声について



『布団の中の男曰く、声は力を持つものなり。されど……』


          ○


 一人暮らしが長くなると人の声のない生活に慣れていきますが、ふとした瞬間に、どことなく人恋しくなることがあります。


 そんな時はそっとテレビの電源を入れて、なるべく雰囲気明るめのバラエティ番組を見るようにしています。


「なんでやねん」


 テレビの前に座り、まるでひな壇芸人やコメンテーターになったような気分で、一人小さく呟くのです。そしてテレビが暗がりになった時に反射する自分の表情を見て、「今日もちゃんと口角上がってる」と納得するのです。


 声を出さない状況に長時間身を置いていると、咄嗟に喋れなくなる事があるので、「電話がかかってきた時のために……」と準備運動的な扱いで一人喋りをすることもあります。それは最初、意識的に行っていたことなのですが、今では無意識のうちに発声してしまう事もあり、その時は自分でも少し驚くのです。


 上記の内容から分かる結論としては声が大事だということと、『一人暮らし』が『割と寂しい』という事に対する十分条件であるということでしょうか……。


 さてさて、そんな荒んだ男の心の内は置いておいて、もう少し『声』について深く考えてみましょう。


 声というのはとても不思議な力があると思いませんか?


 疲れている時に励まされたり、自分に強く言い聞かせて行動する力に変えたり。一方、そんな前向きな事ばかりではなく、弱音を吐いてどんどん自分を追い込んでしまったり、消極的な発言を繰り返しているとなかなか行動に移せなかったり。


 声、もしくは言葉というのは、それを受け取る僕達の捉え方次第で、良くも悪くも大きな力になりうるのです。


 かつて地動説を唱えたガリレオガリレイが「それでも地球は回っている」という名言を残しました。(諸説あり)

 ただこの時の彼の声は、明確な意志を表したような力強いものではなかったとされております。(これも諸説あり)

「なんでなん? なんで誰も信じてくれへんのやろ……。もう終わってるわ……。あぁ、せやけどほんまは地球回ってんねんけどなぁ」と、こんな感じだったのかもしれません。(これは完全なる僕の妄想です)


 このように、声の印象でその場の雰囲気がガラッと変わります。ガリレオガリレイの声は長い年月を過ぎた今、僕達に見えない景色を彷彿とさせ、たくさんの捉え方を生み出しているのです。それも一つ、声の力というものでしょう。


          ○


 声は大事だと述べてきましたが、もちろんそれには前置きがあります。『ある程度、TPOをわきまえたうえで』というものです。


 例えば静かにしなければいけない図書館などの公共施設で、ワイワイガヤガヤと叫ぶのは良くありません。また、話す相手によって話し方、声の調子を変えて対応しなければなりませんし、自分の意思のみで自由に声を発するということは、時と場合によってNGとなります。


「しっかりと他人の事を意識してください」


 そう、この声を僕は届けたいのです。

 一つ壁を隔てた隣人様に……。


          ○


「ちょお待てや! 今の攻撃はせこいやろ!」


「なんっでやねんっ!! はよ回復せんかい、このアホ!」


「うっしゃぁー!! 勝ったでぇー、ピーヒョロー、ピーヒョロー」


 情緒が正弦波のごとく乱高下しながら、僕の部屋の壁を揺らします。


 何かしらのゲーム音と共に聞こえてくる低い男の声は夜中の2時過ぎ、丑三つ時まで鳴り響くのです。


 ゲームを楽しむのはいいことです!

 それでも声に関して、そして特にこの僕のアパートの薄皮饅頭を思わせる壁に関して、しっかりと意識をしてほしいものです。


 とまぁ、僕の愚痴のようになってしまいましたが、『声に力は宿るもの、されどTPOをわきまえよ』という言葉を僕は見えない隣人に向かって『小声で』囁くのでした。


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