第4話

 しがみついた、その音に。温かくて良い香りがする。

 自分の呼吸で聞こえなかった時計の秒針も、そのリズムを私の耳に届ける。卓上から聞こえるその微かな音、それが、煩わしい。

「……落ち着いた?」

 耳元で、低く囁くその声は、ピンと張り詰めた糸を切った。

 初めてではない、それが口惜しい。やはり初めては特別な時にとっておくものだと実感する。柔らかな感触と少し湿った質感、重ねただけのそれはあまりにも短絡的過ぎた。

 1mm、1cm、10cmと距離が離れるその瞬間はスローモーションのようで、その時だけ、秒針の音は聞こえなかった。

「ねぇそら先生、気付いてるんでしょ…?」

 落ち着くようにと抱きしめた腕は、たった今、その意味を変えた。震える声を発した唇は塞がれて、背中をなぞる手に力がこもるのを感じた。

「私、受験頑張る」

「うん」

「ねぇ、高校生ってまだ子供?」

「うん」

「なら大学生になる」

「うん」

「子供っぽい考えでしょ」

「うん」

「それしか言えないの?」

「うん」

「…私のこと、好き?」

 抱き合いながらそんな問い掛けをして、このまま、うん。と答えてくれたらどんなに幸せかと、涙が出る。

 もしかしたら私を落ち着かせるために、話を合わせてくれているのかもしれない。もしかしたら突然のパニックで、変な行動をとっているだけかもしれない。

「今、言わなきゃダメ?」

 背中に手を回して強く抱きしめる、意外と大きな背中だなとあっけらかんとしている自分に驚く。

 今言って欲しい。今、その答えを聞きたい。その声で、私に愛の言葉を囁いて欲しい。

「穹ちゃんが、無事合格して大学生になったら、迎え来る」

「うん」

「良い子で待っててね」

「うん」

「だから受験、頑張るんだよ」

「うん」

「それしか言えないの?」

「うん」

「…じゃあ、俺のこと好き?」

 嗚咽が混じるほどの涙だった。

 必死に飼い主にしがみつく子猫のように抱きついて、小さく

「うん」

そう呟いた。

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