あらしの月夜
なかの
本文
こん、こん。……もう、寝た? あっ、ううん、返事はしないで。このまま話すから。もし起きてるなら、目を瞑ったまま聴いて。
あの、その……ありがとうって、言いたくて。今日のことじゃなくて、ああちがくて、今日のこともそうなんだけど、あの、えと、色々、助けてくれたこと……。キミは覚えてないかもしれないけどさ、私、キミにすっごく助けられたことがあるんだ。──って、幼なじみ、だもんね? そんな経験いくらでもあるから、いきなりこんなこと言われてもピンと来ないか。えへへ。それで言ったら、今こうしてキミと同じ部屋で眠れることだって、"助かってる"って言えるのかもしれないし。なーんて。でも実際、私はすごく助かってるんだよ。今日だって、急な土砂降りに遭って困ってた私に、キミが通りがかりに声を掛けてくれて、一緒に走って、そのままお泊まりまでさせてくれてさ。子どもの頃のキミも優しかったけど、大きくなってもキミはキミなんだね。……ふふ、ごめん、ちょっとくさいこと言ったかも。でもさ、そりゃあ浮かれちゃうよ。だって、キミとこんな真夜中まで一緒に居られる機会なんて、ほんと、一世一代の気持ちだもん。それにほら、ビーズのお遊びみたいな雨音と、それなのに部屋に降ってくる青白い月明かり。ロケーションもなんだか神秘的で特別っぽいでしょう。こんなののぼせるなっていうほうが無理じゃない? 言葉じゃなんて言ったらいいかわからないけど、この狭い空間の中にキミとふたりきりなんだって考えるとね、身体がふわっとするような酸っぱい鼓動が胸の真ん中からトクントクンって迸って、跳ねたくなるような喜びや、ちいさくちいさく隠れてる少しのこわさや、心がキミに惹かれて自分ではままならないもどかしさ、フッとよぎって溶けていく切なさに、微かな哀しみの香りとか、いろーんな気持ちがひとまとめにされて、不釣り合いの小さな胸にぎゅぅぅっと押し込められて、でも、そんな色とりどりの感情たちは、きっとひとつの名前の中に収まってる。なにか運命めいた大きなものに急かされてるような気がするような、でもあったかく落ち着いてくるみたいな、いくら言葉を尽くしてもキミには絶対伝わらない──不思議な胸の色。今日の私は、ずーっとそんな気持ち。この気持ちになってるときはね、「私は人間なんだなぁ」って、空を見上げたくなるように実感するんだ。だから、キミのことを考えている間は、私は誰よりも人間なの。生きてる実感、みたいなものかな? つまりさ、今のこの部屋って、私にとっての"生きる"がこんな近くに居てくれてる状態ってこと。ね、私がどれくらいうれしい気持ちでいるのか、ひとひらくらいは伝わった? ほら、ふふっ、お泊りとか、久しぶりだし。キミの方がどう思ってるのかは、本当にはわからないけどさ。──っととなになになにダメだって、まだそっち向いてて。でも、身じろぎしたってことはやっぱり起きてたんだ、よかった。あ! 返事は絶対しちゃダメだよ! もうこっち向くのも禁止! えとそうだな……私、これからすっごーーく恥ずかしいこと言うから、一方的に押し付けたいっていうか、反応が帰ってくると余計に意識して恥ずかしくなっちゃうっていうか、繊細な乙女心の機微ってやつに配慮してほしいっていうか……。ん〜、ちょっと無理ある? まぁ、キミの幼なじみのためになると思って、私がこんこんと語る様子を、キミに聞いていてほしいな。
でさ、その、すごく助けられたって話なんだけど、むかーし、まだ小さかった頃のことって……キミは覚えてる? あ。返事はしちゃダメって私が言ったんだよね。あはは〜、けっこう難しいねこれ……。でも、きっと覚えてないだろうなってわかってるから、大丈夫だよ。昔の話だし、色々事情もあるし。それに、どっちにしても一緒に思い出すつもりだったから、ちょっと訊いてみたかっただけなの。もし覚えてくれてたら奇跡みたいでうれしいなって思って。キミは私にとっての特別だから。ふへへ、これもあんまりピンと来てないでしょ。そりゃあそうだよ〜、私たちまだお互いのこと全然知らないんだから。……そうだっ、じゃあまずは私のことを話そうかなっ。相手のことをちゃんと知るのって大事だもんね。ああいや、そうだった、幼なじみだけど、なんだけどさ! えっとぉ、そう! こう、あれだよ、改めて自分たちのことを開示してさ、再認識をしようって試み。長い付き合いだからこそ見えなくなってる部分って絶対あるでしょ? それに当然、私にだってキミに言ってない秘密のひとつやふたつや百や千はあるし、もちろんキミだってそうだろうし。少なくとも、私はキミのことをずっと見てきたつもりだけど、きっとキミのことは全然知れてないから。おほん、では早速。わたし、フルーツタルトがすき。タルト生地のザクザクとみずみずしいフルーツのじゅわっとした食感が合わさるあの瞬間……すごくすき……。お母さんが買ってきてくれたのを初めて食べたとき、私もう雷になっちゃったもん。もう、ビリビリーッてさ、しばらく直んなくて大変だったあ。私ねっ、果物は元々好きでよく食べてたんだけど、あんな風にツヤツヤのじゅわじゅわにして食べようなんて全然思いつかないよ! フルーツタルト、人類のすっごい発明だと思うっ。あとあと、ふふふっ、これ面白いんだけどさ、私きつねうどんがすきなの。お出汁でしたしたになったお揚げにかぶりつくのって最高じゃない? なんかこう、お揚げから滲み出てくるお出汁って普通と違うっていうか、特別美味しく感じるよねぇ。あ、そっか、私じゅわじゅわ系が好きなのかも。発見だ。ふふ、いつかキミとも色んなものを食べに行きたいな。んー、食べ物ばっかしだとあれだから、そうだなー、落ち葉を踏むのもすきだよ。緑も茶色もその時々で感触が違ってすき。ふわふわもシャクシャクも楽しいよね。でも雨上がりのはそんなにかなぁ。泥とか濡れ葉とか、すごいくっつくじゃない? それから、ロウソクの火をじーっと眺めるのも気持ちが落ち着いてすきだし、山でリスを追いかけるのも楽しいからすき! ──なんだけど……あー、うん、なんかちがうっぽいね……。あれー? 好きなものの共有って定番だし、キミももっとお腹を見せて盛り上がると思ったんだけど……。あんまり響かなかった? 幼なじみで今さら好きなものトークをしようなんて浅いってことかな……。でも私はお姉ちゃんに何度も何度もキミの話をしてたし、お姉ちゃんもその度にお腹を見せてくれたのに。私、なにか間違えた……? ぅあー、文化の差ってやつかなぁ……難しいなコミュニケーション……。それとも私が思ってる以上に「幼なじみ」って複雑なの……? うーん、一番簡単だと思ったんだけどなあ。あ、それかもしかして、そもそも浸透してない? 言われてみれば、キミの感情、あんまり私の中に潜ってきてないもんね。とすると、キミも私になれてないんだよね。私、てっきりみんな出来るものだと……。そ、そっか、こういうところも違うんだ……。色々リサーチ不足だったな……。ぅあー、そしたらいきなりフルーツタルトすきーとか、私変なヒトになってたとかない? ていうか、後半なんか私勝手に盛り上がっちゃってあんまりかわいくないこと口走ってた気がするし、どうしよ、なかったことにしてもいいかな……。んしょ、っしょ、えへへ、おんなじベッドに来ちゃった。ちょっと頭さわらせてね。だいじょうぶ、痛いことはしないから。──こんこん。どう? 忘れた? 忘れたよね? ヨシ。
ごめんね、こんなことして。本当はさ、私もキミの顔をちゃんと見て、キミにも私を見てもらって、ちゃんとふたりでお話ししたいんだけど……。
うん、やっぱりもっと直接的なコミュニケーションのほうが私すきだな。ね、手、握ってもいい……? 嫌だったら、振り払ってくれていいから。
え、えへへ、いいの……? ありがとう。やっぱりやさしいね。ふふ、本物のキミの手だ……うれしい……。ふへへ、すべすべしてる。ヒトの手って、あたたかくて素敵だよね。私、ヒトの身体は手が一番すき。優しさを教えてくれるのも手、こわい力を振りかざすのも手。私ね、ヒトの手って、ヒトの心を現実に触れられるようにしたものだと思うんだ。手のひらの形や指先のひとつひとつが、その人のことを如実に表してるの。真実も、偽りも、苦しいくらい繊細に。私もおんなじ形をしてるのに、キミの手とはまったく別物。キミの手は、あったかいな。
ずっと会いたかった、ずっと触れたかった、私の、初めてのヒト……。
──っていけない、幼なじみなんだった。忘れて忘れて。こんこん。……あれ? こんこん。……んん?? えへん、おほんっ。こんこんっ、こんっこんっ。あ、これはただの咳で、なんにも怪しくなくて、こんこんっ、風邪でも引いちゃったかなあ? こんこんっ、あはは〜、おかしいなあはは〜……。はは……。
……あの。
もしかしなくても、もう効いてない……? ていうかこれ、私が幼なじみじゃないっていうのももうバレてるよね……? い、いつから……? あ、いや、何も言わなくても大丈夫です……なんか、実は途中から尻尾が一本隠しきれなくなってたので、なんとなくわかるから……。ぅあー、流石にちょっと姑息だったかなぁ……。あ! まだこっち向いちゃダメです。返事もしちゃダメ。でないとふたりとも大変なことになっちゃうから。主に私が。だから動いちゃダメ。声も出しちゃダメ。目を瞑ったまま、そこでじっとしていてください。──ん? ああそか、これじゃ脅迫してるみたいだね。それにまだ混濁もしてるか。心配しないで、キミには初めから幼なじみなんて居ないから。だから本物の幼なじみが危険な目に遭ってるとかそういうのもないし、信じてって言っても難しいかもしれないけど、そもそもキミに危害を加えるために来た訳でもないの。幼なじみっていうのは、単にキミとふたりきりになるための取っ掛かり。だってほら、幼なじみって普通一番仲良しの関係なんでしょ? だからピッタリだと思って……。あの、ごめんなさい、見知らぬ子に突然こんなことを言われてもこわいだけだと思うけど、私、どうしてもキミに会いたくて、お話しをしたくて、それで、その……ああ、やっぱり苦手だな言葉って。あの、私の手を握ってみて。騙したけど、ウソはついてない。わかるでしょ?
……ね、もし、私のことを信じてくれるなら、お願いがあるの。キミは私のことをもう知らないかもしれないけど、私たち、本当は会ったことがあるんだ。それを一緒に思い出してほしいの。返事は声に出さないで。思うだけでいいよ。私には"わかる"から。
……えへへ、キミは本当にやさしいね。こんなワケのわからない女の子のこと、そんな真っ直ぐに信じてくれるんだ。ありがとう。私、キミのことを好きになってよかった。
じゃあ、ちょっと触れるね。キミはまだ言葉に頼る部分が多いと思うから、私の声に身を委ねるように耳を傾けて。あとは私が誘引するから。私の手がキミの背中、肩甲骨のあたりに触れてる。そのまま腕から肘にかけてが背中に沿うようにぴたりとくっついてる。お腹の温度が腰に当たっていて、脚は密着に絡み合い私のやわらかさがよくわかる。だいじょうぶ、変なことは考えられないようになってるから。ただふたりが重なってることを意識して。おまじないをかけるよ。
──"こんこん"。
これで、キミの中は空っぽになった。それじゃあ、ゆっくり身体の力を抜いて、呼吸を続けて。息を繰り返している内に、キミはだんだんなくなっていく。すぅー、はぁー、すぅー、はぁー。なくなっちゃったキミの空洞の中に、やわらかくてあったかい水が浸透してくる。そう、ちょうどキミに触れてる私の温度が、内側まで染み込んでくるように。じわり、じわり、溜まってくる、ぴちゃ、ぴちゃ、増えてくる、ぱしゃ、ぱしゃ、溢れそうなくらいに、だぷ、だぷ……そのまま私の声に心を寄せるように。今のキミの体温は、キミのであって、私のでもある。私のも一緒。キミと私、どんどん水が満ちてくる。身体がぽかぽかしてきたでしょう。それは"私"だよ。ね、いま、キミの中に私が居るのがわかる? うん、上手。さぁ、私と一緒に、私を見つけにいこう。
そのまま、そのまま、落ち着いて息をして。聞いた通りのことを想像して、思い描き続けて。それはだんだん色づいて、音を得て、手触りを生んで、記憶になって、やがて、現実になるから。
幼かったあの日に目を覚まそう。たくさんのシールが彩る楽しい学習机、その脇に掛けられた綺麗な空色のランドセルがまだピカピカしていて、買ってもらったばかりの子ども用のテニスラケットがキミの一番のお気に入りだったあの日だ。
降りしきった桜の花びらが新しい風に運ばれて次の出立をし終えた、ゆるやかなお日さまのぬくもりが目覚めに心地いい春の朝。キミはぬくもりのたっぷり育まれた布団の中で、ゆっくりと瞼を開ける。眠りの中でふわふわと引き続いていた心地よさが、目を開けた瞬間にまるっと元気に成り変わったような、それはそれは素敵な目覚めだった。さっぱりした気持ちの次に感じたのは、レースカーテンから透けてくる日差しの白い明るさと、そこはかとないそわそわした気持ち。キミはむくりと起き上がると、知らない間にベッドから転げ落ちていた大事なニワトリのぬいぐるみを引っ張り上げて、再び胸の内に抱き締めたら、あくびと共にかわいい伸びをした。空のてっぺんを目指す木の幹みたいにうんと腕が伸びきったとき、キミはハッと思い出すんだ、今日が特別な日だったということを。先週の先週のもひとつ一週間前からお父さんと約束していたキャンプ。それが今日だった。途端にキミはベッドから跳ね起きて、ちょっぴり音痴なスキップで部屋を出ると、普段の休日にはないようなせわしい気配が一階から感じられて、キミは思わず、そのときの町中の子どもをみんなこの場に集めても断然一等賞になれるくらいの満面の笑みを、ニニニンッとはっきり浮かべた。元気な挨拶、元気な朝食、元気なお洋服、だけど、元気な寝癖だけはお母さんに直されて、キミは絵に描いたようなウキウキした様子で、お父さんの車に乗り込んだ。ときどき車酔いしてしまうキミも、今日はとにかくほんの指の先にある未来に夢中だったから、だんだん緑が増えていく窓の外を楽しそうに眺めながら、赤信号にだってワクワクを見出していた。そして、いざキャンプ場に着くと、キミの胸は気球のようにいっぱいになって、遥かまで飛んでいってしまいそうに膨らんだ。活き活きとした新緑の木々に、それらをたくさん背負った大きなお山と、近づいてるはずなのにいつもより高く感じる青い空。向こうのほうにも逞しい山々の姿があって、自分が今その中のひとつの上に立ってることに、血の巡るような高揚感を覚える。自分のちっぽけさを自覚をするのが心地よかった。澄み渡る空気の中でお父さんお母さんと一緒に伸び伸びと深呼吸をしてみれば、それだけでさらに仲が深まったような気がした。山の上ではやることなすこと全てが新鮮で、座ってぼーっとするなんて退屈の象徴みたいな行為だって、ここでは何より得難い体験にも思えたし、いつだって美味しいお母さんのおにぎりは、見えない自然の味が加わって格段に美味しく、「山で食べるおにぎり」は、これはきっと新しい料理になるとキミは輝かしい夢をも膨らませていた。
だけど、楽しいことばかりは続かなかった。誰が悪かったわけじゃない。小さな子どもはときに大人には計り知れない能力を発揮することがあるし、お父さんはレンタルした器具を受付まで返しに行っていて、お母さんが激しく弾けた木炭に驚いてキミから目を離したのも、ほんの数秒のことだった。その数秒の間に、キミは理由のない好奇心に惹かれて木の陰へと潜り、山の中へ入り込み、あっという間に迷子になってしまった。それはちょうど夕暮れ時だったから、お日さまはみるみる傾くし、空はそれ以上の速度でその色を移ろわせていっていた。手遅れのタイミングで自身の置かれた状況に気づいたキミは、まるでタイムリミットを数えるような空の色と、孤独の生み出す鋭く冷たい恐怖によって、冬眠をし損ねた哀れなリスのように身体を震わせていた。それでも早く家族の元へ戻りたい一心で歩を急ぐけれど、めちゃくちゃな心とあべこべの記憶に従った足は、却って森の深まりへと進んでいってしまう。
ざわざわざわ──。陰を濃くさせていく木の葉たちのざわめきは、得体の知れない大きな大きな生き物だった。
パキンッ──。踏まれて折れた乾いた枝は、見知らぬ動物たちの骨なのかもしれなかった。
キャンプ場に居たならば心を躍らせてさえいただろう自然の営みは、今はキミの心臓を握る恐怖そのもので、ついにキミはその場でしゃがみ込んでしまうと、しくしく泣き出してしまった。泣いたってどうなる訳でもないとわかっているけど、どうなる訳でもないから余計に悲しみに濡れてしまう。考えても考えなくても深みに沈んでいくキミの心。だけど、そのときキミは遠くの方から響く声を聞くんだ。
くるるるるるぅ、くるるるるるぅ──。
これまで聞いたことのない音だったけれど、キミにはそれが声だということがわかったし、生きた動物のものだということも感じ取った。そして、そこに込められた「助けて」と訴える悲痛な感情も。優しく勇敢なキミは、今の今まで自分が泣きじゃくる迷子だったことなんてすぐに忘れて、「助けてあげたい」って想いで心の中を大きく満たしてみせた。がさがさっ、がさ、パキキッ、簡単に沸き戻ってくる恐怖心を涙と優しさで抑えつけて、キミは恐る恐るながらも、声のしたほうへ着実に進んでいく。ただ、その足音に警戒したのか、あんなに必死だった鳴き声はピタリと止んでしまっていた。キミは少し進んだところで立ち止まると、キョロキョロと辺りを見渡して、潜んでしまった声の主を探す。すると、少し向こうにあるツタだらけの木の側に、身じろぐように動く陰を見つけた。さらに近づいてみれば、それは小麦色のふわふわした毛並みに身を包んだ獣だった。何度も何度もお母さんに読み聞かせをねだった絵本で見たことのある動物──きつねだ。それも、見るにキミが知っているきつねよりも随分小さくて、顔や身体も丸みを帯びてかわいらしく、どうやら子どものきつねらしかった。キミは孤独から解放された安堵の涙をぐっと堪えたつもりで、実際にはぽろぽろ涙を流しかわいそうにしゃくりあげながら、それでもきつねを気遣うような声色で「だいじょうぶ?」と声を掛けた。けれど、当のきつねはキミに気づくとたちまち怯えた目をして、急いで逃げ出そうと精一杯前脚で地面を蹴り込んだ。でも、蹴った勢いでほんの少し前につんのめるものの、不自然に腰が宙に浮かんでそこから先に進んでいない。よくよく目を凝らすと、きつねの腰にはツタが絡まっていて、そこから後ろ脚を抜け出せずにいるみたいだった。きっと遊んでるうちに引っ掛かってしまったのだろう。少し工夫をしながら後退すれば難なく抜け出せるはずだけど、恐慌した幼いふたりにその判断をすることは難しかった。さっきの声と目の前の状況に合点がいったキミは、きつねを助けるためにまた一歩足を踏み出す。きつね一瞬身を固くさせかけて、暴れるように逃げたがった。キミがきつねを落ち着かせようと思って掛けたやさしい言葉も、きつねにとっては初めて聞いたヒトの鳴き声でしかなくて、余計にパニックを助長させるだけ。ぎゃっぎゃと鳴きながら激しく脚をバタつかせるきつねと、めそめそ泣きながら声を掛けるキミ。その内にキミは濡れそぼった視界の中できつねの動きと連鎖して揺るがうツタを見出すと、すぐさま迷いなくぎゅっと掴んで、体重を乗せて下方向へぐっと力を込めた。ぶちぶちと千切れる感触がツタからキミの手のひらへ伝えられる。その拍子に勢いを殺し切れなかったキミの拳がきつねの腰にこつんと触れた。それを暴力の始まりだと受け取ったきつねの恐怖はその瞬間頂点に達し、全身の毛がまるごと裏返りそうになりながら、命の全てをそこへ投げ打つような気持ちで望みを賭けて、一気に走り出した! そして、数メートルほど逃げ出したところできつねはふと気づく。自分の後ろ脚が自由になっている。振り返ると、なにやらしゃくりあげているヒトの子が居る。他の生き物──少なくとも、ツタを切断したりほどいたりできる生き物の気配は感じられない。いくら子どもだからと言って、流石に何もわからないフリは出来なかった。きつねは自分が助けられたことに気づいたんだ。ヒトは何より恐ろしい生き物だと教え込まれてきたきつねは、その躾が必ずしも全ての真実ではないのだと理解した。目の前のキミから感じ取った心の中に、悪意の色が微塵も感じられなかったから。未知との遭遇、今まで得たことのない感情に却って落ち着きを取り戻したきつねは、鼻を鳴らしながらそっとキミの足元へやってきた。知らないにおい、初めてのにおいを鼻腔に刻み込もうと一心にキミの足を嗅いでいた。ややあって、きつねはキミを見上げると、「かーう」とか細い声を鳴らした。キミのほうも、ほとんどきつねとおんなじ未知と遭遇したと言ってよかっただろう。何故なら、自分でも信じられないくらいにきつねの感情が理解できたから。感謝、親愛、爽快、憧憬、高揚、探求、感銘、それから、情愛さえ。並べた言葉よりもずっと複雑なその色が、直接キミの胸に響き渡っていた。それはまるで心の奥深くまできつねの心が潜り込んでいるようで、自他の境界が胡乱になる不思議な感覚だった。
恐る恐る伸ばされたキミの手が、きつねの頭に触れた。ふわふわした触れ心地、お母さんのザラザラした舌とは全く正反対のツルツルしたヒトの指先、仔ぎつねの頼りないぬくもり、初めて知った撫でられることの快楽。見つめ合う。あたたかな命に悲しみが拭われる。ヒトのあたたかさを知る。もう一度触れる。もっとそうしたいと思う。そして三度目に触れようとしたとき、後方からキミを探すお母さんの必死の声が聞こえてきた。
キミは途端に我に返り、大鐘のように鈍く重く響く喜びに再び涙を溢れさせ、すっくと立ち上がると、プツンと切れた緊張の糸に一度喉を詰まらせながら、ようやっとの思いでお母さんの呼び声に大きく応えてみせた。
そうして、次に振り返ったときにはもう、きつねの姿は忽然となくなっていて、それに疑問を抱くよりも先に、ここに居たナニカに触れたこと、ナニカの声を聞いたこと、それから握ったツタの樹液の跡まで、なにもかもが失くなってしまっていた──。
──"こんこん"。
はい、これでおしまい。よくがんばったね。もうなにも意識しなくても平気だよ。気持ちも脱力しちゃおっか。うん、よし。
……それであの、わかった? って、流石にわかんない訳ないよね。キミが助けたあの仔ぎつね、あれが私だよ。思い出してくれた? ふへへ、なんか照れるね……。あー、あのつぶらなふわふわもこもこがなんでこんなかわいい女の子の姿をしてるのかって言うと、まぁなんていうか、普通のきつねじゃないんだよね。へへ。キミが私のことを忘れちゃってたのもそれが理由。あのね、私の姿をキミから隠したのって、私のお母さんなの。お母さんね、キミのお母さんの声とほとんど同時くらいに助けに来てくれて、それで、キミの記憶もいじくっちゃった。だから……ごめんね? こわい記憶だけ残っちゃってたでしょう。
ところでさ、ただツタを解いてあげただけで──って思った? ていうか思ってるでしょ。わかるんだから。まぁ、たしかに「そんなこと」だとは私も思うよ。言っちゃうとさ、キミの行動は全く必要のないものだったんだよ。子どもの力で千切れるくらいだもん、もがき続けていたらそのうちツタは切れてたかもしれないし、そうでなくても結局お母さんがすぐに来てくれた。でも、あの日私を助けてくれたのは、キミだった。私が出逢った初めてのヒトは、初めて触れた手は、あたたかく撫でてくれたのは、他でもないキミだったんだ。自分の運命を決めるのなんて、「そんなこと」で充分だって私は思うんだ。私はキミのことが忘れられなかった。お母さんに何度叱られても、忘れさせられても、キミのことを諦めなかった。絶対またキミに会って、ちゃんとお礼を言って、お話しをして、仲良くなって、それで……。え、えへへ……。
で、でねっ? ようやくヒトの姿に、キミと同じ姿になれるようになったから、早速キミに……えと、もちろんキミが良ければなんだけどさ、その、あのね……? ぷ、プロポーズを、しに来たの。えと、「プロポーズ」で合ってるよね? あの、好き同士でさ、ずっと一緒にいる約束をすること。その、それを、しにきました……はい……。
ああまって! その前に、本当に本当にちゃんと考えてほしいの。だって、私にはなんの申し開きも出来ないから……。ね、キミは気づいてるはずだよ。今キミの中に芽生えている感情が、キミから真実生まれたものじゃないかもしれないこと。さっき私がやってみせたおまじないが、もしも記憶を操作したり、幻覚を見せるような類のものなのだとしたら、記憶の呼び起こさせるふりをして、都合のいい記憶を植え付けることだって可能なんだ。事実、私はキミの中に偽りの幼なじみを創り上げたし、キミもいっときそれを信じた。だから、キミには疑い続ける権利がある。その疑心に対して私ができることは、こうしてキミの手を握ることだけ。勝手なことだってわかってる、拒絶されても仕方ないっていうのもわかってる。そもそも、きつねと、ヒト、だし。迷惑とか、苦労とかも、色々……。でも、でもね? 私は……キミがいいの……。
ぐすっ……。ひぐっ、ほんとう……? ほんとうにっ……ほんとうにいいの……? ぅくっ、えぐっ、うれしい……。
え〜ん! うれしいよぉ〜! だいすきぃ〜!
──ぐすん。ぁぅ、ごめん、もうだいじょぶ。うん、ありがとう、だって、ほんとにうれしくてっ……。あいや、だいじょぶ、もうなかない、へいき。
あ、あの、それでなんだけど、なんとなく気づいてると思うんだけど、私、ヒトとは関わっちゃダメって、お母さんにきつ〜く言われてるの。だから私たち、お母さんに立ち向かわなくちゃいけなくて……。お母さん、いつもはやさしいんだけど、神さまやってるくらいだからさ、怒るとすっごくこわいんだよ。お仕置きなんか何百種類もあるんだから! でもね、ヒトと交流しちゃダメな理由は頑なに教えてくれないの。なんでダメなのって何回も何回も訊いたのに、絶対答えてくれないの。「ダメなものはダメ」って、それだけ。ズルいよねそんなの。納得いかない。だって、私知ってるもん。お母さんだって……その掟を破ったから私たちが産まれたのに。だからさ、私もコナクソーッ! って修行して、お母さんを一瞬だけでも騙せるくらいの力をつけて、強引にキミに会いに来たんだ。あ、とは言っても私ひとりの力じゃなくて、お姉ちゃんにも協力してもらったんだけど。ほら、雨、土砂降り。あれ、お姉ちゃんに降らせてもらったの。すごいよね、結構経ってるのにまだ降ってるんだもん。本当にすごいことなんだよ、私にはひと粒も操れないんだから。それに私、尻尾もまだ二本しかないし……。あっ、雨になにか良くないものが混じってるとかはないから、そこはだいじょうぶっ。なんかね、昔から逢瀬にはお天気雨が一番良いんだって。ほら、お天気だとみんな傘持ち歩いてないし、そこに突然降られると慌てるでしょ? そこに偶然を装って雨宿りを頼んだり、招いたりね。それに、平時なら正体を見破られちゃうような勘のいいヒト相手でも、ちょっとくらい誤魔化せたりしちゃうんだって。
……ん、あれ? 今さらだけど、昔からってどういうことだろう……。それにやけにノウハウ満載……。──あっ! なに! もしかしてみんなそうだったってこと!? あ! あ! お母さんがよく街の方に出掛けてたのも、修行じゃなかったってこと!? うわっ、うわ〜〜……!! え、絶対そうじゃん! だって、そうだよ、いっつもあのお店のケーキ……う、うわ〜……! え、でもそれじゃあなんであんな嫌な掟……。え、ま、まさか、私にコナクソーッ! ってさせて掟を破らせるため!? いや、わかんないけど、それくらいしかだって。う、うわぁ、でもそんなのって、ぅあー!! やられたあ〜!
……あ、ごめん、あの。た、たぶん……もうよくなったみたい。うん、平気。だから、もう私と向き合ってもいいし、お話ししてもいいと思う……。
あ、えへへ、そんな早速に。て、ていうかこんなに近かったんだね。いや、密着してたから当たり前なんだけど、あの、すごく照れる。あ、あんまり見ないでよ、照れるんだってば。
ね、ねぇ、おでこ、ちょっと差し出してもらっていい? ふへへ、うん、私も早速したいなって。きつね同士も大事な約束をするときはこうやってするんだよ。どっちかっていうと尻尾同士を合わせることが多いんだけど、多分キミにはおでこ同士が一番いいと思うから。……ほら、触れただけで繋がった。えへへ、くすぐったいな、キミもこんなに私のこと想ってくれてたんだ。じゃあ、始めるよ。目を閉じて。誓いの分だけ私の力を分け与えるから。
──私たちはずっと一緒。過去のキミに、未来のキミに、いま、私の目の前に居てくれるキミに。全てのキミと約束する。全ての私が契りを結ぶ。これはキミと私、ただふたりだけの大事な約束。誰にも知られず、誰にも侵せず、結ばれたふたりだけの大事な約束。
……さぁ、おまじないの言葉を一緒に唱えて。"私たち"を終わらせて、"ふたり"を始めよう。
──こん、こん。
.
あらしの月夜 なかの @petitwaffle
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