第七章

しあわせ

 とある日のお昼時。僕は、マーリネイト嬢の自室で読書に耽っていた。僕らの間に目立った会話はなく、ページをめくる音だけが、部屋の中に反響している。


 そこにあるのは文章だけなのに、鮮明に情景が浮かび上がり、登場人物の心情に共感を覚え、時には反感を抱き、次々と繰り広げられる冒険に心を躍らされる。


 僕の意識はすっかり物語の世界に吸い込まれていた。


 心地の良い沈黙に身体を漂わせながら物語を追っていると、部屋の扉が優しく叩かれた。


 扉の向こう側から姿を見せたのはタリスさんだった。


「お二人宛てに、マルタポーさんからお手紙が届いています」


 その言葉通り、タリスさんの手には一通の手紙が握られていた。つい先ほどまで読書に夢中になっていたばかりの僕らの興味は、すっかりその手紙の中身へと移っていた。


 手紙を受け取ったマーリネイト嬢は、紙の上にぎっしりと並ぶ文字に視線を走らせる。そんな彼女のそばにぴたりと寄り添いながら、僕は彼女が手紙を読み終えるのを待った。


 手紙を読み終えたであろうマーリネイト嬢が、ふうと柔らかく息を吐いた。彼女の表情は明るい。


「父が、もうすぐ帰ってくるそうです。出先での用事にひとまず区切りがついたのと、町の空気が恋しくなったとかで。あとは、なるべくもっとたくさん手紙を書いて送ろうとは思っていたのに、結局この手紙だけしか送れなかったことを申し訳なく思っている、と。それから……」


「それから?」


「詳しい内容は伏せられているのですが、私とレドフィル様のために素敵な贈り物を用意しているらしいです」


 素敵な贈り物、と聞いてパッと思い浮かぶようなものと言えば、出先で見かけた珍しい品物だろうか。彼がどこに出かけたのかが知らされていない以上、その品物がどんなものか細かく予想することはできないが、僕に思いつくのはこれくらいだ。


 その素敵な贈り物とやらの正体がなんであるかを、あえて秘密にするくらいなのだから、楽しみに待っておいて損はないだろう。


 ただし、贈り物が届くのを待つだけじゃつまらない。僕らも既にとっておきを用意してある。


「まあ、実際に驚くことになるのはマルタポーさんの方だと思うけど」


「どうでしょうか。父もこうなることはずっと前から望んでいましたし、驚きよりも感動の方が優って、その場に倒れ込んで泣き始めてしまったりとか」


「アハハ。たしかに、そっちの方があり得そうな感じがするね。ともかく、マルタポーさんが帰ってきたらすぐに報告しようか」


 マルタポー氏に何を報告するつもりでいるのか。それはもちろん、僕とマーリネイト嬢の結婚についてだ。


 屋敷での生活で徐々に心を通わせあった僕たちは、ついに結婚を誓い合う仲となった。正式に夫婦として名乗れるようになるまでにはもう少し時間がかかりそうだが、思い描くので精一杯だった憧れの日々が、とうとう手の届く場所にまで到達点が近づいてきている。


「ああ、ついに私はレドフィル様と結ばれるのですね!」


「……ネイトさんにはだいぶ長い間待たせちゃったね。どれもこれも、僕がなかなかはっきりとした答えを出せないままでいたからさ……」


「気になさらないでください。今日に至るまでに様々な出来事がありましたけど、私たちはこうして無事に愛を育みあっている。それでいいではありませんか。『終わりよければ全てよし』という言葉もあるくらいですし」


 ああ、僕は彼女に出会えて、そして、彼女のことが好きでいられて本当に嬉しい。


 いてもたってもいられなくなった僕は、マーリネイト嬢の肩を抱き寄せ、彼女の耳元でこう囁いた。


「僕、今すっごく幸せだな」


 肩を抱く僕の手に、彼女はそっと自分の手を重ねて、


「私もです。レドフィル様」


 その日の夜は、この喜びと幸せを分かち合うかのように激しく愛し合った。喘ぎ、身をよじり、汗を流し、火照りを分かち合い、愛を囁きあい、共に果てた。


 こんなにも満たされる夜は初めてだった。足りないものなどないと自信を持って言えるほどの、圧倒的な充足感。


 事を終えた僕らはベッドの上に横たわり、裸のまま寄り添いあってお互いの熱を直に感じながら、他愛のない話を繰り広げた。


「レドフィル様。私、今夜は眠りたくありません」


「どうして。もうだいぶ眠そうだけど」


「目を閉じて夢を見るよりもずっと素敵な光景が、目の前にあるんですもの」

「……同感。このまま眠ってしまったら、朝起きた時に後悔しそう」


 何も言わずに僕らはそっと口づけをした。


「だからもう少しだけ、お話しませんか?」


「もちろん」


 そうは言っていたものの、マーリネイト嬢は睡魔に負けた。微睡みながらも、少しでも長く会話を続けて眠気を誤魔化そうと、懸命な努力はしていたようだったが、途中からは口数も少なくなり、ついには穏やかな寝息をたて始めた。


 眠気に抗ってでも僕と一緒に過ごしたいという彼女の姿勢は、胸の真ん中あたりにかすかな痛みを覚えるほど、僕をときめかせた。こればっかりは、馴れそうにない。


 眠るマーリネイト嬢の頬と髪を優しく撫でた後に、僕も目を閉じた。火照りが冷めてもなお残る、幸せの余韻に浸りながら。

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