第2話 星空の原にて
誰かが遠くで呼ぶ声がした。深い霧の向こうから。
「――っ、おいっ、起きろ。
乱暴に揺すられて目を開けると、こちらを覗き込む寝ぼけ眼の見知った顔。
「げほっ」
名前を呼ぼうとして、むせ込んだ。"
「はぁ、しょうもないこと考えてんちゃうぞ」
えー、声に出してないのに。白けた視線に苦笑いを返す。相変わらず、沼賀くんは妙に勘がいい。
とりあえず、もう一度軽く咳き込んでから、身体を起こした。濡れた服が肌にべったり貼りついて重く冷たい。軽い尿意を覚えて、身体を震わせた。
「さっさと身体拭けや、風邪ひくで」
いつものように乱暴な関西弁とともに、後頭部に飛んできた白タオル。嗅ぎ慣れない甘い香りが僕を包む。
礼を言おうと振り向くと、沼賀くんはなぜかずぶ濡れのスッポンポン。フルチンのまま切り株の上で胡座をかいていた。しかも、煙草を吸っている。僕と同い年のはずなのに。
「ええねん、俺は」
星空を見上げた彼は、こちらを見ることなく、白い煙を吐き出した。大人みたいだなってちょっと思ったけど、視線を下げると、股間の可愛い突起が丸出しで、笑っちゃいそうになる。
「……。何で裸なの?」
「お前みたいに服が濡れんのは、
そう言って、隣に置かれた畳んだ服をチラッと見やる。あぁ、そうか。僕を助けるために……。
ちょっぴり嬉しくなった僕は、ずぶずぶに水を吸ったスニーカーをべちゃべちゃさせながら、彼の側に行った。でも、何だかちょっぴり恥ずかしくもあって、彼の隣ではなく、切り株の根元にもたれるように腰を下ろす。まだずぶ濡れの服から滴る雫が、歩いたあとを黒く濡らした。今夜は月が明るい。
「……沼賀くんは。沼賀くんはもう、陸上やらないの?」
彼の吐息を聴きながら尋ねる僕の声は少しかすれていた。
「んん、もう
森の方から、秋の虫たちがひっそり静かに鳴いているのが聴こえる。
「……でも。僕は沼賀くんの走り高跳び好きだったよ!」
爪先の先に生えてる知らない草。彼の返事が聴こえなくて、僕は葉先で膨らむ大きな雫をじっと見つめた。濡れたのは僕のせいかもしれない。
「ほら、空中動作がすごく上手だったから。かっこよかった。……僕は苦手だし。
それに沼賀くんはみんなをまとめるのとか、練習メニューを考えるのも得意じゃない?だから――」
「何や、最近調子悪いんか?」
僕の言葉を遮って、尋ねる沼賀くん。
雫がパラパラとこぼれ落ちて、しなった草がぴょんっとまっすぐに立つ。月明かりに影がさした。
「原条はいっつもそうやな。上手く行かへんときに限って、そうやって俺のことを褒め倒すんや」
恐る恐る彼を見上げた。月を背に立つその顔は真っ黒で、怒っているのか、泣いているのか分からない。
「ほんで、そのあと自分のことを
彼は僕の顔を覗き込むように、しゃがみこむ。濡れて垂れた彼の髪から大きな雫がポツポツ落ちた。月が僕のことを照らしたけれど、彼の顔はまだ見えない。
「はぁ。ホンマにええ加減にせぇよ」
ため息混じりに吐いた煙が、僕の前髪を優しく撫でる。
「あーぁ、天才様の自虐聞かされる凡人の気持ちなんて、想像もしたことないんやろな」
「ほんでもって、勝手にひとりで思い込んで悩んで、自分で自分を追い詰めてたんやろ?
アホか。コーチとか親とかおるやんけ。俺がおらんくても、ちゃんと周りに相談せぇや。もっと周りの気持ちを考えぇや」
吐き捨てるようにそう言うと、バッとタオルを奪い取って、僕の頭を乱暴に拭いた。痛かったけれど、懐かしかった。
「ったく、気軽に自殺なんてされたら、
顔を上げると、視界を埋め尽くす白い煙。
『別に俺は働きたくないんやわ。もうちょいのんびりさせてくれや』
彼の言葉を合図にするように、ゆっくりと僕の意識は薄れていった。深い眠りに落ちるように。
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