第9話 向日葵の海で進む

 この夢の世界に目覚めたばかりの頃、俺はこう思った。

 これは希死念慮と戦い続けた俺に対する最期のご褒美なのかもしれない。打ち負けた俺にご褒美をくれるなんて神様も粋なことをする。

 天使のように可愛らしく、向日葵のように笑う女の子との交流に俺は間違いなく浮かれていた。もし時間を巻き戻せるなら張り倒してやりたいくらい何も考えていないアホだ。


「あ。普通なら、どうせ時間を戻せるなら死ぬ前まで巻き戻したくなるものか」


 多分、それが普通。一般的に、大多数はそう思うのかもしれない。俺の思う普通が多数の言う普通と一致している自信はない。俺だけはみ出た考えをしているのではないか、自分の考え方は間違っているのではないかという不安には常日頃から、結構な頻度で、そして長年襲われ続けているものだから自分の考えに否定的になる癖がどうも拭えない。

 最近は結構自分の考えを肯定的に捉えて行動していたし、不安になっては死にたくなるということもなかったのにな。自殺をした後だけど。

 でもそうだな。夢の世界に来てからというものの、俺の原動力の九割は絵空でできていた。ちなみに残りの一割はゴム味のラーメンとかを二度食べるのはさすがに勘弁してほしいという食へのこだわり。


「じゃあ、うん、そうだな。時間を巻き戻せるとしても死ぬ前にも、希死念慮に憑りつかれる前にも戻らなくていいや」


 どうせ俺が俺である限り、どれだけ時間を巻き戻したところで結局自分を嫌いになって、少しでも直そうと努力しては空回って沼に落ちて、最後は死にたいという気持ちに憑りつかれる。同じ道を辿るに決まっている。

 きっと俺は誰と知り合って、どんな付き合い方をしても、どういう仕事に就いて、別の人生を歩んだとしても。耐えきれなくなる。それなら、自殺をした後に絵空と出会える今のままでいい。

 いい、けど。もし本当に時間を巻き戻せるのであれば、絵空に俺の自殺を暴露する前に、いや、もう少し前、電車に乗る前にまで巻き戻したい。電車に乗ろうとしなければ、電車を待つために駅に泊まろうとしなければ、きっと絵空にあんな顔をさせず済んだのに。


「……いや、場所とかタイミングとか関係なく、絵空の心が不安定なのか?」


 最近の絵空は少しずつ弱音を吐き出すようになった。最初はぽつぽつと、そして表面張力で保っていた水面に限界がきて、溢れ出るように。

 俺はそれを気を許してくれたから、心を委ねて本音を吐き出せる相手と思ってくれたから。なんて、都合の良い捉え方をしていた。こんな俺でも拠り所になれるならよかったという自分勝手な解釈だ。

 けど、もしも違ったなら。絵空が俺を弱音を吐ける相手と認識して口にしたわけではなく、現実の身体の状態に連動して絵空の心が不安定になっている。つまり、夢を見続ける絵空がなかなか現実に戻らないせいで危うくなっているのだとしたら。


「え、あれ、でも絵空は生きている。これに間違いはない。じゃあなんで起きないんだ? よっぽど状態が悪いから。それとも夢を長く見ているせいで身体と心が離れ始めている、そのせいで現実の絵空が起きれなくなっている?」


 どちらにせよ、ここに長居することは絵空にとってあまりよろしくない状態なのかもしれない。

 そこまで考えて、俺はふと思い出す。あの海での会話を、あのとき抱いた疑問を。


「俺はいったい何なんだ?」


 今まで何も思わなかったわけじゃない。絵空はこの夢の世界は自分が意識不明の重体に、生死を彷徨うときに訪れる場所だと語った。だとすれば、俺はどうしてここにいるのか。久し振りにこの謎について考えてみる。

 偶然にも、絵空が意識を手放した瞬間と俺の命が終えた瞬間が一致して起きたこと。まあ、ありえなくはない。が、絵空は言った。俺に出会うまで、この夢の世界では自分一人しかいなかったと。自分以外の人どころか他の生き物すら見たことがなかったと。

 だとすると、偶然一致したからここにいるという理由は弱い気がする。何年か前に人は三秒に一人の割合で死んでいると聞いたことがある。それだけの数なのだから過去に、俺以外の誰かがこの一致を引き起こしていてもおかしくはない。

 だとしたら、他に考えられるのは。


「……いやいや、それはさすがに都合良すぎるだろ。そうであれば双方にとって嬉しい話になるけど、いや、嬉しいか? まあ、相手がどんな人間だろうと関係ないか」


 頭に浮かんでは消え、そして再び浮かび上がってくる考えを払うように頭を左右に振る。

 それが一番納得いく話だけど、さすがにそこまで偶然で溢れていることはないだろう。期待するだけして、させるだけさせて違ったら残酷だ。

 そういえば、俺って意思表示してたっけ。財布に入っている運転免許証の記憶を辿る。駄目だ、全然思い出せない。そろそろ免許更新の時期がくるなと思っていたのだから仕方がない。書くとしたら新しい運転免許証が発行されたその日のうちだ。


「中学生ぶりか? 昔はもっと大きく感じたけど、想像より小さいなあ」


 考えても分からないなら調べよう。という、幼い頃に受けた教育の下、俺は図書館に訪れていた。絵空の町の図書館はどこにあるのか分からなかったが、俺の町なら知っているし。

 決して、海での件以来、絵空が俺のもとに来なくなったことが寂しくて、悲しくてたまらない。だから気を紛らわせようとしているわけではない。


「……明らかに避けられているんだよなあ」


 嘘だ。あんなこと言えば嫌われて避けられることくらい分かっていたけど、実際にされるとしんどい。それはもう泣きたいくらいしんどい。というか、避けられ始めて二、三日の間はまじで泣いていた。目が合っては慌てて目を逸らされ、走って逃げられた日にはその場で涙の滝を作る勢いで泣いた。

 それ以降、俺は活動範囲を限定した。絵空の町に出入りするのを止めて、俺の町に入り浸ることにした。お気に入りの場所は大型ショッピングモールの映画館。ショッピングモールに併設されているから当然衣食住が揃っているし、何より時間を潰せる。流れている映画は一つだけ、幼い頃に観た戦隊もの。

 どうしてそれが流れているのかは分からない。初めて観た映画がそれで、年を重ねるにつれ記憶から薄れていったけど、映画館の印象を強く残したからかもしれない。

 その映画を延々と見続けて、ふと思う。同じ使命を背負い、共に戦った仲間たち。最後は敵を討ち果たして大団円。それから先はどうなるのだろう。出生も性別も年齢も性格も趣味も異なるけど、使命を果たした後も関係は続いていくのだろうか。それとも、時が経つにつれて顔を合わせる頻度は減り、関係は薄れていくのだろうか。その場合、彼らはどう感じるのだろう。


「しんっどいなあ」


 出会いもあれば別れもある。まさに一期一会。関係が途絶えても積み重なったものまで消えるわけではない。なんて言う人もいるけど、やっぱり俺は耐えられない。その人との関係が途絶えるということはこれまでかけてきた時間が水の泡になったようで、その人の人生から俺は不要なものだと判断されたようで。そう考えただけで胸が締め付けられるように苦しくて、喉の異物感が気持ち悪い。


「俺って人間向いてないよなあ」


 ここ最近、絵空という話し相手がいたからついつい考えていることが口に出てしまう。これでは図書館で端から本を手に取りながら大きな独り言をこぼす変人ではないか。

 いや、でも、初対面の絵空から考えていることが気持ち悪いと言われたことだし、独り言の癖はもとからなのかもしれない。話し相手がいない時間が多かったし、それでも人の声が聞きたくて自分の声を……と、これはなかなかやばい奴なのでは?


「まあ、やばくなければ自殺なんてしないか」


 俺以外の誰かがいるわけでもないので開き直ることにして、独り言を続けながら空調の効いた図書館をぶらつく。

 そういえば、夢の世界の季節はいつなのだろう。というか、現実の季節もいつだっただろう。それを把握する余裕すらなかったことを今更ながらに気付く。何月何日とかは把握していたはずなんだけどな、書類の記載とかに必要だったし。

 気になったタイトルの本を片っ端から手に取り、日当たりのいい席に積む。ぽかぽかとした日差し的には春って感じなんだけど、夜空は冴えた冬の空って感じがするし、でも公園で遊んでいるときは夏の空気で、散歩する道は紅葉が綺麗で秋かなと思ったし。なるほど、季節の良いとこ取りをしているのか。


「さて、季節の問題を解いたら一番の難題に取りかかろう。俺は本を読むことができるのか」


 何を隠そう、俺が一番嫌いだった科目は国語だ。いや、中学校の肝試しでも主張したから全然隠れていないな。とにかく、現代文とか古典とかじゃない、国語。つまり、長い文章を読むことが嫌いだ。羅列された文字を見ていると眠たくなる。おやすみ三秒とまではいかずとも一分以内には眠りについてしまう。

 椅子に腰をかけ、積み重ねた本を上から順に手を取る。小児心臓病、長期入院のストレス、夢……明晰夢について。知りたいことはたくさんあったけど、俺にはそれらの知識が一切ないので基礎から学ぶ必要があり、読み物も多くなる。

 パラパラとページをめくり、見慣れない文字を辿る。だんだん目が滑っていき、頭に定着してくれない。


「定着しない知識、なのに図書館に本として存在している。この町は俺の記憶に基づいて作られている。けど、この本の知識の出所はたぶん……」


 記憶の混成。

 意識の同期。

 存在の融合。

 ここから導き出される答えは──。


「そうだとしたら、これがここにあることも納得できるんだよな」


 本を閉じて机に突っ伏す。それから横目でもう一つの本の山を見る。

 タイトルがない、写真が並んでいる本。並んでいる写真には俺や絵空が写っていた。カメラ目線のものは一つもなくて、まるで隠し撮り。これはいったいどの視点で撮られたものなのだろうか。

 生まれて大泣きをしている。ベビーカーからおもちゃを投げる。公園で無邪気に走り回る。病室で寝込んでいる。幼稚園で泥まみれになって大笑いしている。隅っこで一人おままごとをしている。小学校の教師に仕掛けた黒板消しの悪戯を教室のど真ん中で笑っている。教室の隅で読書をして静かに過ごしている。テストの点数で父親に拳骨を落とされる。検査入院をする。中学校の体育祭や文化祭で走り回る。保健室登校をして退屈そうに机に突っ伏している。高校で同級生と受験勉強に励む。集中治療室で全身状態を管理される。大学でサークル活動に盛り上がる。病室で寝込んでいる。社会人になり、同僚と飲み会に行く。セーラー服に身を包んで登校しようし、玄関で蹲る。家と会社を往復する。昼間に自宅周辺の散歩をするようになる。目から生気がなくなっていく。


「アルバム、というか記録だな」


 あまり見たいものではない。そして、あまり見てほしくないものだろう。けど、目が離せなかった。一枚一枚丁寧に目を通し、少しずつ眉間に皺が深くなっていく。

 過去の俺、こんなんだったんだな。絵空、こんな風だったんだ。どちらに対しても抱いた感想はただ一つ。

 思っていたのと違っていた。この一言に尽きる。


「現くん」

「……絵空」


 黒歴史を掘り起こして息苦しくなってきた頃に名前を呼ばれる。俺の名前を呼んでくれる子なんてもう一人しかいない。その子にももう呼ばれないのかなと思っていたから驚いて、心臓がきゅっと縮こまる。見上げれば無表情の絵空が立っていた。

 絵空は机に並んだアルバムを一瞥し、眉間に俺以上に深い皺を作る。その顔を見た俺は背筋に冷や汗が伝った。

 表情豊かであったものの、こんなにも不愉快そうな顔は初めて見た。それはもう怖いのなんので、考えるよりも先に椅子の上で正座になり口から謝罪の言葉が飛び出した。だが、絵空は俺の反応を全部無視する。

 バンッと大きな音をたててアルバムを閉じる。物への当たりが強い絵空を見るのも初めてのことで萎縮した俺は鋭い目を向けられては肩を跳ね、手首を掴まれたら引っ張られるまま絵空についていく。

 以前、俺は俺の妄想を止めたきゃスクールカースト上位の化粧盛り盛り目力激強女子を連れてくるがいいとかなんとか高笑いしたけど、それよりも本気で怒った絵空の方が怖いと身をもって学んだ。こんな対応をされてたら妄想なんて一瞬で散開する。


「こっち来て」

「え、何、なになに、どうしたの」

「いいから来て」

「あっ、はい」


 ぐいぐいと引っ張られるが、絵空の力は弱いし歩幅も小さい。すぐに隣に並んでしまいそうになるが、明らかに怒っている絵空の隣を歩く勇気はなく、合わせて歩幅を小さくする。俺の中にあった僅かな勇気はあの海で全て散ったのさ。

 図書館を出て、そのまま道なりに進んでいく。この先には何があったっけ。住宅街があって、公園があって、いくつかのクリニックと薬局が並んだ通称医者村があって。絵空ならそれだけあれば楽しい散歩ができると言いそうだけど、そういう雰囲気でもないし。


「私ね、別に純粋無垢なわけでも、いつでも無邪気なわけでも、ましてや根っから良い子ってわけでもないんだよ」

「えっ」

「明るくて良い子。私が学校生活を送るために、同級生の輪の中にいるためにはそうである必要があるの。そうじゃなきゃ、誰も輪の中に迎え入れようなんて思わないよ、こんな心臓に爆弾抱えてるような面倒な同級生なんて」


 淡々と、淡々と喋り続ける。沈黙の中、目的地も分からず歩くのは気まずいと思っていたから助かった。まあ、返答に困る内容なんだけど。

 そんなことない。少なくとも俺が知っている絵空は純粋無垢で、無邪気で、心優しい女の子だ。だから、俺は絵空に心惹かれたんだ。感情を揺さぶられたんだ。

 いつものように力説して否定したかった。でも、もしも自分が同級生だったらどうだろうと考え口を閉ざす。

 心臓に病を患った同級生が身近にいたら、俺はどうするか。決まってる。可哀想だなと同情して優しくする。だけど、途中からこんなこともできないのかと思い始める。そして、だんだん特別扱いされていてずるいという気持ちが芽生える。でも、絵空が悪いわけではないのでその気持ちを表に出すわけにもいかず、きっと彼女のいないところでひそひそと言い始める。

 悪い子じゃないんだけどね。ただ、ちょっと面倒だよな。何がきっかけで倒れるか分からないし、俺のせいで悪化したなんて言われたくないしな。とか、そんなことを。


「どうしても距離ができちゃうの。入退院の繰り返しとか、通院のための早退遅刻とかはもちろんのこと。体育に出られないとか、一人だけ給食の内容が違うとか、生きるために必要な小さな区別が、少しずつみんなの中で差別に変わっていくの。あの子だけ特別扱いされている、あの子だけずるい。病気なのは分かっていても納得できないってね 」

「そっか」

「もちろん、仲良くしてくれる子もいるよ。まあ、先生に仲良くしてあげてってお願いされたのかなとか、私と仲良くしていると周りから優しい子って評価をもらえるからかなとか、考えちゃうのが嫌なところなんだけど」


 この町で一番見晴らしのいい高台で絵空の足が止まる。掴まれていた手首が自由になり、吹き抜ける風に冷やされる。爪先に体重をかけてくるりと半回転し、振り返る。靡く長い黒髪から覗く顔には悪戯めいた表情が浮かんでいた。

 想像していなかった顔に目を丸める。てっきり、寂しそうな顔をしているか、それとも怒っているかのどちらかだと思っていたから。

 にこにこ、にこにこ。妙に圧のある悪戯めいた笑顔を浮かべたまま、絵空は俺との間にあった距離をつめてくる。なんだか嫌な予感がして半歩下がると、絵空がまた一歩近付く。身長差がなければ額がくっつきそうな至近距離。いつもならどきどきすると盛り上がる俺だが、今回ばかりは頬を引き攣らせるしかない。どきどきどころか、ばくばくして口から心臓を吐き出しそうだ。


「現くんって、どんな風に自殺したの」

「えっ。あ、あー、どうだったかな。あんま覚えていないというかなんというか」

「……現くんを見つけたとき、道路で寝転がっていたし車の前に出たのかな」

「かも、な? 一番手っ取り早いし、人様に迷惑かけるやり方だけど、目についたからふらーっといったかも」

「じゃあ、これは初体験だよね。この間、似たようなことしたけど、あれは非現実的な場所からだったし、初体験でいいよね」

「えっ。……は?」


 にこにこ、にこにこ。同じ表情を維持したまま、絵空は俺の手を握る。そして安全のために取り付けられた柵に近寄る。絵空がその柵に触れると、途端に劣化してぽろぽろと崩れ落ちた。

 いつの間に魔法を習得したんだ? 絵空が魔法少女になったらもう可愛いの塊、愛らしさの暴力、尊いの象徴になってしまうぞ。

 なんて、いつもの調子でふざけたことを言うなんてことはできなかった。今の俺に許されている行動は動揺を隠さず、戸惑いの声をあげることだけ。


「お、おい、もしかして」

「せーのっ」

「やっぱどぅああああああああああああああああああああああ」


 スカイダイビング再び。

 前回は空にある駅からの飛び込み。それにいくつかの雲がクッションになっていた。けど、今回は馴染みのある高台からの飛び降り。夢の世界とはいえど、現実味のある状況に前回以上の悲鳴が空へ地上へと響き渡る。

 だが、いつまで経っても耳が痛くなるほどの轟音も、殴りつけてくる空気の塊も襲ってこない。どういうことだと恐る恐ると目を開けば、俺は絵空に手を引かれたまま、宙を立っていた。


「……絵空さん、いつの間に空中歩行を」

「夢の世界で想像したものを自由に創造できるのは現くんだけじゃないんだから」

「ちょっと上手いこと言ったと思ってるだろ」

「自殺したって言うわりにはさ、現くんって怖がりさんだよね。空から落下したときも、今も、大きな悲鳴をあげる」

「そ、れは」

「生存本能が根強く残っているのか、それとも一種のは反射なのかなあ」


 雑談をするように振られた話題に俺は返答に悩む。言われてみれば確かにそうだなあ、なんて考えながら絵空に引っ張られるように一歩踏み出せば、地面の上と同じように宙に足が乗った。

 どうなっているんだこれはと爪先でトントンと下をノックしてみると、爪先は何かに当たることなく空を切る。そして、支えを失ったように身体は傾き、危うく落下しそうになる。足元に透明の板のような、空の駅で見た水晶の階段のようなものがあると思ったのだが違うらしい。

 慌てて支えてくれた絵空に余計なことをしないでよという目で睨まれる。そっと目を逸らして謝れば、絵空はふうと一息つく。よく見れば、図書館で見たときと比べれば笑顔が見られるが、それでもいつもよりも顔が強張っている。空を歩くイメージを実現するのは俺が想像している以上に神経を使うようだ。

 深呼吸を繰り返し、それから絵空は一歩、また一歩と進んでいく。しばらくして、コツを掴んだのか足取りが軽くなる。それに気を良くした絵空はふふんと鼻を鳴らし、勝ち誇った顔をして、そして言う。


「現くん、お散歩の時間だよ」


▷▶▷


 空を歩いた。見慣れた、変わり映えのない町でも空から見下ろせば新鮮な景色となった。

 高いマンションも小さく見えて面白い。戸建ての家は家主の好みで屋根が染められているから、上空から見るとそれはもうカラフルで綺麗だ。絵空の機嫌を窺い、不安に襲われていた俺は気付けば空中からの絶景に釘付けになっていた。

 それから絵空に連れられて俺の町からも、絵空の町からも離れた場所に辿り着いた。


「……ひまわりの、うみ」

「ね、海みたいだよね。このひまわり畑を見つけたとき、絶対に現くんを連れてこないとと思ったの」


 太陽に顔を向け、花びらを大きく広げた向日葵が一面に広がっていた。

 そよ風に撫でられ、太い茎をゆったりと揺らしている。これだけ立派な向日葵だと、突風が吹いたところでその身が折れることも花を散らすこともないだろう。

 絵空は向日葵畑の中へ進んでいく。背丈ほどある向日葵畑に埋もれていき、後ろ姿が見えなくなる。

 慌てて追いかければ、ふわふわと靡く長い黒髪とひらひらと揺れるワンピースの裾が黄色の花びらの隙間からちらつく。それを目印に後ろをついていく。


「ひまわりは太陽の移動に合わせて花の向きも変えることから太陽の花って言われているの」


 真っ直ぐ進む。気紛れに曲がる。再び真っ直ぐ進んで、じぐざぐと曲がってみせる。右を見ても左を見ても、前も後ろも向日葵ばかり。けど、向日葵の群生は揃って太陽に向かって花を広げているおかげで、どう進んでも方向感覚が狂うことはない。

 こんな風に確固たる目印があれば不安になって周囲が見えなくなることも、ふらふらと迷うこともなかったのだろうか。

 向日葵と一緒に太陽を見上げる絵空の後ろ姿を眺めていると、胸の中がきゅっとつまったように少しだけ息苦しくなる。


「その姿を見ているとね、元気が出るの。私もいっぱい太陽の光を浴びておっきくなるぞってね」


 歩き続けていた絵空の足が止まる。数秒遅れて、俺は絵空の隣に並んだ。

 視線を落とせば、絵空の小さな足がほんのり茶色に染まっていた。柔らかな土の上を裸足で歩いていたら当然のことかと思うと同時に、こういうところを裸足で歩いたら気持ちいいのかなと少し悩む。絵空に倣って俺も裸足になってみようか。

 そう思い始めたところで絵空がぽつりぽつりと、太陽に負けず向日葵を惹きつけそうなきらきらと輝かせていた目を伏せて、弾んだ声で向日葵への憧れを語っていた声をか細くして、苦し気に吐露する。


「私、いっぱい考えたよ。自殺するくらい苦しいことってなんなんだろう。死ぬ以外に選択肢がない状況ってどんなんだろうって」

「……」

「本当に、いっぱいいっぱい考えたの。いろんなことを想定して、確かに世界には病気以外の不幸だってあるだろうなと思って。でも、結局分からなかった」


 怒ってるかな。嫌われたかな。そんなことばかり考えていた自分が嫌になる。絵空は真剣に考えてくれていたというのに、俺はというと自分の発言を悔いて、うじうじしているだけだなんて。

 それだけでなく、たくさん考えたにも関わらず分からなかったことに対して苦しそうにしている。そんな絵空を俺は羨望とか嫉妬とかいろいろな感情が入り混ざって複雑な気持ちになっているのだから救いようがない。

 いつ死が訪れるか分からない。皆が言う普通を生きたいのにそれすら叶わない子からしたら自殺なんて禁忌だろ。禁忌を犯した俺の心に寄り添おうとしなくてもいいのに。そこまできたらもう、ただの天使のように可愛い女の子じゃなくなる。罪を憎んで人を憎まずを過ぎて、罪すら受け入れてしまう聖人になってしまう。

 それはもう、純粋とか愛らしいとかそういう言葉では片付けられない。綺麗すぎて、人間味が薄い、不気味な存在になってしまう。


「私は今から、すごく酷いことを言います」

「……絵空の酷いことはあまり酷くないからなあ」

「じゃあとっても性格が悪いこと。私がこんなこと言ったら言い返す言葉もなくて、黙るか謝るしかできなくなる。それを分かっていて、八つ当たりに使うすごく醜い言葉で現くんの心を抉ります」


 どうやらそれは杞憂だったらしい。

 向日葵に触れていた指先を俺に向けて、小さく頬を膨らませたまま言う。


「現くん、ずるいよ」


 ただの一言。されど一言。

 その一言にどれだけの思いが込められているのか、どのような感情が込められているのか、想像しきれない。

 焦げ茶色の目に真っ直ぐ射貫かれる。一言の中身にどれだけのものが含まれているのかは分からないけど、この視線が何を訴えているのかは分かる。

 あの日、散歩中に俺を感動させられたら絵空の勝ち。そのときは俺が夢の世界に来る前に何をしていたかを教えてほしいと絵空は言った。

 あのときは出会ったばかりで、お互い心の距離もあって遠慮もあって、言葉をつまらせた俺の姿を見て絵空は身を引いてくれた。けど、今回はそうもいかない。絵空に嫌われたくないと思うなら、絵空と向き合いたいと思うのであれば。

 そして、絵空に生きていてほしいと願うならば。俺は話すべきだ。


「孤独ほど虚しさを煽るものはなくて、虚しさほど手の施しようがないものはないと思ってる」

「虚しさ?」

「うん。ぽっかりと胸に穴が空いたように虚しくて、どうしようもなく寂しい。それを何かで埋めようと必死になって、けど一度空いた穴を埋めることはできなくて、無理矢理埋めてみても僅かな隙間が残っていて、そこからまた穴が広がっていくんだ」

「現くんはひとりぼっちだったの?」

「どうだろう。家族と仲はいい方だったし、同僚にも恵まれていたと思う。そういう意味では一人じゃなかったし、なんならそれで孤独感だとか虚しいとか言うなんて贅沢だとか言う奴もいるかもな。部外者は黙っとけって感じだけど」


 吐き捨てた言葉に絵空の肩がびくりと揺れる。そんなに怖い顔をしているだろうかと自分の顔に触れ確認する。そして、はたと気付く。俺の顔が怖いのではなく、部外者は黙っとけという言葉に反応したということを。

 確かに、俺の自殺について、その経緯において、絵空は他人だ。それこそ、絵空自ら言った通り、出会ってすらいない他人未満なのだから部外者同然だ。

 けど、他人未満だなんて言わないでほしい。言われたくないから、俺は絵空を部外者になんてしたくない。だから、語り続ける。

 要領の得ない、まとまりのない、同じことを繰り返してはぐちぐちと連ねるような話を聞かせる。


「周囲に人がいるほどさ、際立つものってあるじゃん。相手のスペックだとか、人間関係とか、隣の芝生は青いってやつ」

「私以上に絶望的な病状の子がいるのも知っているし、いろいろあったけど中学生になれたのは恵まれている。けど、何も気にせず走り回れる、飛び跳ねることもできる同級生が羨ましいと思う感じかな」

「絵空で言うとそうなるのかな」


 人間は欲張りだ。そこで満足しておけばいいものの、他人を見ていると更に欲しくなる。羨ましくなる。

 どうみても俺は恵まれていた。育児放棄や虐待とは無縁の両親だった。虐めは遠い存在で、加害者側にも被害者側にもならなかった。世を見れば、そういうことに苦しみながら生きている人がいるのに、なんて贅沢なのだろう。どうして俺はここまであれば満足だって思えなかったのだろう。

 心というのは難しいなあ。寂しいって厄介だなあ。虚しさってどうしようもないなあ。


「人がいるからこそ比べちゃうんだろうな。結婚願望があるわけではないけど、生涯を添い遂げたいと思うような人がいる奴が凄いと思うし、羨ましい。家でだらだら過ごすことが好きで一人で自由気ままにいたいんだけど、同僚の奴らが高校やら大学やらと昔からの友達と遊んでいるのを見ると俺って友達っていう友達がいないんだなと思う」

「でも現くん、学校に友達いたんでしょ。ほら、お祭りのときとか町の探索のときとかに話してたじゃん」

「その場その場で親しい奴はできるよ。学校でつるむイツメン、バイト先で仲良くしてる子、職場で愚痴を言い合う同僚や先輩後輩。でもその組織から抜けて、時間が経つにつれて関係は薄くなる。何年一緒に過ごしていたとしても、あっという間に連絡が途絶える。大人になってからも付き合いのある奴って少ないんだよ」

「……そういうもの、なの?」

「皆が皆、そういうわけじゃないよ。だからこそ虚しくなるんだ。俺が築いてきたのは上辺だけの関係なんだな。この先も、そういう付き合いしかできなくて、今親しいと思っている奴も数年経ってば顔を合わせることもなくなるんだろうな。こうやって、一人じゃないのに孤独感に苛まれて生きていくのか。あーあ、やだな、それって頑張って生きる意味あんのかな。つーか、死んだら努力してきたものも全部なくなるわけで、じゃあやっぱ頑張る意味ってないな。そう思うと生きるってしんどいし疲れるしいいことないや、早く死にてーって」


 全部が全部、無意味なものに見えてくるのだ。死んだら全部無に帰る。そりゃあそうだ。とんでもない功績を残した偉人でも死んだら手元には何も残らない。土に還る。生き方が異なっても、死は平等だ。楽しい思いをしても苦しい思いをしても一緒だ。ならもう、無意味なんじゃないかなあと思ってしまう。

 皆はどうやって折り合いをつけているんだろう。そもそも、こういうことを考えないのかな。じゃあ、考えている俺はやっぱり頭おかしいのかなとか思ってしまう。

 そう考えてしまえばもう自分の駄目なところをとことん遡る。心が疲弊するばかりの過去回想が始まる。覚えている限りのやらかしを思い出し、羞恥心と自己嫌悪に身もだえをする。親しくしている友人と喧嘩別れしたときのことを思い出した日なんて最悪だ。その日一日気分は憂鬱だし、俺の発言で場が静まり返ったときには不快な発言をしたかと不安になるし、やっぱり俺人間として生きるの向いていなとか考えて、この先のことを思って、絶望して、死にたくなる。


「一回でもそういうことを考えると駄目だな。最初は軽く思っただけの、笑い話レベルだったのにさ、ふとしたときに思い出すんだ。俺ってどうしようもない奴だなってネガティブになっていって、死にたいって気持ちがこびりつくんだ」

「……それで、死んじゃったの?」

「死にたいと思いつつも本当に死ぬつもりはなかったんだ。痛いの嫌だし、死に損なうのは怖いし、死んだらどうなるのかと考えたらそれはそれでぞっとするし」

「現くん、怖がりだもんね」

「そう。怖がりなんだ、救いようがないくらい臆病なんだ」


 そう。結局のところ、俺は口ではあーだこーだと言って、行動に移すことはしない臆病者なのだ。そして、後悔しても臆病風に吹かれて何もせずにいたら何もかもが面倒臭くなってしまった。

 現くんらしいね。なんて笑う絵空に救われた。

 自分なりに解釈しようと俺の話を噛み砕いて、一生懸命理解しようとしてくれる。その姿勢に泣きたくなった。

 寄り添わなくていいのにと言っておきながら、いざそうされると泣くほど嬉しいなんて、もう呆れて何も言えないな。きっと、絵空ならそんな風に優柔不断なところも現くんらしいとか言ってくれるんだろう。ついつい甘えてしまう。


「絵空。伝えないといけないことがあるんだ」

「うん。私もあるの」


 けど、甘えてばかりではいられない。

 そう、意を決して言えば、即答で返ってくる。ぱちくりと瞬きを繰り返し、絵空を見つめる。

 向日葵に埋められるように囲われた絵空は脳裏に焼き付くように、鮮やかに笑っていた。

 ああ、そうだなあ。絵空は賢くて察しの良い子だもんなあ。俺が気付いていて、絵空が気付かないわけないよなあ。


「やっぱり、私は生きたい。心臓が動いている限り、生きることを諦めたくない」

「安心した。こんな話を聞いたから生きることに不安になったとか言われたらどうしようかと」

「ちょっぴり怖いなとは思ったよ。でも、それも生きていないと分からないことだよね」

「そうだな。生きて、そして経験しないと分からないことだ」


 顔をあげて、向日葵にも負けない鮮やかな笑顔を浮かべて、凛とした声で宣言する。左胸を服を握る手は少し震えているけど、堂々と胸を張っている。太陽と向日葵を背景にした姿はとても眩しくて、直視することが辛い。でも、目を逸らしたら駄目なんだ。

 ここで目を逸らしたらきっと、俺はこの時間を神様が最期にくれたご褒美ではなく、神様が最期の最後に叩きつけてきた地獄だと悔いを残すことになる。それはやだなあ、絵空との時間をそんな風に思いたくないなあ。

 だから俺も笑う。絵空のように晴れやかな姿になれなくても、これが本当の本当に最後なのだと思うと辛くて、このまま一緒にいてくれという言葉を飲み込んで、喉が焼けそうなくらい熱くなっても。不器用で格好悪い、それでもって気持ち悪い笑顔になったとしても。俺も笑って、そして告げたい。


「さよならの時間だ」

「お別れ会をしよ」


 絞り出した声に重なった。

 今度こそ、目が点になる。再び瞬きを繰り返し、絵空を見つめる。直視することが辛いと言っていたけど、驚きが勝ってそんな考えもどこかへ飛んで行った。そんな俺を見て、絵空はにんまりと勝ち誇った笑みを浮かべる。

 あっ、なんか狙い撃ちしてやったりみたいなこと考えていそうだ。

 それは当たっていたみたいで、絵空は俺の両手をとり、ダンスをするようにくるくると回る。向日葵を踏まないように、押さないようにと注意をしているせいか、とんでもなく拙いワルツだ。


「向日葵畑で全てを告白して、それでも諦めない私の姿を見て安心してさようならなんてさせないよ。自殺なんてしなければよかった、生きていればこんな風に満たされたかもしれないのにって後悔しながら笑いながら泣いて、自殺した現くんにはそんな終わり方じゃないと許さないんだから」


 やっぱり、絵空には敵わないなあ。

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