第3話 マネキンは踊る

 ここにやってきてから数日が経った。時計がないので正確な時間は分からないが、この夢の世界は現実と変わらず太陽が東から昇って、西へ沈んでいく。太陽を追いかけて、月も同じように東から昇って、西へ沈む。こうして朝と夜が入れ替わる。

 正確な時間が分からずとも、空の色で大体どれくらいか把握できるのであまり困らなかった。生前、時間に追われるように生きてきた身としては時間が分からないまま過ごすことは落ち着かなかったが、人間は順応性が高い生き物である。この数日間で慣れたし、時間を気にしなくていいというのはそれだけ自由でいられるということで、気楽だった。

 それはそうとして、この夢の世界では空腹感や眠気を感じることがない。俺は既に自殺により死んでいる身なのでそういうものだと理解したが、五感が生きている頃のままというのもあって、食欲や睡眠欲を満たさないと落ち着かなかった。生前のルーティンというやつだ。

 じゃあ、絵空はどうなんだろうか。ふとききなり、雑談がてら聞いてみた。


「寝る場所はそのときどきで変えてるの。せっかくだから冒険しないとね! 食べ物は……気分によって?」


 絵空が好奇心旺盛なことはこの数日で十分すぎるほど理解した。だから、絵空が冒険をしながら寝る場所を探すなんてことは想像に容易い。だからこそ、好奇心旺盛な一面をこの数日で何度か見たからこそ、食事に関する答えは予想外だった。


 想像力に左右されるとはいえ、ここはイメージしたものを自由に作り出せる夢の世界。つまり、好きなときに好きなものを出したい放題、食べたい放題というわけだ。そんな夢の世界で絵空が気分によって食べる、ということは気分が乗らなければ食べることすらしないなんて、思いもしなかった。

 俺の動揺を察した絵空は困ったように笑う。どうやって説明しようか、なんて返したらいいのか、言葉を迷っているような笑顔だった。

 そんな顔をされているのに、気にせず踏み込めるほど俺のコミュ力は高くない。ということで、俺は明らかに何かあるのだろうけど、それ以上話を聞くことをせず、そっかの一言だけを返してその会話を終えた。

 話題を掘り下げられないことに安心した絵空は俺の手を握り、それじゃあ今日の寝る場所を探しに行こうと飛び出した。

 寝所はそのときどき、せっかくだから冒険をする。その言葉の通り、絵空の選ぶのは普通だったら立ち入りができない場所ばかりだった。


「家具屋さんのベッドはどれもこれも寝心地がいいものばかりなの」


 例えば閉店時間が過ぎた家具屋。

 子ども時代、誰しもが一度は考えたはずだ。店に並んだ大きなベッドを独り占めして心ゆくまで眠りたいと。

 俺も考えたことがある。店員の目をかいくぐって閉店時間まで店に残れたら、叶うのではないかと。しかし、それは実現されることはなかった。当然だ。閉店時間を過ぎた店に忍び込んでも子どもの悪戯で済まされる年頃では親の目があり、一人にはなれない。親の目が離れる頃にそんなことしたら犯罪となる。少年の夢を叶えるために前科をもつ勇気はない。

 儚く散った少年の夢。それを絵空は叶えてくれた。

 明かり一つ灯っていない店の中に忍び込み、ベッドが陳列されたフロアまで昇る。停止したエスカレーターを昇るのはなんだか奇妙な感じだった。辿り着いたフロアに並ぶ多種多様のベッド。選び放題使いたい放題。興奮のあまり一つ一つ寝心地を確かめ、ベッドを選んだくらいだ。

 これが初日の夜。道中で寄ったコンビニでポテチやコーラを買っていき、店のベッドで寛ぎながら食べるという贅沢な一時。コーラは砂糖の味しかしなかったし、ポテチはまんまじゃがいもの味だった。


「夜の学校は外せないよね!」


 そう言われたのは二日目の夜。

 ちなみに日中は絵空が街案内をしてくれた。たくさん歩いてへとへとになってきた頃に見えてきた中学校。時計の針は止まっていたけど、一定の間隔でチャイムが鳴っていた。中学校とか懐かしいなあと散策をした。

 理科室には今にも動き出しそうな人体模型があったし、美術室には七色の絵の具があった。絵の具を見つけた絵空ははしゃいで絵を描き始めたのだが、お世辞にも上手とは言えない猫の絵だった。ついつい笑ってしまい、唇を尖らせた絵空に現くんも描いてよと筆を押し付けられたので俺の画伯としての才を存分に見せつけてやった。何も床を転げ回るくらい笑わなくてもいいと思う。最上階にある音楽室にはピアノが置いてあったが、残念なことにうんともすんとも鳴らなかった。

 誰もいない中学校を遊び尽くし、日が沈んできたから保健室で休もうという話をしたとき事件は起きた。動き出しそうな人体模型が動き始めたのだ。理科室の前でクラウチングスタートを構えていた。二人揃ってあげた悲鳴をピストル代わりの合図となり、人体模型は走り出す。慌てて上の階に戻ると、うんともすんとも鳴らなかったピアノが猫踏んじゃったを弾き始めたときには耳を疑った。そしてピアノの音を聞いた人体模型が踊り始めるので目を疑った。更に踊り始める人体模型を見て私もやると言って一緒に踊ろうとする神経を疑った。疑いすぎて放心状態となった俺はしばらくの間独りでに曲を弾くピアノと仲良さげに踊る絵空と人体模型を眺めていた。なんだこのカオス状態。最後には一人と一体がポーズ決め、ピアノの曲が終わる。楽しげに笑う絵空とにんまりと笑みを浮かべる人体模型のハイタッチを見て考えることをやめた。


 このように、俺は絵空に連れられていろいろなところを回った。

 駅のホーム、大きな車の中、キャンプ道具を売っている店、寝具を持ち込んで軽トラックの荷台。どれもこれも一度はやってみたいと思うような場所だった。

 そして、数日間一緒に過ごして俺は気付いたことがある。絵空は味音痴だ。ラーメン屋を見かけて無性に食べたくなり、行こうと提案した。少し躊躇っていた絵空は半ば強引に、俺に引きずられる形でラーメン屋に入った。そこで出たラーメンはあつあつでいい香りがしたけれど、ゴムの味がした。目を逸らす絵空を見て察する。味音痴。正確には味への想像力が乏しいから食への関心が薄いのだと。


「なら、俺が補うしかないよなあ」


 ということで俺は今、イメージを具現化させる練習に励んでいる。想像力イコール創造力に直結するという話は中二を過ぎて治ったはずの病がぶり返しそうになったが、身悶えしたくなることまで思い出しそうなので堪えた。

 上手くいったら絵空にサプライズでもしようという企みをもとに始めた練習なので、こっそり隠れて行っている。絵空は簡単にやっているように見えたので余裕だろうと思いきや、かなり難しい。全然上手くいかなくて、早々に挫けそうになった。

 頭で想像するだけでは出てこなかった。ならばと目を瞑って念じてみるが変わらず。あのとき、絵空はどうやってひょうたんの中からオレンジジュースを出したのだろうか。初めて見たあの出来事のことを思い出す。……そういえば、オレンジジュースはしっかりと味が付いていて果肉も入っているくらい本物に近かったな。つまり、かなり具体的な想像をしないといけないということか。

 ひょうたんの中にオレンジジュースなんてことができるのならば、花をクッキーに変えることも可能なんじゃないかと道端に咲いているピンクの花と睨めっこしていたのだが一切変化が見られない。これ、クッキーにできたら絵空はすっごく喜ぶと思うんだけどなあ。

 凝り固まった肩を回し、背筋を伸ばしてからごろりと後ろに倒れる。


「あ、今日は白なのか」

「やだ、見ないでよ、えっち!」

「ぐえっ」


 夢の世界に来て二度目の踏みつけだった。

 初めて会ったときと変わらない黒色のワンピースに身を包み、そこから伸びる白い生足。今日も靴を履いていないので、俺の顔を優しく踏むのは裸足だった。

 二度目なのだからふくらはぎを撫でても許されるだろうかと邪な気持ちが浮かぶと同時に絵空は足を下ろしてすすっと離れる。もしかしてまた声に出ていたのだろうか。いや、出ていた場合はすかさず気持ち悪いと言われるので出ていないだろう。一度目のことを思い出して警戒したというところか。

 よっこらせとじじ臭い台詞を口にしながら身体を起こす。最終確認として、ピンクの花を一瞥するもクッキーに変わる兆しはない。今日も駄目な日なのだろうと肩を落とし、立ち上がる。


「現くん、何してたの?」

「乙女の秘密」

「男の子じゃん」

「男の心にも乙女は住んでいるんだぞ」

「ごめんね。現くんの言葉、できるだけ理解したいなって気持ちはあるんだよ。でもぜんっぜん意味分かんない」

「だろうな。俺も意味分かってないし」


 今日も絵空はころころと鈴を鳴らすような笑い声と向日葵のような笑顔を浮かべて楽しそうにしている。何かいいことでもあったのかと聞けば、よくぞ聞いてくれたという顔をして背中に隠していた両手をばっと挙げる。数秒遅れて、ひらひらと花びらが落ちてきた。

 花の名前には詳しくない。だからこれらが何の花から摘まれた花びらなのかは分からない。けど、花を綺麗だと思う心はある。加えて、絵空の手の平から離れた色とりどりの花びらはシャワーのように絵空を包み、本当に綺麗だなあと、ただただ見惚れた。


「現くん、最近お花を眺めてぼんやりしてるから好きなのかなあって」

「俺が好きというよりも……」

「というよりも?」

「いや、なんでもない」


 俺がというより絵空が好きそうだから。なんて歯の浮くような台詞が喉元まで出かかって、声にはしなかった。花を選んだ理由はそうなんだけど、目的をまだ達成してないからな。かっこいい台詞を吐くのに成果はないなんてダサいじゃないか。

 絵空のつむじに黄色の花びらが乗っていた。微笑ましい気持ちになりながら指で摘み、綺麗だなと伝える。俺の言葉に満足した絵空はふふんと鼻を鳴らしてから、ここ数日でお馴染みとなってきた言葉を口にする。


「さて、今日はどこに行きましょうか!」

「定番は回りきった感じあるもんな」

「遊園地とかあったらよかったけど、ないからねぇ」

「簡単そうで難しいよな。遊園地を細かくイメージするって」

「ねーっ」


 朝、絵空の家をスタート地点に住宅街をぐるりと散歩しながら話し合う。どこを冒険しよう。何して遊ぼう。そんなことを小一時間くらい。

 ぱっと思いつくところは一通り回った。ゲーセンとかアミューズメントパークとかあれば良かったのだが、この世界は絵空の記憶により構成されている。彼女の無意識下のうちに再現できるものは身近にあって、馴染み深いものでないとできないらしい。

 その証拠に、絵空の記憶で補えない隣町はなんとなくの雰囲気でしか作られていなかった。同じような建物。似たような店。挙句の果てには子どもの落書きのような駅とかもあって、不安を覚えるようなものだった。なんか、そんな感じのホラーゲームってありそうだよなと呟いたら、今私にそんなこと言ったら本当に出てくるよと言われて小さな悲鳴をあげた。というのが昨日の出来事。

 なので、隣町は候補に挙がらない。県外なんて論外だ。 表現が薄い場所で遊んでも楽しくないからな。

 ひょうたんのカーテンがある家で一休み。最早日課になっている、ひょうたんの中に注がれているオレンジジュースを飲む。

 絵空はオレンジジュースを飲みながら、今日も大きなひょうたんはできていないねと肩を落とす。子どもくらいの大きさをしたひょうたん、俺も一度は見てみたいなあ。そう返せば、だよねと力強い返しをもらう。

 風に揺らされてカラカラと鳴り響くひょうたんの音に耳を傾けているうちに、ふと閃いた。


「夜の病院とかは?」

「えっ」

「夜の学校ときたら夜の病院だろ。けど、一度も行ってないなって」

「あー、うん。そうだね、そうだよねぇ。病院、病院かあ……」


 この町には大きな病院がある。何度か遠目で見かけたことがあるけど、近寄ったことや中に入ったことはない。

 縁もゆかりも無い大きな病院。数度しか見ていないが、その度に胸の奥がざわついた。もしかして、自殺をした後、俺は病院に運ばれたのだろうか。それとも別の理由があってのざわつきなのだろうか。理由が知りたくてあの病院に足を運びたいというのが建前。

 本音は生まれてこの方一度も入院をしたことがないので、夜の病院に興味があるから行ってみたい。

 夜の学校でもあれだけはしゃいでいた絵空だから、夜の病院に対して二つ返事で頷くと思っていた。しかし、その予想は大きく外れた。

 病院という単語に絵空は表情を強張らせて言葉を濁す。背伸びをしてみたり、しゃがんでみたり。あーうーと唸ってみたり、左右に揺れてみたり。とにかく落ち着きがなかった。明らかにおかしい様子なのでどうかしたのか問いかけてみると、絵空は困ったように笑った。


「夜の病院は怖いなあ」

「人体模型と踊っておいて今更?」

「そうなんだけど、そうじゃなくて。んーっ」


 独りでに曲を演奏し始めるピアノと踊り始める人体模型。そんな異形と仲良くし始める絵空が夜の病院を怖がるとは思わなかった。でも、嘘ではないのだろう。震えた唇をきゅっと噛み締め、白い肌を更に青白くしている。

 今更ながら、今だからこそ。心の内で告白しよう。

 俺は絵空のことを好意的に思っている。それもかなり。いつでも楽しそうに、そして幸せそうに浮かべられた向日葵のような笑顔。くるくると回る忙しない足。興味のあるものにめいいっぱい伸ばす腕。日常的なものでも、些細なものでも、全力で楽しむことができる心の豊かさ。俺の欠けているところを全て持っていて、羨ましいと思うと同時に妬ましい。

 そんな風に、希死念慮に支配されていた俺の感情を搔き乱してくれるところに心惹かれている。そして、それ以上に可愛いと思っている。可愛いと思っている女の子にそんな顔をさせるのは本意ではない。


「無理強いはしないよ。他に候補を考えよう」

「ん-。ううん、いいよ。病院行こうか」

「え、でも凄く嫌そうな顔してたぞ」

「まあ、そうなんだけど。どの道、いつか話すことになるし、本当はもっと早くに伝えるべきことだから」


 背を向けた絵空がどんな顔をしているのか分からない。百面相をしているけど、泣き顔とかそういうものは見たことがなくて、だから丸まって更に小さくなった背中に合わせて絵空がどんな顔をするか、想像ができなかった。

 俺は後悔した。こんな空気になるのなら、夜の病院なんて言わなきゃ良かった。自分の発言を後悔し、自己嫌悪に陥る。

 俺はいつもそうだ。少し慣れてきた頃に口が軽くなり、余計なことを言う。その場の空気を白けさせ、人間関係をぎくしゃくさせる。帰宅途中、風呂に入っているとき、眠りにつこうと目を瞑ったとき。ふとしたときに自分の発言を思い出し、あんなこと言わなければよかったと頭を抱える。それを数日間引きずり散々反省会をしたというのに、数ヶ月後に同じような失態をして芋づる式に思い出しては身悶えする。

 ああ、思い出したら嫌になってきた。死にたくなってくる。もう自殺した後だけど。

 黙り込んだ俺に絵空は何も言わない。いつもなら両手を顔の前で振って、慌てて何かを言ってくれるのに。それが寂しくて、たまらなく不安で、足が地面に縫い付けられたように動けない。


「でもね、夜の病院は本当にすっごく怖いの。だから、行くなら今からにしよ?」


 数歩前に足を進めてから振り返り、そう言う絵空はやはり困ったように笑っていた。


▷▶︎▷


 道中、絵空はずっと無言だった。今までは息継ぎの間すら惜しむように喋り続けていたというのに、まるで別人になったかのような静けさ。沈黙に耐えられず、目についたものを指さして教えるが気のない返事だけしか返ってこない。三度くらいこのやりとりをやったところで心が折れてやめた。

 それからしばらくの間、無言で歩き続けた。体感で二時間くらい。日課の住宅街の散歩の倍の時間だ。沈黙の気まずさから長く感じただけかもしれないが、それなりに距離があるので二時間が妥当かもしれない。

 それだけ歩くと、ようやく病院が見えてくる。病院との距離が縮むにつれ、少しずつ絵空の足取りがゆっくりになっていく。そして、ついに止まった。


「…………」

「あのさ、絵空。本当に無理しなくていいから。嫌ならやめても」

「……ううん、そうじゃないの」

「けど、顔色があまりよくないような」

「えー、それは大変。先生に見つかったらお薬増やされちゃう」

「えっ」

「あはは、冗談だよ」

「なんだ、冗談か」

「というのが冗談なんだけどね」


 くすくす。ふくふく。小さく笑う絵空はぐぐーっと身体を伸ばす。伸びて、伸びて、伸ばしきって。それから深く息を吐き出し、脱力。空を仰ぎ、今日も泣きたくなるくらい空が青いね。震えた声で呟き、目を瞑った。

 かける言葉が見つからず、絵空の小さな背中をただ眺めているしか俺にはできなかった。

 しばらくして、絵空は再び歩き始める。遠回りをするように病院敷地内に設けられた立体駐車場を散策する。車の中にあるぬいぐるみや飾りを眺めて、駐車している車全てを見終えたら一階に戻る。そして、フェンスを乗り越える。着地した先は小さな公園。ジャングルジムにブランコ、仔馬のスプリング遊具。近所の子どもが好きそうな遊具が揃っていた。

 道路が病院を囲っている。三層の立体駐車場にバス停とタクシー乗り場。交通の便がとてもよく、車の行き来が多そうだ。救急車も通るだろうし、こんなところで子どもが遊ぶなんて危なそうだ。


「この公園、遊びにくい場所だな」

「昔ね、ここにあった公園を潰して病院を作ったんだって。その病院を壊して、公園を作り直したの」

「なんのためにそんなことを」

「さあ、大人の事情ってやつかなあ」


 小さな公園をふらふらと歩き回り、遊具は眺めるだけで触れることはしない。真っ先にジャングルジムに駆け寄って遊び始めそうなのに意外だ。そんな俺の驚きなんて露ほども知らない絵空は病院のことについて話し始める。時間をかけるようにゆったりとした足取りで、それでもかかる時間はたかが知れている。病院は公園の目の前にあるのだから。

 ぴっかぴかの自動ドアが開かないように、少し距離を置いた位置で立ち止まる。絵空の隣に並んで俺も足を止め、絵空が再び足を動かすまでの間、病院の外観を観察する。

 茶色と白色の二色に塗装された綺麗な病院。無数の窓が太陽の光を反射させてきらきら輝いている。窓から推測するに、九階建てだ。病院に縁のない俺でも分かる。ここはそれなりに規模が大きいところなのだろう。


「現くん、びっくりしないでね」

「びっくりするって何に……」

「この光景に!」


 立ち止まっていた絵空は俺の手を握り、とんっと一歩踏み出す。俺たちを感知した自動ドアは機械的な音を立てて開く。二人が入れるくらいの隙間ができると、絵空はこっちだよと自動ドアに身体を滑り込ませ、駆けるように病院の中へ入る。

 そして、俺は息を呑んで言葉を失った。


「っ、え、あ……」

「だから言ったでしょう。夜の病院は怖いからって」


 吐き出した息と共に絞り出された声は何の意味も成さない。動揺と困惑、そして少しの恐怖が入り交じり一歩後退する。そんな俺を宥めるように、絵空は手を握る力を強めて優しく声をかけてくれる。


 俺は理解した。嫌でも理解せざる得なかった。

 絵空が歯切れ悪く、言葉を濁したことを。ここに来ることを躊躇っていた理由を。

 夜に断固として行きたがらなかった原因を。


「こんなん病院じゃなくてお化け屋敷だろ!」

「ねーっ。私、最初に一人で来ちゃったからさあ。しかも夜中に!」

「これはトラウマになる。渋る気持ちがよく分かった」

「あはは」


 院内にはマネキンが置かれていた。それも一体や二体ばかりではない。数えることが億劫になるくらいたくさんのマネキンだ。

 病院に入ってすぐの受付に座る二体のマネキン。待合室で座っている複数のマネキン。忙しそうに走り回るポーズをとったマネキン。その他にもさまざまなものがある。

 待合室に座るマネキンは全て裸だった。しかし、一部はしっかりと服を着込んでいる。この違いはなんだと考えて数十秒、答えはすぐに出た。

 受付に座るマネキンは白いブラウスに黒のジャケット。裸のマネキンに話しかけていたり、診察室にいたりと、そこら中に見かけるマネキンはピンク色のラインが入った紺色か白色のユニフォーム。マネキンが着てる服はおそらく、ここのスタッフの制服なのだろう。

 それぞれのポーズをとって固まっているマネキンたちは今にも動き出しそうなくらい、生々しい。近くのマネキンに近付いてよくよく観察してみるが、当然誰も息をしていない。触れてみても体温もなく、固くて冷たい。ただの等身大人形。そうだと分かっていても、いやに生々しい。

 これを夜中、一人で見たとなれば悲鳴だけでは済まない。ましてや、夜の学校で踊る人体模型を見た後だ。このマネキンたちも動く可能性があると思ったら、気が重くなるに決まっている。夜の病院に行こうなんて言って本当に悪かった。そう謝れば絵空はころころと笑い声をあげる。


「さて、どこから見る?」

「なんかもうここだけでお腹いっぱいなんだけど」

「えーっ。病院の中を好き勝手見て回って触れるなんて貴重なんだよ。せっかく来たからには遊ばないと!」

「ここに来るの散々躊躇ってたくせに!」

「来ちゃえば同じことだよー」


 大量のマネキンにビビり散らかす俺とは反対に、絵空はきゃっきゃとはしゃぎ始める。足取りが重たくて、顔が強張った絵空はもういない。いつも通りだ。一つだけ違うところは俺の手を離そうとしないところ。そこに小さな違和感を抱くが、あえて指摘はしない。可愛い女の子と手を繋げるものなら繋いでいたい男心というやつだ。手汗が気持ち悪いと言われるまでは繋いでやるぞ。


 絵空に引っ張られるまま、院内を回り始める。

 診察室に入ってお医者さんごっこ。ちなみに医師役は絵空がやりたがったので譲った。できれば俺が診察したかったのにと呟いてしまい、銀色の舌圧子で額を叩かれた。使用用途が違うぞと指摘すれば、お口の軽い現くんをお仕置するのにちょうどいいかもしれないと目を輝かせてたので、絵空は今後この舌圧子を常備することになるのだろう。

 それから白衣を着たマネキンの首にぶら下げられた聴診器を使っていろいろな音を聞くことにした。これが凄い。なんというか言葉で言い表すことは難しいけど、とにかく凄い。面白いんだ。今までに聞いたことのない音をたくさん聞いた。

 ふと気になって、試しに自分の胸に当ててみたとき、既に止まっているはずの自分の心臓の音を確認した。なんだか変な感じだ。どうやらこの夢の世界では俺の心臓はまだまだ働いてくれるようだ。


「…………」

「絵空、どうした?」

「心臓、動いてるなあって」

「そうだな。動いてるな」


 真剣な顔をして、無言で自分の心臓の音を聞いていた絵空はぽつりと呟く。そして、安心したように表情を和らげる。

 呟かれた言葉には重みがあって、その言葉に俺の心がざわついた。なぜか、理由は分からなくて気付かない振りをする。

 話を変えるように目についた注射器やメスに手を伸ばす。

 そういえば少年漫画とかでこういうのを投げて戦うキャラいるよなという話から投擲大会が始まった。

 こんなこと現実の世界でやったら怒られるだけじゃすまないねという話をしながら、途中からその罪悪感がスパイスに変わって大興奮。ちなみに、メスも注射器もどれだけ勢いよく投げようと壁に刺さることはないらしい。刃こぼれをして地面に転がるメスや注射器を見ながら、現実ってそんなものだよな。少し残念だ。……まあ、これは夢の世界なんだけど。


「ふはー。遊んだ遊んだ。超楽しかったあ」

「めっちゃ笑った。腹痛い」

「途中からメスのかっこいい投げ方選手権になったねえ」

「これか」

「あははっ! それは……っ、いちばんダサいやつ!」


 外待合室の硬いソファーに腰をかけてひと休み。先程までのできごとを思い返し、一番ウケがよかったポーズを決める。絵空はお腹を抱え、足をぱたつかせて大笑いする。薄らと涙を浮かべさせるほどで、やったかいがあったというもの。

 笑いすぎてひぃひぃと息を切らした絵空は指先で涙を拭いながら立ち上がる。もう休憩は終わりかと首を傾げていると、絵空は俺に手を差し伸べてきた。意図がよく分からず、とりあえずその手をとる。いつもは温かい絵空の手は驚くほど冷えていた。


「さて、そろそろ行こっか」

「どこに?」

「こっちだよ、こっち! あー、エレベーターは動かないし階段使お。カードキーお借りしまーす」

「えっ」

「ここの病院ね、患者が使える階段がないの。一階から二階に行くためのエスカレーターだけで、あとはエレベーターで。でもエレベーターは動かないからね。スタッフ用通路から行くしかないんだあ」


 絵空は不便さをぶつぶつと呟きながらユニフォームを着たマネキンが首からぶら下げている名札を取る。それをエレベーターの隣にある白い自動ドア付近にとりつけられた錠にかざす。カチャンと鍵が開く音がしたことを確認し、絵空は自動で開かない自動ドアを左へスライドさせる。ドア一枚の仕切りを越えると、そこは白い世界が広がっていた。真っ白というわけではない。ドアノブが銀色であったり、患者搬送用のエレベーターが鈍色であったり、床は薄っすらと青みがかかっていたり。それなりに他の色が混ざっている。それでも、全体的に白色が目立つ。慣れていないと不安が煽られる、そんな空間だ。

 その中を絵空は住宅街を散歩するように迷いなく、慣れた足取りで進む。どこが階段に続くドアなのか、どこでカードキーを必要としているのか。ここの職員でなければ分からないであろうことを絵空は知っていた。職員でないとしたら、それは──。


「目的地にとうちゃーく!」

「なんか、他と比べると雰囲気が可愛らしいな」

「ここ、小児科病棟だからねー」

「小児科って子どもが入院する。」

「そ。ちなみに、さっき通ったスタッフ用通路からNICUに行けるよ」

「NICU?」

「新生児集中治療室。つまりここは生まれたての赤ちゃんから十五歳までを中心に入院している病棟でーす」


 白い世界とは打って変わり、可愛らしい雰囲気の病棟だった。

 壁紙は森をイメージしているのだろう。足元に木々が描かれ、そこに狐や狸の頭や尻尾がぴょっこりと出ている。俺たちとっては足元、小さな子どもたちからすれば目線の高さか。病室の番号にはネズミやヒツジ、リスなど可愛らしい動物が描かれている。処置室と書かれた部屋には国民的アニメのキャラクターのぬいぐるみや音の出るおもちゃなどが置かれていた。

 遊び心のある空間。そこに置かれたマネキンたちは一階や二階にあったマネキンたち以上に生々しかった。体格から男か女と性別が判別できるだけではない。髪の毛が生えているし、瞳の色も塗られている。しかも一体一体に個性がある。まるでマネキンのモデルがいるかのようなリアルさ。


「なんでここだけ」

「こんなにもリアルなのかって?」

「…………」

「マネキンさんだけじゃないよ。例えばー、あれとか」


 絵空が指さす方向に目を向ける。すると、なんということだ。スタッフ用通路の自動ドアが開き、病院食を積んだピンク色のワゴンがやってくる。よく見ると、小学校の給食当番が着るような白衣に身を包んだマネキンがワゴンを押している。それを合図にオープンスペースのナースステーションにいたマネキンたちが一斉に動き出す。

 ジジジッ。機械仕掛けの人形のような音を鳴らし、数体のマネキンはピンク色のワゴンに集まる。そしてワゴンの扉を開き、病院食をそれぞれの病室へ運んでいく。ちなみに、病院食は本物ではなく食品サンプルだ。

 ノートパソコンの前に座っていた一体のマネキンがナースステーションにあるモニターのもとへ行く。そのモニターには病棟のマップを表示しており、各病室に患者の名前があがっていた。

 俺は信じられないものを見た。驚きの声をあげようとした瞬間、マネキンはモニターの隣に置かれた受話器を手にとり一斉放送のボタンを押す。

 

「入院中の患者様へお知らせします。お食事が届きました。担当の者がお持ちしますのでしばらくお待ちください。小さなお子様はベッド柵をあげてお待ちください」


 ピンポンパンポン。聞き馴染みのあるチャイムが病棟に鳴り響く。そしてアナウンスが続くのだろうが、さすがにマネキンが声を発することはなかった。喋る真似はしていたけど。そう思っていたら、キャスター付きの回転椅子に腰をかけてくるくる回っていた絵空が代わりにアナウンスをした。

 ホワイトボードに貼られたラミネートされたプリントに、絵空が言った言葉と一字一句同じ台詞が記載されていた。つまり、これは食事時の放送に流すアナウンス用のカンペだ。

 絵空はカンペを見ずにこれを諳んじてみせた。言い終えると同時に再びピンポンパンポンとチャイムが鳴る。


「……絵空」

「不思議だよねえ。ここのマネキンさんだけ定期的に動くの。食事時はもちろんのこと、消灯時間とかお昼のお話し合いとか」

「それは」

「しかもここの病棟にいるマネキンさんだけ誰かを再現しているみたいなの。なんでだろーねー」


 なんでだろう。そう言って見せるが、絵空はその答えを知っているのだろう。

 回転椅子から降りて、迷うことなく病室へ向かう。そこは、そう。モニターで俺が注目した病室だ。

 それが全てを物語っている。


「えそら」

「赤木さん、ありがとうございます。これ、自分で持って行くからいいよー」

「なあ、絵空」

「残さず食べるってばあ。もう、心配性だなあ」

「絵空ってば!」


 絵空は病室の前で団子にした黒髪を網目の細かいネットにまとめたマネキンから食品サンプルが載せられたお盆を受け取り、そのまま楽しげに会話をする。会話といっても喋っているのは絵空だけなので、事情を知らない人が見たら頭がおかしくなった少女のように見える。けど、俺の目にはどこからどう見ても会話をしているようにしか見えなかった。

 明るい髪色をしたマネキンは絵空の申し出に首を横に振る。だが、両手を差し出してちょうだいと言う絵空にしぶしぶと病院食を載せたお盆を渡していた。それから何かを言い聞かせるような動作を行う。

 絵空は俺の呼びかけに答えない。まるで俺の声が耳に届いていないかのように、反応をしてくれない。後ろ姿だけでは彼女がどのような顔をしているのかが分からなくて、それがたまらなく不安になった。

 振り向いてほしい。いつものように笑っていてほしい。その一心で、俺は絵空の肩を掴んで声を荒らげる。


「……そんなに大きな声を出さなくても聞こえてるよ」

「なあ、それって」

「私のお昼ご飯だよ」

「心臓病、食」

「そう。水分と塩分が制限された味気なぁい食事」


 俺は信じられないものを見た。

 モニターに表示される576号室の病室にある患者名。もしかしたら、偶然の一致なのかもしれないと思いたかった。よくある名前ではないけど、そういうこともあるかもしれないよねと思いたかった。

 だけど、偶然の一致ではないのなら、納得もできる。

 この病院が他の建物よりも細かに再現されていることに。店や学校にはいなかったマネキンが置かれていることに。絵空はこの病院に詳しかった。職員じゃないと知らなさそうなことも知っていた。けど、絵空はここの職員じゃない。職員以外でここに詳しい人なんて限られている。


 576号室。夢観絵空ゆめみ えそら。心臓病食。

 そう書かれた一枚の紙が、病院食に添えられている。これを見てしまったら嫌でも理解するしかない。

 夢の世界で出会った不思議なこの少女は。

 向日葵のような笑顔がよく似合う絵空は。


「私ね、小さい頃から心臓が悪いんだ」


 この大規模な病院の構造を細かに再現できるくらい。そこで働く人たちを鮮明に思い出せるくらい。定時のスケジュールを体内時計で把握しているくらい。

 ここで長期的な入院生活を送っている患者なのだ。

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