アイデンティティー

谷風 雛香

204号室

 埃臭いラブホテルの一室。安物のシーツに音のうるさいエアコン。そして、ベッドの上には二人の人間がいた。

 一人は私、もう一人は知らない男。私達は夜の街で声をかけられただけの関係だった。


 『ん……』


 男は少し身じろぎをする。背中合わせで男と寝ていた私は、体を斜めによじると男の背中越しに壁掛けの時計を確認した。

 時刻は朝の6時だった。


 私はシャワーを浴びるために、鉛のように重い体をベッドから起こし、浴室へと向かった。浴室の反対側のスペースには洗面台があり、そこには大きな化粧鏡が備え付けられている。鏡には、化粧が崩れ炭のような瞳をした私が映っていた。


 下着を脱ぎ浴室に入ると、私はシャワーの蛇口をひねる。冷たい水が勢いよく出て、頭から体を伝って床へと流れていく。

 私は汚れを落とそうと、何度も何度も体を擦った。けれど、それは殆ど私の気持ちの問題で、何度シャワーを浴びようと消え失せることは無いというのは、私が一番よく理解していた。


 長い髪からぽたぽたと落ちる水滴を拭いつつ、私は浴室からでる。ベッドの方に目を向けると男はまだ寝ているようだった。

 私は洗面台の方に向かい、ホテルの安物のドライヤーで髪を乾かす。その後、カバンの財布から一万円札を引き抜きテーブルに置いた私は、男を置いてホテルを出た。

 冷たい風が心地よかった。


 ホテルの立っている場所は、街の中心地から少し離れた川沿いで、朝露の湿った空気が辺りに漂っていた。

 そのまま道沿いに歩いていけば、やがて交差点が見えてくる。信号を渡り、さらに直線に進んでいくと次は駅が見えてきた。


 改札を出て、会社や学校へと向かう人々を横目で見つつ、私は駅へと歩いていく。まるで、世界で私だけが時間を遡っているかのようだった。

 この人混みの中に、普通の人間になれている人なんて一体どれくらいいるのだろうか。


 そこそこの大学に入り、それなりの会社に勤め、25までに結婚して家庭を持つ。

 普通の女に求められる条件のうち、私は全てに当てはまっていなかった。


 夕日を眺めても死にたくならないのはいつまでだっただろう。

 先の見えない膨大な時間に足がすくむようになったのは何歳からだっただろう。

 そして、自分の中の何かを信じていたくて言葉にするのを止めるようになったのはいつからだった?


 駅のホームに立ち、線路の向こうからやってくる電車を私は見つめる。終わりのある幸せを求めて、線の先に踏み出そうとする足を押さえ込み、私は今日も普通を装う。

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アイデンティティー 谷風 雛香 @140410

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