天井について

 


『布団の中の男曰く、天井は地面なり』


          ○


 早送りのような休日の真っ只中、布団に寝転がりながら天井を見つめていると、虫食いのような凸凹穴がなんとなく気になりました。星と星を繋ぎ合わせて星座を作った昔の知識人のように、様々な大きさの穴を指でなぞっていくと、「あれ、なんだろう?」と、途中で他の穴とは明らかに異なる立体的な黒い影を発見しました。


「何なのかイマイチ分からないな……」


 目を凝らしてよく見てみると、その立体的な影はエアコンの風向きに合わせて小さく揺れているように見えます。


 そっと立ち上がって無意識のうちにティッシュを手に取り、使用可能面積の小さいローテーブルに乗って顔を近づけて見てみますと、それは細い糸にぶら下がる黒い蜘蛛でした。


 足は0.3mmのシャー芯よりも細く、身体はBB弾のように小さくまん丸としています。


 僕の接近を、空気の温度なのか風なのか、何かしらを媒体として察知したようで、足を何本か折り曲げクラウチングスタートのような体勢でいつでも逃げられるよう身構えているのです。


「蜘蛛は殺さない方がいい」という、昔からの言い伝えと少しの恐怖心から、僕はそっとテーブルから降りてティッシュを片付けました。 


「まぁ、背中も赤くないし大丈夫だろう」と、蜘蛛に関する浅い知識で自分の行動を肯定しました。


 僕が離れると、蜘蛛は風に揺られて身体をひらひらと動かしたまま、じっと何かを待つように沈黙しています。


 布団の上で蜘蛛を発見するとなると大変恐ろしいので、暫くの間は顔を上にあげて、下に降りてこないかどうか動向を見張っていましたが、何も動きがないので次第に瞼が重くなり、そしていつの間にか眠ってしまったのでした。


 そこから僕と蜘蛛の共同生活が始まったのです。


          ○


 目が覚めると、すでに蜘蛛の姿はなく天井には不気味な穴ばかり。


「しまった……」


 そう思ってふと後ろを振り返りました。そこには何もいないのに、小さな目がこちらをじっと見つめている。そんな根拠なき不安感が漂うのです。


 そして僕は落ち着くためにコップ一杯の水を一気に飲み干してから、ネットで蜘蛛のことを調べまくりました。「もしかするとセアカゴケグモにのみ意識がいっていたせいで、別の毒蜘蛛の特徴を見逃していたかも!」と、思ったからです。


 そして蜘蛛だらけの画像をスクロールしているうちに僕は「この、足がいっぱいある生き物って何?」と、8本足動物に関してゲシュタルト崩壊のような感覚を味わいました。


 やがて、「さっき天井にいた蜘蛛ってどんな見た目をしてたっけ?」といったふうに、何もかもを忘れてしまうのでした。元も子もないな……とその時は思いました。


 しかしこの、『忘れてしまう』というのは、ストレス対策にとって、ある意味いい方法なのかもしれません。僕の頭の中では『天井にいた蜘蛛の姿形を忘れる』から次第に『蜘蛛がいたこと自体を忘れる』に変わっていくのでした。


 そこまで忘れてしまうと蜘蛛の恐怖などはどこへやら、身の回りに他の生物がいる事などあり得ないといった、どこか慢心とも思えるほどの心の安らぎを得ることができたのです。そうなれば僕はもう、天井どころか汚い部屋のゴミの裏、開かずのクローゼット、見てはいけない布団の下側などに恐怖心を抱くことなく眠ることができます。


 そして夜になり、布団に入って天井を見つめると、再びあの穴達が僕に無数の星を思わせるのです。


「さぁ、電気を消しますか……」


 そっと立ち上がり、電気の紐スイッチに手をかけようとしたその時でした。


 無数の黒い星々。そのうちの一つが目につきました。他のよりツヤツヤで黒々としたBB弾のようなもの……。


 かの蜘蛛は僕のベッドインにあわせて寝床に戻っていたようです……。


          ○


 それから日が昇り、そして日が沈む度ごとに天井蜘蛛との邂逅を果たしました。何やら奴さん、仕事終わりモードのくたびれた身体をハンモックのように揺れる柔らかい糸の上で休めながら、僕を見下ろしているのです。


「お互いに疲れましたね。お疲れ様」


 そんなふうに言葉をかけるのが、一人暮らしの僕にとって心が少し温まる、唯一の日課になっていくのでした。


 そして彼を見上げる習慣の中で、一つ気がついた事がありました。それは僕が生きる上でも何かヒントになるかもしれない、ちょっとした『天井について』のことなのです。


          ○


 僕は先程、次のような表現をしました。

 彼が僕のことを『見下ろしている』と。


 しかし、段々と彼は僕のことを『見下ろしている』のではなくて、『見上げている』のではないか? と思うようになったのです。


 彼はニュートンの発見した万有引力、そして主に地球の重力を無視して、当たり前のように『天井をベースとした生活』を営んでいるのです。


 僕が知っている彼の生活は、まさに彼が天井にいる時のみでした。外回りの時は行方を知りませんから、僕は彼が常に逆さを向いていると仮定してみました。


 彼にとって天井は地面なのです。

 そして彼にとって僕は、『天井にいる生物』なのです。


 無数の穴によってボコボコになってはいるものの、ゴミも物も置いてない、僕にとっては全く新しい地面。


 そして彼にとっての天井には、餌となるような沢山の物がぶら下がっているように見えるでしょう。


 僕は巣の中で休んでいる蜘蛛に話しかけてみました。


「あの……あなたにこの世界はどう見えているのでしょうか?」


 もちろん、黒いBB弾は黙ったままです。


 しかしそれでも僕は、一つ希望に満ちた胸の弾みを感じずにはいられませんでした。


『世界の見え方が、2倍に増えた』


 そんな予感がしたのです。


 僕は毎日毎日、繰り返しのような日々を送る中で、知らず知らずのうちに物事の見方を固定化してしまっているような気がしたのです。


「天井が地面……かぁ」


 まだ答えには辿り着いていません。

 それでも、落ちた林檎を見たニュートンのような、そんな知性の源を予感するのです。


 そう、汚い布団での休息中に発見した、天井の理論……。


 それを夢見て、僕は再び瞼が重くなるのでした。




 

 


 


 




 




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