時、「お帰りなさい、オリヴァー兄様!」と、嬉しそうな顔で笑っていたな。

こいつ、まだ演技をするつもりかと呆れていたが…ひょっとして、本当に記憶を失ってしまったのか?


エレノアは戸惑いながら、俺が何故執事の恰好をしているのかと問いかけて来た。だから俺はさっさと自分が平民である事をエレノアに告げた。


嫌悪に顔を顰めるか…と思ったエレノアだったが、暫しの逡巡の後、以前の自分が言った非礼を詫び、あまつさえ俺の事を「兄と呼んでいいか」とお伺いをたててきたのだ。


あれは不意打ちだった。

お陰で無様にうろたえてしまった。今思い出しても恥ずかしくて顔から火が噴く。


しかも何だ!あのあざとい上目遣いは!?新手の媚びか?!だとしたら、あの年でなんて恐ろしい技を習得してやがるんだ!本当に、末恐ろしいなんてもんじゃない!


ともかく、思いがけない妹の愛らしい姿に、ついうっかり兄様呼びを了承してしまった。しかも了承した途端、エレノアが浮かべた満面の笑みに、顔どころか身体中どんどん熱くなってしまって…。


「仲良くなったところで、実はエレノアに頼みがあるんだ」


「頼み?なんでしょうか」


「うん。クライヴをね、君の婚約者の一人に加えて欲しいんだ」


「はい?」


「お、おい!オリヴァー!?」


俺は爆弾発言をしたオリヴァーを睨み付けながら、驚きで目を丸くしているエレノアに、チラリと目をやった。


俺と…エレノアが婚約?!


昨日までの俺だったら、何を馬鹿な事を言ってるんだ。有り得ないと、鼻で笑い飛ばしていただろう。


だが、実際にこうしてエレノアと接した今となっては…。


「オリヴァー!何をいきなりそんな馬鹿なことを!」


「馬鹿なことじゃないよ。僕はエレノアの筆頭婚約者だ。エレノアの相手を選ぶ権利と義務がある。それもこれもエレノアを守る為だ。クライヴ、君もその目で確認しただろう?以前のエレノアならともかく、今のエレノアは…危険だ。多分将来、僕一人だけでは守りきる事が出来なくなる。だから君に僕と一緒にエレノアを守って欲しいんだ。信頼できる守り手は多ければ多い程いい」


「…だが、侯爵様がなんと言うか…」


あ、オリヴァーの奴、笑ってやがる。

ああ、分かってるよ。今の言葉じゃ『侯爵様が許せば婚約者になる』って言ってるようなもんだからな。


「侯爵様も、今のエレノアを見ればきっと賛同してくれるよ。それに、最終的に決める権利はあくまでエレノアにある」


確かにそうだ。伴侶を選ぶ権利は女であるエレノアにある。


だが、俺の事を兄としては認めてくれたが、婚約者となると話は別だろう。

男爵家とは言っても俺自身は、ただエレノアと血が繋がっているだけの、身分も何もないただの男なのだから。


「それに、婚約は君を守る為でもある。そろそろ、君を狙っているご令嬢方をはぐらかすのも限界だろう?パリス伯爵令嬢とか、ノウマン公爵令嬢とか。僕と違って、君はとっくに成人してるし」


オリヴァーの奴、俺の今現在の頭痛の種を暴露しやがった。…余計なことを…。


ああ、確かにな。


あの女猿ども。俺が女である奴らに対して、男としては異端とも言われる程の掟破りな態度を取っているのにもかかわらず、めげずにしつこく付きまとってきやがる。挙げ句、自分達の力だけでは俺が靡かないと知ると、家の権力をチラつかせてくる有様だ。


いい加減、一回ぐらいは相手をしなけりゃならないかと思っていた所だったが、確かにエレノアと婚約すれば、あらかたの誘いを堂々と突っぱねることが出来る。


まあ、エレノア自身が俺を選ぶという事が重要なのだが。


「分かりました、オリヴァー兄様!私、クライヴ兄様と婚約します!」


それまで目を丸くしていたエレノアが、突如俺と婚約すると高らかに宣言した。


「エレノア…。お前、本当にそれで良いのか?」


「はいっ!お任せくださいクライヴ兄様!私、これから妹として、兄様達の立派な防波堤となるべく、完璧な淑女目指して頑張ります!」


胸を張り、そう言い切ったエレノアの目にはやる気が満ち溢れていた。が、防波堤ってお前、何の話をしているんだ?


するとエレノアは俺達を見上げたまま、ふんわりと微笑んだ。


――ドクリと、心臓が急激に高鳴る。


それはいつも向けられている、男を誘うための、ねっとり媚びを含んだ笑いでなく、春の日差しのような、慈しみすら感じられる優しい笑顔だった。


沸き上がってくる衝動に突き動かされるように、エレノアを抱き上げ、面白いぐらい真っ赤になって動揺している幼い頬に誓いの口付けをした。


「しかし…」


…まさかあそこで、いきなり鼻血を噴かれるとは…。


「おい、オリヴァー。記憶喪失といい、あの鼻血といい、エレノアをもう一回、医者に診せた方が良くないか?確か昨夜も鼻血出したんだろ?」


「う~ん。昨夜の段階で医者に診せたけど、どこも異常はなかったんだよね。実際、今日は起きてからずっと、元気に動き回っていたらしいよ」


「エレノアが?動き回ってた?」


「うん。ウィルが抱っこしようとしても嫌がって、自分で歩いていたって」


「マジかよ」


いつもなら、歩くのが面倒だと、どこに行くにも誰かしらに抱き抱えられていたあいつが。

もはやこれ、記憶喪失というより、中身がそっくり何かと入れ替わったってレベルだろう。


「ねえ、クライヴ。思うにエレノアは病気かなにかではないと思うんだよ」


「病気じゃなけりゃ、何だってんだ?」


「しいて言うなれば…恥ずかしさが限界を超えた…みたいな?」


「…あり得ねえ…」


『恥じらい』なんて、女が母親の腹の中に一等最初に置き忘れてくる感情と言われているのに。


「うん、気持ちは分かる。でも、そう考えれば辻褄が合うんだ。昨夜鼻血を出した時も、僕と一緒にお風呂に入っていた時だったしね。彼女、入浴する前、一人で入浴したいって、相当駄々こねていたんだ。「何故?」って聞いたら「恥ずかしいから」って、口にも出してたし」


「…あいつ、以前はしっかり、手取り足取り召使い達に身体洗わせていたよな?本当に、別人になっちまったみたいだな」


そこでふと、エレノアの笑顔を思い出す。

裏表のない笑顔というものが、あれ程までに破壊力のあるものだったとは。


「確かに、今のあいつは危険だな」


「うん。まっさらな彼女の何気ない仕草や言動、そして微笑みが、今後どれ程の男達を虜にしていくか想像がつかない。下手をすれば、『ろくでもない大物』も引っ掛かる可能性だってあるからね」


「横からかっ拐われるかもしれないって事か」


「その通り。だからそうならない為にも、僕達であの子を守っていかなきゃ。エレノアの目を、他の男達に向けさせない為にもね」


「お前、十中八九、そっちが本音だろ」


「だって、エレノアにはこれ以上、夫も恋人も必要ない。…君も、そう思わないかい?」


ゆったり微笑んだオリヴァーの目には、明らかな独占欲が浮かんでいた。そして多分、俺の目にも同じものが浮かんでいるのだろう。


「…ああ。その通りだな」


「と言う訳で、今後はさっきのような抜け駆けはしないでね?」


「抜け駆け?」


「エレノアにキスしただろう?」


「お前なぁ…」


早速、独占欲満々な台詞を口にするオリヴァーに苦笑する。


普段、決して他人には見せない、半分血の繋がった大切な弟が見せた、年相応の拗ねた顔。

それが可笑しくて、俺は笑いながら彼の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回したのだった。

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