第8話 くじらの花火
沈む、沈む。
身体が広く、深い、紺碧の底へと沈んでいく。
思考が死にたいという願いに沈んでいく。
感情が後悔と羨望に塗れて沈んでいく。
凄惨な家庭環境だったわけではない。
父親と言い争うこともあったが、大きくなるにつれ仕事の愚痴を家庭に持ち込むことなく、家族に不自由を強いることなく働くあの背中を尊敬するようになった。
母親を口煩いと思うこともあったが、俺をきつく叱った日だって温かいご飯を食卓に並べ、洗濯したシャツにアイロンもかけてくれた。
孤独な学校環境だったわけではない。
虐められることもなく、その場その場で一緒に行動することのできる友人がいた。
青春を熱く語る教師と出会うことはなかったが、進路相談には親身になってくれたし程よい教師に恵まれていた。
可もなく不可もなく、そこそこの成績を保ち、そこそこ良い進路を進んだ。
過酷な労働環境だったわけではない。
働くことが面倒臭くて出勤したくないと思うことは多々あった。けど、パワハラをする上司はいなくて、終業後に飲みに行ける同僚もいた。給料もそれなりにあったし、休日だってあった。残業も人並みにあった。
無趣味で無感動だったわけではない。やりたいこともあったし、好きなものもあった。
続きが気になる漫画があったし、買ったままやれていないゲームもある。テレビを見て旅行に行きたいと思ったし、映画を見て涙を流すこともあった。
どこにでもいるような凡人だった。楽しいこともあれば嫌なこともあって、悩みが絶えない日だってあった。
けど、それだって普通のことだ。生きていれば当たり前のことだって理解していた。どん底に落ちるような絶望はなかった。命が危険にさらされるようなこともなかった。
それでも、ある日から俺はふとしたときに死にたいと思うようになった。そのある日がいつだったのかは分からない。気付いたら死にたいと、終わりたいと考えることが当たり前になっていた。楽しいことがあればその思いは影を潜めたが忘れた頃にぶり返す。そして自己嫌悪に陥り、希死念慮に沈んでいった。
まあ、何が原因で俺は俺を早く終わらせたいと思い続けていたのかというのは分かっていたんだけど。分かっていて、直そうとして、どうしようもないとお手上げにして、気付かなかったことにした。そして、俺は俺を終わらせた。
魔が差して、うっかり自殺した。なんておちゃらけた言葉で濁したけど、俺は意図的に自分を殺したという事実に変わりはない。
「…………」
なんて、後悔をするつもりはなかった。というか、死んだ後に後悔する機会を設けられるなんて思ってもいなかった。分かっていたら自殺をしなかったのかと聞かれたら返答に悩むんだけど。
底へ底へと沈んでいく身体の力を抜いて、鬱屈した思考を放棄する。
あれだけ近くにあった空がどんどん遠ざかっていく。息を吐き出せばぽこぽこと気泡が浮かんでいく。それに視線がつられて、きらきらと光を反射する海面を見上げる。
俺と海面の間にいる絵空を眺める。辺りを見渡して、海面と同じようにきらきらした目ではしゃいでバタ足をする姿が眩しい。いつものように目を細める。
絵空は今、初めて来た海に、初めて見る海の中に感動して心を震わせていることだろう。そして手の届く限り全てを楽しみ尽くそうとしている。
ああ、本当に眩しい。絵空はいつだって、その眩しさで俺の心を抉ってくる。
一生懸命生きている姿に心打たれて、弾ける笑顔とお礼の一言で愛しさを覚えて、絵空を楽しませることに全力を尽くそうと決めた。けど、楽しむ姿を見る度に胸が軋む。
あんな風に生きることができれば俺の人生も違ったのだろうかとか。こんなにも全力で楽しんで生き切ろうと必死な絵空が今生きていることが奇跡で、死に囚われた俺は何もせずに生きていることが当たり前だった、なんて不公平なのだろうとか。どんどん溢れてくる自己嫌悪、絶え間なく襲ってくる後悔。
「……、……」
沈む、沈んでいく。
呼吸のできない海の中なのに息苦しさがいっこうにこなくて不思議だ。このまま海の底まで沈んだらどうなるのだろうか。抗うことをしない俺の身は海の底へと沈んでいく。ああ、このまま眠りにつくのも悪くないなあと目を瞑る。
沈む、沈んでいく。
空の上に惹かれたけど、これはこれで悪くない。満足感に口元を緩める。
しかし、沈んでいくのはここまで。手を握られ、上へ引っ張られる。目を開ければ首を傾げた絵空がいた。口をぱくぱくと開閉させて何かを喋っている。
「……! …………?」
「…………」
「…………!」
読唇術なんてものを習得していない俺では唇の動きで絵空の言いたいことを理解することはできない。なんとなく、なんとなくだけど俺の名前を呼んで心配する言葉をかけてくれている気がする。なので、なんでもないと返すように首を横に振る。
なんでもないという言葉を信じた絵空は無邪気に笑い、あちらこちらと指を差す。その先に目をやればこの世のものとは思えない、美しい光景が広がっていた。
「…………」
「……、…………!」
美しい珊瑚礁の庭を散歩するいろとりどりの魚たち。優雅に泳ぐウミガメ。青いイソギンチャクの中に隠れては顔を出す鮮やかなオレンジのクマノミ。大きな身体を広げて海の中を飛ぶように漂うエイ。きらきらと宝石のように海を彩る海月。などなど、などなど。
幻想的な海の世界に俺は息を呑む。こんな美しい光景が広がっていることに全然気付かなかったなんて、俺はどれだけ周りを見ていないのだろう。いや、今回ばかりは周りを見ていないというより、他のものに目移りなんてせず、絵空だけを見ていたという方が正しいか。
だって、こんなにも幻想的かつ美しい海の世界を目の前にしても、俺の心を震わせるのはその中で無邪気に笑い、全力で触れ合い、楽しもうとしている絵空の姿なのだから。
「……っ!」
「!?」
絵空に連れられて海の世界を楽しみ始める。
確かに存在している海の生き物に囲まれながら泳ぐ。イソギンチャクや珊瑚といった美しいオブジェに触れる。岩陰に潜む小魚たちとかくれんぼをする。現実ではできないことをして、遊び続ける。
他には何をしようか。宝石のようにきらめく海月を身にまとってみるか。なんて考えていると、ゆったりしていた視界がぐんっと流れていった。驚いて目を瞠ると絵空も同じような表情を浮かべていた。そのままお互いに顔を見合わせて、そして自分の状況を把握する。
「いるかさんだあ!」
目の前の景色がぐんぐんと流れていく。気付いたときには海から飛び出て、太陽に照らされていた。空から海へ落ちてそんなに時間は経ってないはずだが、空気に触れるのを久しぶりに感じる。
深く息を吸い込み、新鮮な空気で肺を満たす。そしてムセる。げっほごっほ。咳き込み続けている俺の隣で絵空は喜びに溢れた声を出す。
「現くん、現くん。いるかさんだよ」
「イルカだなあ」
「私、いるかさんに乗って海を泳ぐなんて初めてだっ」
「俺も初めて……ってか、絵空は海そのものが初めてなんだろ」
「うん。初めての海がこぉんなにも素敵だなんて、夢見たい!」
そう、イルカだ。突然視界が流れたのは、イルカが俺たちを背に乗せて泳いでいたからだ。
幼少の頃に水族館のイルカショーで見た憧れを体験できるとは思いもしなかった。当然、この夢の世界は絵空の、最近では俺の記憶と想像によって構成されているものだから現実のものと違うのだろうけど……どうせ、現実でこんな体験をすることはないだろうから違っていたとしても気にならない。
「つるつるのぺたぺたできもちー」
「肌触りはリアル、っぽい?」
「現くん、本物のいるか触ったことあるの?」
「おう。小さい頃に水族館のイルカショーで触ったな」
「ふむふむ、なるほど。水族館かあ」
「やっぱり行ったことない?」
「うん。元気になったらやりたいことトップテンに入ってるよ!」
キュイキュイと高い鳴き声をあげるイルカの背にべったりと張り付いて頬ずりをする。そして緩みきった頬のまま感想を述べる。思っていた通り、絵空は海だけでなく水族館にも訪れたことはないらしい。
イルカの背からだらりと腕を垂らし、冷たいような温かいような海水を手の平に溜める。そして、イルカに夢中になっている絵空にかけてみる。可愛らしく悲鳴をあげた絵空はすぐに頬を膨らまし仕返しだと両手でバシャバシャとかけ返してきた。
途中から絵空を背に乗せたイルカも参戦し、俺は水飛沫の勢いに負けてイルカの背から落ちることになった。あれだけ海の中にいても息苦しさはなくて、目を開いても痛くなかったというのに、今は鼻に入ったら痛いし咳き込むことになるから本当に不思議だ。
今度は大人しく沈んでいるわけにもいかないので、慌ててイルカの背びれを掴んでよじ登る。すると、何を考えやがったのか俺を乗せていたイルカはくるくる回り始めた。落ちてたまるかとしがみつくと、じゃあこれはどうだとでも言うように海に潜り背泳ぎを始める。
嫌がらせか、嫌がらせなのか! そんな俺の悲鳴はがぼがぼと情けない声になった。絵空はもういるかさんと仲良くなったんだねとか言ってるけど、よく見てほしい。このイルカの憎たらしい顔を。これが人間なら鼻を鳴らして俺を見下していることだろう。
「絵空、イルカを交換しよう」
「えー、私はいいけどさあ」
「よし、ならさっそぶへらっ」
「いるかさんたちが嫌だって」
俺を乗せたイルカは凶暴だ。けど、絵空相手なら大人しくするだろう。なんとなくそう思ってイルカの交換を提案してみた。すると、なんということだ。絵空を乗せてるイルカにはくちばしで突かれ、俺を乗せていたイルカには尾びれで叩かれた。
絵空を乗せているイルカに抵抗されるのはまだ分かる。可愛い女の子と冴えない男、どっちを乗せたいかと聞かれたら、そりゃあ可愛い女の子に決まっているからな! だが、俺に嫌がらせするイルカにも叩かれるというのはどういうことだ。もしかして私以外のイルカに乗ろうとするなんて浮気者! みたいな感じか。
「ツンデレか、俺の魅力にメロメロか!」
「現くん、罪な男だー」
「なるほど、ついにモテ期到来……イルカ相手にかあ」
それはそれで貴重な体験だ。でもそれとこれは別で、憎たらしい顔をしたイルカのすること全てを許容することはできない。
ということで俺はイルカの首らしきところに腕を回し、プロレスの技をかけるがごとく力を込めてやり返した。結果は言うまでもない。華麗に回転するイルカに合わせて視界がぐるりと回り、俺は再び海へ叩きつけられることになった。無念。
▷▶▷
俺とイルカの攻防はしばらくの間続いていた。最初のうちは笑いながら見守ってくれていた絵空だが、途中から飽き始めたようでイルカの背中で器用に船を漕いでいた。それに気付いた絵空を乗せたイルカはすいーっと泳ぎ始める。俺と熱い戦いを繰り広げていたイルカはこんな馬鹿らしいことやっていられるかとでも言うように溜め息のような鳴き声をあげ、俺の襟を咥えて絵空を乗せたイルカを追走した。
当然、扱いの差に納得できなかった俺は不満を訴えたし背中に乗せるように要求した。だが、イルカは知らんぷりを続けて浜辺に到着するまで俺を振り回し続けた。こんにゃろう、覚えてやがれ!
「真珠のネックレスに貝殻の髪飾り。んー、あとはなんだろう」
「白波のドレスに海草のベールとか?」
「ドレスは素敵だけど海草かあ、海草……」
「打ち上げられた海草だとあれだけど、海の中で揺られる海草は綺麗だったろ」
「確かに」
浜辺まで送り届けてくれたイルカたちを見送ってから、俺たちは貝殻を拾っていた。そして綺麗な貝殻を集めているうちに海のもので作る装飾品を連想するゲームを絵空は提案した。
こういうものは女の子の方が有利なのではと思ったが、意外にも絵空は苦戦していた。流行に鈍感そうだとか、おしゃれに無関心とは思えないのにだとか、喉元まで出かかった言葉は寸前で止めることに成功した。鈍感や無関心とかそういうものではない。きっと、そういう機会が少なかった、もしくは遠ざけていたのだろう。
遠ざけていた。それは絵空が望んで行ったのだろうか。違う気がする。絵空自ら、楽しそうなことから離れるなんて想像できない。だとすると、遠慮したのかもしれない。我儘を我慢するだけではなく、やりたいことそのものを口にすることさえも。
だから、元気になれたのなら何をしようかと夢を見て、胸の内でひっそりとリストを作っていたのだ。
「そういやさっきやりたいことトップテンって言ってたじゃん。他には何があんの」
「んーっと。ゲームセンターのおっきなぬいぐるみをとってみたいなとか、遊園地でコーヒーカップぐるんぐるん回してみたいなとか、お祭りで屋台を巡って花火も見たいなとか……あとあと、修学旅行とまで言わないから遠足に行ってみたいとか!」
「遠足もって……そんなに厳しい行動制限しないとだめなのか?」
「んー、そうだねぇ。激しい運動はもちろんだめ。人混みは感染症対策をすればある程度はいいんだけどね。でも、いつ発作が起きるか分からないし、迷惑かけちゃうなあと思うとね」
「そっか」
「なにより怖い、かなあ」
意外だった。心配させちゃうから、迷惑をかけちゃうかけちゃうから。そういう理由で遠慮をするのは想像通りだったが、怖いからという理由で遠ざかろうとするなんて思いもしなかった。
丸めた目に半開きの口と見事なまでのアホ面をさらす俺を見て、絵空はくすくすと控えめに笑う。白い砂浜をサクサクと音を鳴らして踏み、海に向けて小さく蹴る。そして、思っているよりもずっと足に吸い付いてきて重たい砂浜に足をとられて尻もちをついた。それが面白かったらしく、今度は大きな笑い声をあげた。
「遠出して、慣れない土地に行って、そこで発作が起きたらと思うととっても怖い。慣れた病院も私を知ってる先生も看護師さんも近くにいないってね、すごく怖いことなの」
「…………」
「というのもあって、私は自分から遠出を避けているところはあるかな」
いつぞやかのように砂浜で大の字になって寝そべる絵空。満足そうな顔をして一休みしつつ、ぽつりぽつりと語る。
俺は静かに、そして真剣に耳を傾けた。取りこぼさないように、波にさらわれないように、絵空の言葉一つ一つを拾い上げようとした。
分からなかった。慣れない土地に行ったとしても、交通の便が死んでいる田舎でなければ病院くらいどこにでもあるだろう。最悪、救急車を使えばなんとでも。なんて考えている時点で俺は絵空の思いを少しも理解できていないのだろう。理解してあげられないことに罪悪感を抱く、というのは絵空に失礼か。
「だからね、今がすごく楽しい。花火は見れなかったけどお祭りに行けた。にゃんこやいるかさんに触れ合うことができた。クッキーとか親子丼とかいろんなものが食べられた。そしてまさかのスカイダイビングにスキューバダイビングからのいるかと泳ぐ! もう、贅沢な時間だよ」
「……一番は」
「うん」
「一番したいことは? この際、全部叶えよう」
理解も共感も何もできなかった。ただ、俺は絵空のやりたいことを全部叶えたい。それだけを思った。
だって、あんまりじゃないか。生きていることは当たり前でないと誰よりも知っていて、だから今この瞬間を全力で楽しもうと必死に生きている絵空が、誰もが経験するようなことまで諦めなきゃいけないなんて。文字通り、夢としか見ることができないなんて。
寝転がったままの絵空の隣に座り、いつになく真剣な表情を浮かべて見下ろす。俺が本気で叶えようとしていることを察した絵空は悩ましい声をあげて口篭る。そして眉を下げ、困ったように笑う。
あ、この笑顔を見るのは久しぶりだ。絵空が心臓病のことを打ち明けてくれてからは見みなくなったのに。そう思ったときにはもう遅かった。絵空が言い辛そうにしている理由に気付いたときには取り返しがつかないくらい、俺は思いっきり絵空の地雷を踏み抜いていた。
「一番やりたいことは大人になりたい、かなあ」
現くんに何ができるの。叶えたいなんて言いながら、何もできないくせに、同情の仕方だけは一人前だよね。
なんて、罵ってくれた方が良かった。絵空がそんなこと言うはずないのに、自分が楽になる、ただそれだけのために俺はそれを強く望んでしまった。
俺は確実に地雷を踏み抜いた。絵空がしたくても実現できないことを、できないと分かり切っていることだから埋め立てていたものを掘り起こした。
自分の答えを聞いた俺を困らせているだろう、どうやって誤魔化そうかな。なんて、困ったような笑顔を浮かべながら悩まないでほしい。こんなときまで人のことを思いやらないでほしい。
「中学校はセーラー服だからね、高校はブレザーを着たいの。ちょっぴり着崩してみたり、可愛いカーディガンを着てみたり。大学に入ったらサークルにバイトにって忙しく過ごしたい。二十歳になったらお父さんにお酌しながらお酒を一緒に飲んでね、お母さんに飲みすぎよって叱られたい。社会人になったらいっぱい親孝行したいな。私の治療でお金をたくさん使わせたし、旅行にも全然行けなかった。だからね、初めてのお給料でとびきり素敵な旅行を贈りたい。それから片思いに胸をときめかせて、両思いになって浮かれて、好きな人と幸せな時間を過ごして、その人のお嫁さんになりたい。お父さんとお母さんに負けないくらい仲の良い夫婦になって生まれてきてくれた子どもにいーっぱい愛情を注いで甘やかすの」
両手で顔を覆っているから絵空がどんな表情をしているのか分からない。
けど、声が震えていた。
「どれだけ描いても叶えることのできない、絵空事だよ」
絵空の言う一番やりたいことは時の流れに身を委ねて生きていれば大半の人が何も考えていなくとも通る道だった。まあ、恋愛とか結婚はして当たり前、できて当然というわけではないけど。それを除けば、望むまでもなく手に入るものばかりだ。
だから、そんな風に、とうの昔に諦めているかのように語らないで。そこまで望むのは贅沢で罪なことだと思わないで。そう伝えたい。けど、言えなかった。それこそ、お前に何が分かる。部外者は黙っていろ。そういう話だ。
「私の名前ね、空を泳ぐ雲のようにゆったりと、空に絵を描くように自由に、自分らしく人生を歩めますようにって意味を込めてつけてくれたんだって」
「……よく似合ってるよ」
「でもそんな姿を見せてあげられなかった。私がこんな風に自由にできるのは夢の世界だけなんだ」
絵空に伝えたいことはたくさんあった。けど、どれもこれも言葉にできない。余計なことを言って傷つけるのではないか。余分なことを口走って幻滅させるのではないか。この期に及んで保身に走ろうとしている自分に嫌悪感を抱く。
でも、顔から両手を離して目元を赤くして力なく笑う姿を見たら、掠れた声でごめんねと謝られてしまったら、俺は黙っていることもできなかった。
「絵空はまだ死んでない。生きているならこの先のことは分からない」
「どうだろう。こんなにも長い間夢の世界にいることは初めてのことなの。だから、もう、とっくに」
「それだけはないって俺が断言する。現実の絵空はまだ生きているって俺が保証する」
「なんで、どうやって? 私、現くんのこと大好きだよ。私の知らないことをいっぱい教えてくれて、私のやりたいことを叶えてくれている。でも、それだけは無理だよ。だって現実では赤の他人じゃん、他人どころか会ったこともない人じゃん」
踏み込むかどうか、言いたくても言えない、そんな風に踏ん切りをつけることができないまま、中途半端な状態で言葉をかけた結果、案の定絵空を傷つけてしまった。
バネに跳ねられたように飛び起き、ガシッと俺の手首を握った絵空は目を瞠っていた。その勢いのまま長い文章を一息に述べる。その間、俺はどういう顔をしていたのだろうか。言い終えて数秒後、我に返ったように表情をはっとさせて俺の手首から手を放した。
目線を泳がせ、俺から視線を外す。そして顔を海に向けて、あっと声をあげる。その場から逃げるように立ち上がり、ちゃぷちゃぷと音を立てて海に入っていく。黒色のワンピースに身を包んだ小さな背中を目で追う。
絵空はこっちを見ない。逃げるように、じゃない。絵空は今、俺から逃げようとしている。必死に話題を逸らそうとしている。だから、俺の方を見ずに、指を差して無理矢理声を弾ませた。
「くじらさんだ」
「絵空」
「ねえ、見てみて、くじらさんがいるよ。ここから見ても分かる。すっごく大きいねぇ」
「なあ、絵空」
「あのいるかさん、きっと私たちを乗せてくれたいるかさんだよ。あのくじらさんを連れてきてくれたのかな」
「絵空ってば」
「現くん」
この話はおしまい。それ以上言わないで。
ようやく振り返った絵空に睨まれる。今までのように可愛らしいものじゃない。鋭い目で、本気で拒絶の意を込めてだ。直接言葉にされずとも言いたいことが伝わってきた。話を逸らさず、戻そうと食い下がった俺は言葉につまる。
結局、それ以上何も言うことができなかった。このまま話を終えたことにして深追いしなければいつも通りに戻れるのだろう。絵空はそれを望んでいる。ならあえて言う必要ないじゃないか。言ったところで、絵空を更に傷つけるだけだ。そして俺は後悔する。また、ふとしたときに自分の発言を思い出して頭を抱え身悶えすることになる。それなら、いっそのこと。
「本当に、大きなクジラだな」
「ねーっ。くじらさんの鳴き声って綺麗で、それでいて切なくて、ヒーリング効果があるって聞いたんだけどどうなんだろう」
「あー。俺も気になって動画で調べたことあるけどさ、子守唄系で取り上げられてることが多かったな」
二匹のイルカが並んで海面をジャンプする。俺たちに存在をアピールするように何度も、何度も。その周辺をよく見ると、絵空の言う通り大きなクジラがいた。イラストで見かけるような丸みを帯びた可愛らしい姿ではなく、平たくて長い。
尾を上下にうねらせ、白波が立つ。遠くからでもはっきりと見える迫力に俺たちは口を半開きにする。ここからでも十分すぎるほどの迫力なのだから近場で見たらもっと凄いのだろう。
クジラが起こした波にのまれるかもしれないが、イルカに乗って間近で見るクジラというのはとても魅力的だ。
もっと近くで見たいという欲に駆られ、数歩前に出る。波が足元までやってきて、靴どころか靴下までぐっしょりと濡れたが、それが気にならないくらいクジラに釘付けだった。
「絵空、足元気を付けて」
「大丈夫だよ~、きゃんっ」
「だいじょばないな」
「うう……髪の毛までびっしょりになっちゃった」
海上に顔を出したクジラは二匹のイルカに連れられて俺たちに近付いてくる。とはいえ、あの巨体だ。陸地に近づくにも限界がある。
ちゃぷちゃぷ、ぴちゃぴちゃ。動きを止めたクジラに引きつけられるように、波に逆らって歩みを進める。海面が絵空の膝に到達したところで俺たちは足を止める。絵空はもう少し近寄りたいと唇を尖らせたが、俺は首を横に振る。
俺ももう少し近いところでクジラを見たい。けど、これ以上深いところは危ない。水の深さが膝上から腰下のところにあるときは流れに逆らって歩いてはいけないというのは、洪水時の常識だ。膝下が浸る前に顔から転んでいたし、なおさら。
「うー。近づいて鳴き声が聞けないならせめて潮吹きだけでも見たいなあ」
「船に乗っていたらクジラが近づいてきて、潮吹きが見れた上に虹がかかった奇跡ってのがニュースに取り上げられてたな」
「何それ、見たい見たい!」
「多分、いや絶対見れる。念じるんだ」
「くじらさんが潮を吹くように?」
「そうそう。ひょうたんの中にオレンジジュースを入れる要領で」
「なるほど。潮を吹けー、そしてあわよくば虹よかかれー」
こめかみに人差し指をあて、ぎゅっと目を瞑って念じ始める絵空。念の強さでは絵空に勝てそうにないので、俺は具体的なイメージをすることにする。
とはいえ、俺も実物のクジラを見たことないし、潮吹きの場面だって当然遭遇したことがない。見たのはネットに流れていたニュースの動画くらいなので拙いものとなってしまう。そこはあれだ。実物の想像ができないのであれば妄想で補うしかない。俺の得意分野だ。
平たい背から打ち上げられる潮。青空に広がる飛沫とかかる七色の虹。その周りを飛び跳ねるイルカ。そして、それを見て、向日葵のような笑顔を浮かべてはしゃぐ絵空。うん、完璧な光景だ。
しばらくの間、俺たちはクジラの潮吹きを待っていた。そうしていると、クジラはイルカたちと共に大ジャンプをしてみせる。それから海の中に潜り、しばらく待っていると再び海上に顔を出す。
確か、潮吹きはくじらの呼吸だと聞いた覚えがある。つまり、この後やるのではないかと期待して、俺たちは前のめりになる。そして──。
「あっ」
「え」
空に花が咲いた。
赤色、青色、黄色、緑色、橙色、紫色、色とりどりの花が。
丸、星、ハート、柳、蜂、土星、さまざまな形をした花が。
クジラの背から打ち上げられた。
「きれい」
底抜けに青い空に打ち上げられた花火。
心躍る爆発音が波の音も感嘆の声も掻き消される。
波で揺れる海面にも花火は映し出される。
空も、海も、一面花火に埋め尽くされていた。
「ふふっ」
「ん?」
「お祭りで花火が見れなくて残念と思っていたけど、見れたなって」
「クジラの子守唄や潮吹きは見れなかったけどな」
「まさにファンタジーだね!」
花火を映した焦げ茶色の目が潤む。赤らんだ頬を緩め、俺の腕に抱き着く。膝下まで海に浸かっているから飛び跳ねることはできず、代わりに俺の腕を支えにしてゆらゆらと揺れていた。
本当に、どこにいても全身で喜びを表現するんだな。ああ、良かった。絵空が笑っている。この笑顔を守れるのなら黙っていることが正解なんだ。本当に、本当に……?
「なわけ、ないだろうが……っ」
絵空が望むから話は終わったことにする。絵空を傷つけるからこれ以上掘り下げることをしない。絵空に嫌われたくないから肝心な話は避ける。
ああ、そうだ。どれもこれも言い訳だ。本音を言えば俺は嫌なだけだ。言った直後に俺は何を喋ろうとしたのだろうと話題を掘り下げたことを後悔し、相手の反応を気にして話の中身を中途半端に終えてしまうことが。何気なく放った一言に微妙な反応を見せた相手を気にして、家に帰ってから思い出して吐き気に襲われることが。そういう気持ちになるのが嫌でやろうとしないだけだ。
やって後悔するよりやらずに後悔した方が自信喪失せずに済む。そのためならいくらでも言い訳を用意する。他人に責任を押し付ける。……というか、やらずに後悔するよりやって後悔した方がいい、そういうことを言える奴は大抵やって後悔するような失敗をしない。
馬鹿は死んでも治らないというのはその通りだと思う。自分のそういう行動が積もりに積もって自己嫌悪を加速させ、希死念慮を拗らせるようになったというのに。自殺した後でも治らない、というか死んでもなお腹を括ることができない。なんて酷い話だ。病院が医療従事者を抱えて逃げ出してもおかしくないくらい末期だと思う。
けど、今はそういう話をしている場合じゃない。そういう言い訳で逃げている場合でもない。俺は両手で自分の両頬を叩く。乾いた痛み程度で目が覚めるのであれば希死念慮に押し潰されてなんかいないだろうけど、一歩目を踏み出す勇気は多少なりとも湧いてくる。
「絵空は今も生きている。だって、絵空は俺と違うから」
とはいえ、本当に多少なりともだ。一粒程度の勇気だから絵空に制止をかけられたら吹きとんでしまいそうなので喋らせる隙を与えない。一息で言って、絵空の反応は確認せず次の話をする。
「絵空は空の上は嫌な感じがする、だから下へ行こうって選んだじゃないか」
「えっ」
「きっとあの先は天上だったんだ。だから絵空は嫌な感じがして、俺は惹かれた」
「待って、現くん。その天上ってどういう意味で言ってるの。それじゃあまるで」
「銀河鉄道の夜でも天上って表現してたんだろ?」
目を丸める、狼狽える、口の開閉を繰り返す。みるみるうちに血の気が失せていき、もともと白かった肌が更に蒼白くなる。震えた手で、弱々しい力で俺の服の裾を引っ張る。真っ青になった唇で恐る恐る確認する絵空の手を握り、俺はクジラとイルカがいた海を見つめる。
これ以上、絵空を見ていたら俺は話を続けられないだろう。こんな顔をさせたくない。笑ってほしい、楽しい思いだけをしてほしい。だからやっぱりやめようと思うことだろう。
だから、絵空から目を逸らした。正面から向き合うことをせず、告げる。
「俺は絵空と違って死んでるんだ。死んでここに来たんだよ」
「な、なんでそんなこと言うの。現くんだってまだ生きているかもしれないじゃん、病院で一命をとりとめているかもしれないじゃん」
「それはない。ありえないって俺が一番分かっている」
「だから、なんで!」
「だって俺が俺を殺したから。確実に、救いようがないくらいに」
俺は、絵空にだけは隠し続けようと思った。絵空が言った通り、俺たちは夢の世界で出会って仲良くなった。いろいろなことを一緒に体験した。けど、現実では知り合いにすらなっていない、他人未満の関係だ。だったら俺の暗くて嫌な部分を見せず、楽しい思い出だけを残せたらいいと思った。そうすれば嫌われることも、幻滅されることもないから。
けど、それじゃ駄目だ。今までやりたくてもできなかったことを叶えられる、楽しい夢のままではいけない。俺はいつまでもここで絵空と遊べたら幸せなのかもしれないけど、絵空にとっては良くない。
絵空は、間違いなく今を生きている。こういう話題が上がった時点で、タイムリミットは近いのだろう。だから、不安な顔をさせたままではいけない。向日葵のような笑顔を散らせてはいけない。
絵空はそろそろ目を覚まさないといけない。
「自殺しているんだ」
そのためにはこんなにも長い夢を見ているのは、もしかしたらもう死んでしまっているのではないかという考えを抱いている絵空に、ちゃんと生きていると納得させなければいけない。そして、俺がそれを断言できる理由を明かすことが一番説得力のある話だ。
声を荒げて、意味が分からないと頭を振る絵空を一瞥する。そして、再び目を逸らす。空を彩っていた鮮やかな花火はもうすっかりと消えていて、海の生き物たちの姿も見えなくなった。
足を濡らす波の冷たさは、主張の激しい鼓動によりこみ上がってくる吐き気を落ち着かせてくれる。深く息を吐き、吐いた分だけ吸いこむ。繰り返して、吐き出す息に少しずつ音を乗せる。そして、俺は話を続けた。
「生きることが苦痛だったわけじゃない。楽しいこともこれからもあった。けど、どうしようもなく嫌になったんだ。自己嫌悪を繰り返して、空虚な自分に吐き気がして、改善の余地がないろくでなしに絶望して。俺は自分を殺したんだよ」
「ね、ねえ。そういう笑えない冗談はやめようよ」
「俺が、よりにもよって絵空の前で、こんな悪趣味な冗談を言うと思う?」
自殺なんて絵空からしたらふざけるなと怒鳴り散らしたくもなる話だ。そんな話を俺が冗談でするわけないだろう。だって、今の俺は絵空に嫌われることを何よりも恐れている。可愛い女の子に嫌悪の色で染まった目を向けられるなんてそれだけで胸が痛くなるし、絵空にされたとなれば、二回目の自殺をしたくなる。
絵空もそんな俺を理解してくれているからか、それ以上この話を冗談やからかいだと言うことはしなかった。代わりに、俺の話が真実なのだと受け入れるしかなくなり、絵空は苦しそうに顔を歪ませる。
そんな顔をしないでほしい。俺はただ、絵空の中から死んでいるかもしれないという恐怖を取り除いて、まだ未来は残っているんだと安心してほしいだけ。それだけのために、俺は自殺を打ち明けたのだから。
「これは紛れもない事実で、変えようのない現実なんだ。だからこそ断言できる。絵空は長い夢を見ているだけで、ちゃんと生きているよ」
ああ、そういえばいつからか考えなくなっていたな。どうして俺は絵空の夢に現れたのだろう。自殺をした俺はどうしてここにいるのだろう。絵空といることが楽しすぎて、考えることを忘れていた。
疑問が再び浮かんでくる。絵空は生命の危機に陥って夢の世界を訪れた。長い夢なのはそれだけ危険な状態だということなのだろう。でも、空の駅で迷わず下を選んだ絵空なら、死を乗り越えたも同然だ。
でも、それなら、この長い夢に存在し続ける俺はいったい何なのだろう。
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