第4話 空の色は感情に染まる

 脳裏に焼き付くオレンジ色の夕焼け。あまりにも鮮やかで、目の奥が熱くなる。遊び疲れて、くたくたになった身体で浴びる夕日はなんだか懐かしくて、寂しくなった。

 一通り遊び終えた俺と絵空はその空を見て、そろそろ夜を過ごす準備をする時間だと言って夕食の準備や寝床の確保をすることが日課となりつつあった。なんて贅沢な時間の使い方。

 この夢の世界の夕焼けはいつも心を晴れやかにする気持ちの良いものだった。


 しかし、今日の夕焼けには紫の雲がかかっている。夢の世界に訪れて初めて見る色。それはそれで綺麗なものなのだけど、今はそんな夕焼けを見ていると、焦燥感に駆られたり、不安を煽られたりする。あまり見ていたくなくて、視線を落とした。

 ゆらり。ゆらり。ブランコに乗った絵空の影がゆっくり揺れる。隣に並ぶ俺の影はほんの僅かに動くかどうか。

 あれから、俺たちの間には沈黙だけが流れていた。


「ごめんね」

「何が」

「変な空気にしちゃって」


 絵空から告げられた事実。理解するまでに時間を要し、整理を終えるまでに更に時間を要した。一向に思考がまとまらない俺は現実逃避がてら、忙しなく動き回るマネキンを眺めた。そして、この病院はまるでドールハウスみたいだなあなんて他の事を考えていた。

 その感想は口に出ていたようで、絵空はそうだねと肯定の言葉を口にして笑った。その後も何かいろいろ言っていた気がするけど、覚えていない。それが最後の会話である。

 病院食を配膳し終えたマネキンたちは最初にいた位置に戻り、停止した。それを見届けた俺たちは無言で病棟から出て行った。あてもなく、ふらふらと病院内を歩き回り、遊ぶどころか会話する気力も湧かず、病院の敷地にある公園へ移動した。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。病棟での出来事が昼食時であったことを考えると、随分経った。空の変化が正確な時間であるならの話だが、夕焼け空になったのだから何時間も経ったことになる。

 長い長い沈黙を破ったのは絵空の謝罪だった。


「こういう話をすると絶対に気を遣われると思ったし、かける言葉に困らせちゃうから言わないようにと思っていたんだけどね」

「……」

「病院の様子を見せたら私のことを教えないと、きっと怖い思いをさせちゃうんだろうなと思って。かといって、病院に近寄ることを拒み続けてもおかしいなと思われるだろうし」

「……」

「だから、現くんが病院に目を向けた時点で話すしかなかったの。いろいろと隠すことに限界もきていたしね。自分で言うのもあれだけど、私って分かりやすいでしょう?」


 隠すことには限界がある。その言葉の通り、絵空の反応は分かりやすいものだった。思い当たる節がある。

 夢の世界に訪れる特定の条件を聞いたとき。食べ物に対して関心が薄いことが意外だと言ったとき。病院に行こうと提案したとき。他にもいろいろ、俺の何気ない質問や引っ掛かりを覚えて話を掘り下げようとしたとき、絵空は困ったように笑った。

 今なら分かる。あれは俺の質問に答えようとしたら自身が患っている病気について説明する必要があったから、それを隠して説明することは難しいから、本当に困っていたのだ。

 知らなかった、なんて言い訳だ。俺は絵空のデリケートなところに無遠慮に触れていた。なんて最低な奴なんだ。絵空は怒ってもいいくらいなのに、いつも困ったように笑うだけで、嫌な顔はしなかった。それをいいことに、俺は何度やらかしたのだろうか。

 自分の言動を後悔し、顔が上げられない。八つ当たりをするように、揺れる自身の影をじっとりと睨む。口の中が乾き、喉奥がきゅっとつまったように苦しい。やっとのことで浮かんだ言葉を吐き出そうとしても音にならず、零れるのは息のみ。吐き出した分を取り戻すように空気を吸い込み、乾いた喉に張り付いて咳込んだ。

 自己嫌悪と動揺に襲われ、心臓がざわざわと嫌な感じに脈を打つ。落ち着け、俺。心臓を静めるように胸を押さえ、今度こそ息を吸い込む。


「……絵空は」

「うん」

「想像力が乏しいわけでも、味覚音痴なわけでもない」

「……うん」

「食べたことがないものは知らないに決まってる」

「うん。だから味を想像できない。食べられないのだから食べ物には関心が薄くなる。正確には、私の記憶で再現する食べ物なんてたかが知れているから、食べることをしていなかった、かな」


 ようやく絞り出せた言葉に絵空は穏やかに相槌を打つ。絵空の顔が見れなくて、地面に向かって喋っているにも関わらず、声色で分かってしまう。

 絵空は今、笑っている。柔らかく、優しく。そして悲しそうに。


 俺は、絵空が浮かべるあの笑顔が苦手だ。弱いところを見せまいと、他人に心配をかけさせまいと。困りながらも健気に笑う姿がどうしようもなく苦手だ。それを見てしまったら、俺は何も言えなくなるから。下手なことを言えなくて、かける言葉に悩まされるから。

 黙り込んだ俺に何を思ったのか、絵空はブランコの座板に立つ。膝を曲げては伸ばし、それを何度も繰り返す。ゆっくりと揺れていたブランコは次第に速く、そして高くなる。

 ブランコに乗ったのも、立ち漕ぎしている子を見るのも、いったい何年ぶりだろうか。そんな、どうでもいいことを俺は考えて逃避する。


「見た目は自信作だったんだよ。ほかほかの湯気にあつあつのお汁。つるっつるで弾力のある麺」

「けど、ゴムの味がした」

「現くん、集めたことない? 食べ物の形をした消しゴム」

「あー。再現度がやたら高くて、全然消せないやつ」

「あれを集めることが趣味なの。退院したらこれを食べたいなって並べみたり、せめて夢の中で食べれたらいいなって握り締めて眠りについてみたり。まあ、食べたことがないから夢に出てきても味はしないし。ようやく退院できたとしても、食べたいものを食べる前に再入院するなんてよくあることなんだけど」


 心臓病食とは、心臓の負担を減らすために塩分量を制限した食事らしい。ちなみに水分制限もあるとのこと。一般的には一日の塩分量は六グラム未満になる食事を推奨されている。ちなみにこれは心臓病だけでなく高血圧や腎臓病にも適応する。

 そう、絵空は語った。だからポテトチップスなんて食べたことないし、ラーメンなんて論外だよね。なんて、付け加えられた説明に納得するしかない。

 コンビニに売られていたポテチがまんまじゃがいもの味だったのは、ポテチを一度も食べたことのない絵空がポテチイコールじゃがいもの認識をしていたから。ラーメンがゴムの味だったのは消しゴムから膨らませた想像だったから。ひょうたんの中に入っていたオレンジジュースがあんなにも美味しかったのはきっと調子が良いときに飲んで、めったに飲めない貴重なものだからとしっかり味わっていたから。

 塩分量六グラムの食事について考えながら顔をあげる。ほんのわずかな時間にも関わらず、久し振りに絵空の顔を見た気がした。

 絵空は俺の視線を無視して、金属特有の高い音を鳴らしてブランコを漕ぎ続ける。小さな頃から心臓が悪かったという絵空は公園で遊ぶことも少なかったのだろうか。それにしてはブランコの立ち漕ぎが上手だ。


「この夢の世界にいる私はとっても健康なの。走り回っても、飛び回っても、笑い転げても。息苦しくなることはなく、熱が出ることもない」

「……絵空」

「でもね、健康な身体を得ても一人ぼっちだった。だから走れても飛び回れても笑い転げられても。全然意味がないと思ったの。私、本当にわがままで欲しがりだよねえ」

「そんなことは」

「あるよ。病院にいるときはなんでもできる健康な身体が欲しい。健康な身体を手に入れられる夢の世界では一緒にいてくれるお友達が欲しい。願い事が一つ叶った次の瞬間には別のものが欲しくなるんだもん」


 わがままな自分を怒るように、日に焼けたことがないのであろう白い頬を膨らます。

 食べたいものを好きなときに食べて、走りたい場所を駆け回り、行きたいところへ遊びに行く。誰かと一緒に。例えば、大好きな家族や笑い合いたい友人と。

 こんな当たり前のことをわがままだというのであれば世界はわがままなんて可愛らしい言葉では片付かない私欲で溢れ返っていることになる。

 けど、俺たちが当たり前だと思っていることは、当たり前であることを前提として生きていることは、絵空にとっては喉から手が出るほど欲しいと願うほどのものなのだ。

 簡単に見えて難しいことだな。深く息を吐き出してから見上げた空は紫の雲が流れる夕焼けが刻一刻と黒ずんでいった。月も星もまだ見えない空は不安を煽るばかりだ。


「あのね、現くん」

「何?」

「初めて会った日に言ったでしょ。ここは特定の条件を満たしたときに見る夢の世界なんだって」


 俺が夢の世界に訪れた、俺と絵空が初めて出会った日。右も左も分からない俺にこの世界について説明してくれた絵空は確かに言っていた。

 この夢の世界は特定の条件を満たしたときに訪れるものだと。それが何か質問したときに答えはもらえなかった。いや、違う。悲しそうに、困ったように笑うものだから、俺は聞くことをやめたんだ。

 あの笑顔の意味が分かった今なら、特定の条件とやらがどういうものなのか少し想像することができた。しかし、俺はあえてそれについて深く考えようとしなかった。意味が分かった今だからこそ知りたくないと、本能的に考えることを拒絶した。

 だが、俺の考えなんて知らない絵空は今だからこそその条件を打ち明けようとする。

 俺は再び俯き、ブランコのチェーンを握りしめる。隣からざっと砂を擦る音が聞こえてきた。揺れていた絵空の影が止まった。


「……体調がすっごく悪いとき、っていうのが条件なんだ」

「それって」

「もっと正確に言うと意識が朦朧とするほど。それこそ、死にそうなくらいね」


 落ち着きを取り戻しつつあった心臓が大きく飛び跳ねる。どくりどくりと早鐘を打つ心臓の音は大きく、耳元で鳴り響いているようだ。頭がくらくらして視界が揺れる。胸がざわついて気持ち悪い。吐きそうだが、込み上がってくるものは喉につっかかる。

 じゃりっと砂を踏む音が近付き、俺の頭の上に影が落ちてくる。視線の先には何も塗られていない、丸い足の爪。

 そういえば、なんで絵空は裸足でいるんだろうと考えたことがあったな。この理由も、今なら分かる。入院生活が長く、靴を履く機会も少なかったからなのだろう。スリッパくらい履いていそうなものだが、実際はどうなのだろう。

 今この場に関係ないことを考え、落ち着こうとする。しかし、それは無駄に終わる。

 絵空は膝を折ってしゃがみ、俯かせた俺の顔を覗き込む。顔を見ることが怖くて、目を合わせられなくて、だから俯いて顔を逸らしていたのに強硬手段に出られた。

 居座りが悪くて、悪足掻きに目を逸らす。それでも絵空は熱を帯びて潤んだ目でじっと俺を射貫く。

 ああ、頼む。喜びに色付いた目で俺を見ないでくれ。期待を込めた目を俺に向けないでくれ。

 俺は絵空の期待に応えることはできないのだから。


「もしかして現くんも」

「ちがう」

「えっ」

「ちがう、ちがうんだ。絵空、ごめん。俺は、違うんだよ。俺は、俺は……っ」


 続きは言えなかった。いいや、口が裂けても言うべきではないと判断した。いつものように口を滑らせるなんて言語道断。俺はに続く言葉を絵空の前で言っていいわけがない。

 謝罪と続きのない言葉を繰り返す俺を見て、絵空は慌て始める。そして、何を思ったのか俺を落ち着かせるために頭を包み込むように抱き締めた。鼻腔をくすぐる花の香りは朝の名残りだろうか。柔らかい絵空の身体はどこまでも細く、抱き締め返したら折れてしまいそうだ。温かくて、とくとくと心臓の音が聞こえてくる。聴診器で自分の心音を聞いた絵空が安心したように表情を和らげたのは当たり前のことだ。

 だって絵空がここにいるということは、現実では死にかけているかもしれないということなのだから。


「言いたくなかったら言わなくていいから。ごめん、ごめんね」

「謝らなくていい。いや、謝らないでくれ。謝るのは俺の方なんだよ。だから、頼む。これ以上、俺を酷い奴にしないでくれ」


 絵空のように病を患って死にかけているわけじゃない。だから、俺は絵空の同類になることができない。俺は絵空の期待に応えることができないんだ。

 俺は俺の心臓が早鐘を打っていることがおかしいことを知っている。聞こえないはずの心音が聞こえて違和感を覚えている。全部当たり前のことだ。


 だって俺は魔が差して自殺を図り、間違いなく死んでいるんだから。


▷▶︎▷


 絵空は素直で無邪気な少女である。

 両親からたっぷりの愛情を注がれ、友人にも恵まれた。悪意を叩きつけられることなく、幸せに生きてきたのだろう。だからあんな風に目に映るもの全てが輝いているかのように楽しみ、向日葵のような笑顔を浮かべることができる。


 そんな風に思っていた過去の自分を殴りたい。

 何が、羨ましいだ。何が、その姿に嫉妬すら覚えてしまうだ。絵空は恵まれた環境に身を置いていたから純粋な心のまま育ち、何でも楽しめるわけではない。何度も死にそうな思いをして、いつ訪れるか教えてくれないくせに傍に居続ける死を恐れて、今という瞬間を大切にして生きているのだ。外を歩けることが当たり前ではないことを、生きていることが奇跡であることを絵空は知っているから。

 俺も知っている。死は突然訪れることを。その突然は不慮の事故とかそういうものではなく、ふとしたときに魔が差して自分で選んでしまうことを。

 そう考えれば生き続けられているというのは奇跡であるという言葉に納得ができる。


「……最低だ、俺」


 俺の呟きに反応する絵空はこの場にいない。取り乱した俺は少しの間一人になりたいと言って、絵空を突き放したから当然だ。それでも優しい絵空は俺の傍にいようとするものだから、俺から離れた。

 あのとき、絵空がどういう顔をして俺の背を見ていたのか分からない。怖くて振り返ることができなかった。……本当に、俺は怖がってばかりだな。

 土地勘がない俺が行きついたのは病院のすぐ近くにあるパン屋だった。鼻の下に白いひげを生やし、ふっくらとした頬のおじさんがトレードマークの看板。白い帽子がよく似合っている。

 そういえば、以前この近くを通ったときに絵空がこのパン屋の店長が中学校に来て仕事について話してくれたと言っていた気がする。職業体験の時期が近く、働くというのはどういうことかを話してくれたとか。その際、お店に来たときに中学校の名前を言ってくれたらサービスするよと言われたけれど実践する勇気がなかったと笑っていた。……絵空は職業体験に行けたのだろうか。


「なんで俺なんだよ」


 きっと、絵空のような子は珍しさはあっても少なくはない。それこそ、SNSが当たり前となった現代なら同類探しも容易なはずだ。そういう、同じ立場の子なら、きっと絵空の気持ちに共感できたはずだ。な

 なのに、なぜよりにもよって日頃から死にたいという気持ちに駆られている俺なのか。生きたいと思えることが凄いことだと思える俺なのか。何かの拍子に魔が差して、自殺をするような奴がここにいるのか。

 初めて絵空と住宅街を散歩した日、絵空は俺がここに来る前に何をしていたのか聞きたがった。それは自分と同じように何かしらの大病を患って死にかけているからだと、仲間を見つけたからだと期待したからだろう。あのとき、自分のことを話さなくて良かったと心から思う。

 五体満足の健康体。かかったことのある大きな病気と言えばインフルエンザくらい。しかも片手で数えられる程度。悲惨な虐めにあっていたわけでもない。家族仲はそれなりによかったし、友人にもそこそこ恵まれていた。それでも耐えられず、自殺を選んだ。

 絵空が欲しいものを全部持っているくせに、だ。


「部外者は黙っていろ、なんてよく思えたものだよ」


 漠然と死にたいと思い続け、自殺を選ぶ。それに対して命を粗末にしていると騒ぐ奴らも、勝手に哀れみ同情する奴らも。全員黙っていろと思っていた。死にたいと思ったことがない奴らに、より良く生きたいと思える奴らに、何が分かるんだと舌打ちをしていた。

 けど、絵空にも同じようなことを言えるだろうか。何でもできる健康な身体があって、欲しいものを全部持っているのに、どうしてそれを捨てることができたのと責められたら。お前には関係ないだろ、俺のことを何も知らないくせに。なんて言い返すことができるだろうか。

 ……多分、できないだろうな。このことについて知った絵空がどんな顔をして何を言うのか考えるだけでこんなにもしんどいんだから。

 深い溜め息を吐き出し、パン屋の駐車場に寝転ぶ。車止めの石を枕代わりにしてみたが、高さはちょうどよくてもあまりの硬さに眠れそうにもない。柔らかな枕は偉大な存在だったことを思い知る。

 ゆったりと流れる時間が煩わしくて、気を紛らわすためにぼんやりと真っ黒に染まった空を眺める。この夢の世界を訪れて、月も星も浮かばない夜空も初めて見た。もしかしてこの空は絵空の感情が反映されているのかもしれない。そうだとしたら、絵空は今落ち込んでいるのだろうか。


「それは、やだなあ」


 絵空は向日葵のような笑顔がよく似合う女の子だ。病気のことを知った今でもその思いは変わらない。太陽の方向に顔を向けてめいいっぱい花開く向日葵のように明るく、のびのびと笑っていてほしい。

 ぐるぐると回り続ける考えを消すために寝返りを打つ。もう寝よう。寝て考えることをやめよう。きつく目を瞑って視界を閉ざす。視界を真っ黒に染めた直後、アスファルトを踏む音が鼓膜を震わせた。驚き、急いで瞼を上げれば黒色のワンピースから伸びる白い足がそこにあった。その足をなぞるように視線を上に移すと、焦げ茶色の目を潤ませた絵空がいた。


「……絵空?」

「あの、あのね。その、えっと、んっと」

「ちゃんと聞くから、落ち着いて」

「現くんが一人になりたいって言っていたからね、私も一人で寝ようと思ったの。でもね、でも、どうしても不安になって。それで、それでね」

「うん」

「一人で眠るの、すごく怖いの」


 黒色のワンピースは小さな手できゅっと握り締められており、皺くちゃになっている。潤んでいた焦げ茶色の目からは大粒の涙がぽろぽろ零れ落ちていた。必死に伝えようとする言葉はたどたどしい。

 俺はどこまで馬鹿なのだろう。絵空は病院に近付くことを避けていた。病気のことを隠したいからというのもあるが、でもそれだけじゃない。病院に来ると嫌でも考えてしまうのだろう。

 現実の自分は今どういう状態なのか。まだ生きていられるのか。そんな簡単なことも思いつくことができず、一人で夜を過ごさせようとしていたのか。なんて情けない。

 さっきまで俺の頭を占めていた思考を追い出すように両頬を叩く。乾いた音は思っていたよりも響いたし、痛い。だがそんなこと知るかってんだ。ぶるぶると頭を振って、驚いた表情を浮かべる絵空を手招きする。


「いいの?」

「地面も車止めも硬くて寝心地悪いんだ」

「アスファルトと石だもんねぇ」

「だから柔らかい抱き枕が欲しいなって」

「えー、なにそれ。言い方がやらしーよ」


 不安に押し潰されそうになっていた顔に花が咲く。

 ああ、これだ。俺は絵空のことをよく知らない。絵空という一人の人間において一番重要な部分である、病気のことを今日ようやく知ったくらいだ。そんな俺が確信をもって言えること。絵空は笑っているときが一番可愛い。安心したように、嬉しそうに、明るく、柔らかく、向日葵のような笑顔が一番似合う。

 くすくすと小さく笑った絵空は地面に膝をつき、伸ばしていた俺の腕を枕代わりにして寝転がる。ぴっとりとくっついてくるので、頭を撫でて抱き寄せてみる。嫌がられたらどうしようと嫌な汗がじっとりと滲むが、絵空は嫌な顔をせず、ふふんと笑う。その表情に酷く安心した。

 安心に身を委ねてすっぽりと収まる小さな身体の柔らかさと花の香りを堪能してみる。調子に乗りすぎとお腹を小突かれた。


「現くん、見てみて! 流れ星!」

「おー、初めて見た」

「ほら、あっちにも! そっちにも!」

「つーか、これ。流星群ってやつじゃ」

「流星群! きゃー、すごいすごい! きれいだよ、ねえねえ」


 二人並んで真っ黒な空を眺めていたら一筋の光が描かれる。

 高い声をあげてはしゃぐ絵空ほどではないが、初めて見る流れ星にそれなりに興奮した。一つ二つと流れる星を数えているうちに、星々は絶え間なく流れていく。これにはもう大興奮。

 寝る姿勢に入っていた俺たちは勢いよく起き上がり、あほみたいに口を開いて星空を見上げる。


「こんな夜、初めてだよ!」


 俺は少し前まで真っ黒に染まった空を見て、絵空の感情が反映されているのではないかと考えていた。実際に俺のもとに来た絵空は不安に押し潰されそうな顔をしていたし、ぼろぼろに泣いていた。となると、突然現れた流星群はなんだろう。その疑問は興奮に身を任せて抱き着いてくる絵空によって解消される。

 紅潮した頬に弾けるような笑顔。感動で身震いをした全身で表現された喜び。そんな絵空を見て、顔だけじゃない、顔も熱くなってきた。

 ああ、俺は存外単純な男なのかもしれない。


「現くん、ここに来てくれてありがとう」


 たった一言。その一言だけで俺がどんなに救われたか、絵空は知らないだろう。知らなくていい。

 この一言だけで、俺は自分のことを絵空に打ち明けることをしないことを決意した。胸の内に溜め込むことでどれだけ自分を嫌うことになったとしても、死んでもなお希死念慮に襲われ続けることになったとしても、絵空を傷つけるような事実を隠し続けようと思えた。

 なぜ俺が選ばれたのか分からない。大した理由じゃないどころか、理由そのものがない可能性もある。それでもいい。俺は決めたのだ。

 現実の絵空が元気になるまでの間、この子が楽しいと思えることをいっぱいしようと!

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